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上り786段、下り1段の石段参道でこんぴらさんに詣でる

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綾川町で取材をした際、琴平町に宿をとり、夕食のため町を散策しながら店を探した話( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )を、以前の記事で書きました。ただ、その記事では、骨付鶏がメイン・コンテンツになっていたので、はしょりましたが、琴平と言えば「こんぴらさん」です。 というわけで、今回は金毘羅宮のお話です。 金毘羅宮は、標高538mの象頭山に鎮座し、門前町から本宮まで785段の石段が続きます。奥宮までは、更に583段上らなければならず、本宮までと合わせると1368段となります。ちょうど1カ月前の記事( 立石寺 - 岸を巡り岩を這いて仏閣を拝す )で、参道が1015段の山寺について書き、ついでに日本一は熊本県美里町にある金海山大恩教寺の釈迦院に通じる3333段の石段だと付記しました。 ちなみに、神社に限ると、山形県・羽黒山神社の参道2446段が日本一で、金刀比羅宮はその次、第2位となるようです。また、本宮までの石段は、実際には786段らしいのですが、これだと「7(な)8(や)6(む)」で語呂が悪いと、本宮手水舎の手前で参道を一段下げることで「悩みを落とし」、785段になったと言われています。 ところで、「全ての道はローマに通ず」じゃないですが、江戸時代には、「讃岐の道は金比羅に通ず」と言われるほど、多くの参詣者がありました。それも、讃岐の人だけではなく、全国から人が集まったのです。当時のことですから、瀬戸大橋も明石海峡大橋もありません。当然、本州からは船になります。 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』はシリーズもので、最初の1冊は、1802(享和2)年に発表された『浮世道中膝栗毛』でした。これは、ご存じ弥次郎兵衛と北八の箱根紀行でしたが、これが評判を呼び、翌年『東海道中膝栗毛・後編』が出ると、そこから「三編」「四編」と毎年1冊ずつ発表され、結局、「八編」まで続きました。十返舎一九は、ここで「膝栗毛」は終了としたのですが、発行元が黙っていません。 実は十返舎一九、若い頃、大坂にいたことがあり、ある時、用事で高知へ行ったついでに象頭山に参詣し、善通寺、弥谷寺(71番札所)を回ったそうです。それを知っていた発行元は、金毘羅さんへの紀行を書けと再三にわたって要請。これを断り切れなくなった十返舎一九先生、とうとう『金毘羅参詣続膝栗毛』として、1810(文化7)

観光客0の町を、年間100万人が訪れる町に変えた観光カリスマ

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  出石については、このブログでも一度、記事を書いていますが、最初に行ったのが1987(昭和62)年で、以来3、4回は行っています。そんな出石の話題が、テレビ朝日の人気番組「激レアさんを連れてきた」で取り上げられました。というか、画面は見ていなかったのですが、「辰鼓楼」と「甚兵衛」という言葉が、耳に入ってきたのです。 最初に行った時、取材先の方に連れられて入った、出石名物・皿そばの店が、甚兵衛でした。その4年後に、町並みを中心に取材した時には、辰鼓楼はもちろん、甚兵衛で皿そばの取材、撮影もさせてもらいました。 そんなわけでテレビを見ると、出ていたのは、甚兵衛の渋谷朋矢さんという方でした。私がお会いしたのは、創業者の渋谷勝彦さんで、朋矢さんはその息子さんだろうと想像しました(後で聞いたら、婿養子さんだったようです)。 で、激レアさんとして連れてこられたのは、「町の自慢である日本最古の時計台の歴史を調べたら最古ではなく2番目だと判明し、町の誰にも言えず1人で震えていた人」としてでした。そう言えば、番組の3カ月ほど前のニュースで「最古論争に決着」として、札幌の時計台と共に日本最古の時計台と呼ばれてきた辰鼓楼は、実は日本で2番目だったと報じられていたことを思い出しました。で、事もあろうに、それを暴いちゃったのが、地元・甚兵衛のご主人だったんですね。 私も以前、雑誌に出石の記事を書いた時、次のように紹介していました。「但馬の小京都と呼ばれる豊岡市出石は、日本最古の時計塔『辰鼓楼』や、江戸中期に建てられた酒蔵など、郷愁を誘う美しい町並みで、多くの観光客を引き付けている」。むむむ・・・違っちゃったじゃないの。 しかし、実は出石の観光協会では、案内板や観光パンフレットに「日本最古」と紹介されていても、ウラが取れていないため、いつも「日本最古かもしれない」と明言を避けていたそうです。そのため、最古じゃないと分かって、逆にほっとしたらしく、「これからは堂々と、日本で2番目に古い時計台」と名乗れると喜んだとか。また、周囲の反応も好意的で、観光客が減るような心配もないようです。 そんな出石ですが、50年前には、観光を目的に出石を訪れる人など皆無に等しいものでした。京阪神から天橋立や城崎温泉など、有名観光地へ向かう途中にありながら、出石は完全スルーだったのです。 潮目が変わったのは1968(

日本仏像界の人気スター阿修羅が待つ興福寺

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数えでちょうど50になる年の1月下旬、久々に奈良駅に降り立ちました。その日はとても寒く、駅を出ると、空から白いものがちらちらと落ちてきました。 昼を回っていたので、まずは腹ごしらえと、奈良の街に足を踏み出しました。しかし、町並みに全く記憶がありません。思えば、高校の修学旅行以来の奈良だったのです。 そう言えば、中学の修学旅行も京都、奈良でした。が、思い出に残っているものと言えば、京都の清水寺と、旅館でのバカ騒ぎぐらいのものでした。 高校の時は、興福寺の阿修羅像にひかれたことを覚えています。 阿修羅は本来、古代インドの戦闘神で、神々の王である帝釈天に戦いを挑む鬼神でしたが、後に釈迦に帰依して守護神となりました。三つの顔に六本の腕を持つ、そんな荒ぶる神が、興福寺でいちばん人気の仏像なのです。興福寺・国宝館の床は、阿修羅像の前が、最も傷みが激しいといいます。 人気の秘密は、清楚な少女を思わせる、そのはかなげな表情にあります(もちろん、阿修羅は男です。だから、少女ではなく美少年と言った方が正しいのでしょうが、とりあえずこの記事では、あえて少女路線で突っ走ります)。 で、実はこの阿修羅像、復元模造プロジェクトのリーダーを務めた小野寺久幸さん(美術院 国宝修理所長)が、「阿修羅像のモデルはおそらく少女」と言っているのです。この説を唱える専門家は結構多いようで、個人的には肩入れしたくなる説です。 私の目的は、その阿修羅がいる興福寺の五重塔でした。ただ、冒頭にも書いたように、この日は時折、雪もちらつく空模様。おかげで国宝館に退避し、阿修羅に再会出来ましたが、それで満足して帰るわけにはいきません。一応、仕事で来ているので・・・。 そんな祈りが通じたのか、夕方になると風が強まり、雲が流れていきます。やがて日が差し始め、青空も見えてきました。しかし、晴れたとはいえ風が強く、人気のない境内で、寒さに震えながら自分の境遇を呪ったものです。結局、夜に出直し、ライトアップされた五重塔を撮影しましたが、この時の方が風がなく、寒さも感じませんでした。人生、そんなものですね。 ところで、五重塔は、もうすぐ約120年ぶりとなる大規模修理に入ります。それを前に、この3月1日から31日まで、ふだんは拝観出来ない塔の1階部分の特別公開が行われる予定でしたが、新型コロナウイルスの感染急拡大に伴い延期となりました

北陸の銀閣寺とも称される松桜閣

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黒部で「くろワン・プロジェクト」について話を伺った菅野寛二さんは、取材が終わった後、庭が黒部市指定名勝になっている「松桜閣」に案内してくれました。松桜閣は、富山地方鉄道の新黒部駅と舌山駅のほぼ中間にあり、北陸新幹線黒部宇奈月温泉駅からも歩いて5分ぐらいの所にあります。 もともとは、富山県の初代県令(県知事)国重正文の住居として、1883(明治16)年、富山市に建てられました。5年後、国重氏が内務省社寺局長として転任した後、空き家になっていたところを、1891年に黒部の豪農・西田豊二が買い取り、現在の場所に移築しました。 その後、永平寺64世貫首・森田悟由禅師(号・大休)に帰依し、得度した佐々木太七郎が、明治末に、西田家から屋敷ごと購入し、大休庵を結びました。そして、太七郎の子である尼僧・即妙師が、1931(昭和6)年に曹洞宗の寺院として開山。旧国重邸の隣に本堂を建立し、46(昭和21)年に寺号を大休山天真寺に改め、現在に至っています。 市の名勝に指定されている庭は、1898(明治31)年、豊二の弟・収三により、1530坪の回遊式大庭園として作庭されたものが、基礎になっています。それが、大休山開山の翌年、地元の庭師・城川久治が、近江八景を模して改修し、今の姿になったということです。 しかし、近年は、旧国重邸の老朽化が進み、文化財的価値は失われつつあったようです。そんな状況を憂えた地元の方たちが、NPO法人「松桜閣保勝会」を作り、松桜閣の復活に立ち上がりました。そして、大工と庭師の育成を目的とする富山市の専門学校・職藝学院の上野幸夫教授に相談し、同学院の学生たちによって復元工事が行われました。 ちょうど、北陸新幹線開業の時期でもあったため、天真寺の了承も得て、黒部宇奈月温泉駅からも近い観光スポットとして、庭園と邸宅を開放。天真寺境内にありながら、松桜閣と庭の管理・運営は、松桜閣保勝会が担当しています。 松桜閣の数寄屋造りは全国的にも珍しい、建築学的に貴重なものだそうです。新幹線駅からも歩けますし、その後、舌山駅から地鉄に乗れば、宇奈月温泉までは24分。温泉前に、立ち寄ってみてはいかがでしょう。

千駄木・根津・湯島、日本武尊伝説ゆかりの地を巡る

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長瀞の寶登山神社、酉の市発祥の花畑大鷲神社に続く、日本武尊東征伝説の第3弾です。今日の舞台は、東京メトロ千代田線の根津駅から、歩いて5、6分の所にある根津神社(文京区)になります。 根津神社は、日本武尊が東征の折に、戦勝祈願のため、今の団子坂辺りに創祀したのが起源とされています。その後、時を経て、江戸城を築いた太田道灌が、社殿を造営しました。 更に時代が下って江戸時代、5代将軍徳川綱吉が、兄綱重の長男綱豊を養子とし、後継に据えた際に、屋敷地を根津神社に奉納し、神社の大造営に取り組みます。現存する社殿や透塀、唐門、楼門などは、この時建てられたもので、これに伴い、旧社地の千駄木から、現在地へ遷座されました。ちょうど、千代田線の千駄木駅から根津駅へ移動したような案配です。 綱吉による、天下普請と言われた大造営は、1706(宝永3)年に完成。その社殿は、権現造が特徴となっています。権現造は、石の間と呼ばれる一段低い建物を挟んで、本殿と拝殿をつなぐ構造で、平安時代に京都の北野天満宮で初めて造られました。かつては八棟造と呼ばれていましたが、日光東照宮に採用されてから、徳川家康の神号・東照大権現から権現造と呼ばれるようになりました。 北野天満宮は、何度も火災に遭っており、現在の社殿は、豊臣秀頼により1607(慶長12)年に造営されたもので、同じ年に伊達政宗によって創建された大崎八幡宮と共に、現存する最古の権現造となっています。日光東照宮は、それに遅れること10年、1617(元和3)年に社殿が完成。以来、権現造は神社建築に多く用いられるようになり、綱吉もこれを踏襲したのでしょう。 根津神社は、北野天満宮と違い、火災に遭うこともなく、また関東大震災や東京大空襲などからも免れ、どれ一つ欠けることなく現存しており、国の重要文化財に指定されています。特に、楼門は、江戸時代から残っているのは、都内で根津神社だけといいます。ちなみに、正面右側の随身は、水戸黄門こと水戸藩第2代藩主徳川光圀がモデルとも言われています。 また、社殿をぐるりと取り囲む塀は、格子越しに反対側が透けて見えることから「透塀」と呼ばれています。この透塀は、「唐門東方」「西門北方」「唐門西門間」の三つに分けて重文指定がされていますが、これは唐門と西門の所で分断されていると判断されたためです。透塀は銅瓦葺で、総延長は108間(約