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愛媛を代表するB級グルメと、みんな大好き国民食のコラボ

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2018年7月に起こった西日本豪雨で甚大な被害があった愛媛県の宇和島市吉田町、西予市野村町、大洲市の3カ所を取材した帰り、JR松山駅でB級グルメ好きの心を刺激するのぼりを発見しました。駅構内にあるカレーショップデリーの「やきぶたたまごカレー」です。どうやら「自慢のカレーで焼豚玉子飯を応援」とのコンセプトで始めたようです。焼豚玉子飯は、知る人ぞ知る今治市のB級グルメで、既にこのブログでも一度紹介していますが( 鉄板焼き鳥にセンザンキ、焼豚玉子飯 - 今治のソウルフードはすごいぞ )、今回はそのつづきみたいなものです。 さて、カレーで「デリー」と言えば、1956(昭和31)年に東京・湯島で創業した老舗インドカレー店が頭に浮かびます。が、松山の「デリー」は、そちらとは特に関係ない模様。1971(昭和46)年に、四国で唯一の地下街「まつちかタウン」にオープンした「カレーショップデリー」の支店になるそうです。 のぼりには「やきぶたたまごカレー」とありましたが、掲示メニューには「焼豚玉子カレー」と書かれ、しっかり今治のB級グルメを継承していました。「デリー」は松山駅の北側にありますが、反対の南側にある「麺小町」という喜多方ラーメンの店で、「焼豚玉子飯」をメニューに載せており、焼き豚はこの店から融通してもらっているとのこと。ホンモノの焼き豚を使っているってことですな。 ネットでクチコミを見ていると、かなりの人が、この焼豚玉子カレーを食べています。が、愛媛を代表するB級グルメと、みんな大好き国民食とのコラボに、これがうまくないわけはないと手放しで喜ぶ人がいる一方、別々に食べたいとする人も相当数いて、評価は真っ二つ。私も、正直なところ別々派ですが、これはこれで食べること自体に意義があると思うB級好きです。 そんなこんなで、予定外の場所で「焼豚玉子カレー」を食べた私、ホテルは駅の近くだったので、まずはチェックイン。そして、まだ空いているであろうサントリーバー「露口」へ行こうと、大手町駅前から路面電車で大街道を目指すことにしました。 すると、大手町駅の手前に踏切があり、線路が交差しています。あれ? これって、前に聞いた、電車の交差点か? そう思いました。 というのも、その4年前、「露口」で隣り合ったお客さんから、松山には日本で唯一、一般電車(鉄道)と路面電車(軌道)が交差するポイントがあ

函館本線長万部駅の名物駅弁「かにめし」

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いつだったか忘れましたが、函館から札幌へ特急列車で移動した時のこと。途中の長万部駅で、名物駅弁の「かにめし」を買ったことがあります。私の中では、カニの駅弁というと、この長万部の「かにめし」を一番最初に思い浮かべます。 ある時、交通新聞社のウェブマガジン『トレたび』で、「日本全国駅弁の旅」という企画を見つけました。その第11回がカニ駅弁で、リードは次のようなものでした。 「昭和27年に初めて販売されて以来、根強い人気を誇るのがカニ駅弁。今回は、カニ好きの、カニ好きによる、カニ好きのための特集をお届けします!」 そして、北海道・釧路駅のたらば寿し、石川県・加賀温泉駅のかにすし、鳥取県・鳥取駅の元祖かに寿し、兵庫県・豊岡駅と城崎温泉駅の城崎のかにずし、福井県・福井駅などの越前かにめしの5点が紹介されていました。 あれ? 長万部の「かにめし」がないじゃない・・・。『トレたび』は、1952(昭和27)年発売開始の元祖かに寿し(鳥取駅)を最初のカニ駅弁としていますが、長万部の「かにめし」は、それより2年前の1950(昭和25)年に駅弁として販売を始めてるんですがね。 というわけで、専門の交通新聞社でさえ、追い切れていないのか、と思いきや、同じ『トレたび』の「旅行ガイド」という別企画に掲載された記事には、「カニを使った駅弁は各地で発売されているが、元祖は長万部『かにめし本舗かなや』の『かにめし』」と、きっちり書かれていました。 かにめし本舗かなやは、昭和初期に、鉄道交通の要衝として栄えた長万部駅で、弁当を販売していた長万部駅構内立売商会(1928[昭和3]年創業)が前身です。かにめしは、第2次世界大戦直後、食糧難で弁当の食材が入手困難だったことから、噴火湾でとれた毛ガニを塩ゆでし、弁当の代わりにホームで立ち売りしたのが始まりです。 しかし、「煮かに」は毛ガニの漁期以外には販売出来なかったため、カニのおいしさを1年中味わってもらえるようにと、何度も試作を重ねた末、1950年に完成。駅弁「かにめし」として販売をするようになりました。最盛期の昭和30年代には、15人の売り子がホームに並んだといい、長万部の「かにめし」は、一躍、北海道の名物となりました。 それが今年になって、北海道新幹線の札幌延伸に伴い、函館本線長万部~余市間の廃止が確定。函館~長万部間の存続も厳しく、北海道新幹線並行在

東武スカイツリーライン西新井駅の「西新井らーめん」

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我孫子駅の唐揚げそば( 常磐線我孫子駅「弥生軒」の唐揚げそば )、鳥栖駅のかしわうどん( 鳥栖駅6番ホーム「中央軒」のかしわうどん )に続いて、西新井駅の立ち食いラーメンの紹介です。 ホームの立ち食いそばは、かなりの数があると思いますが、ラーメンは珍しいのではないでしょうか。国民食の一つと言われるほど人気のラーメンなのに、なぜホームの立ち食いというとそばやうどんが中心になるんでしょう。駅のホームという場所柄、提供までの時間が問題なんですかね。 それはともかく、西新井駅のラーメンは、1983年に埼玉県越谷市へ引っ越し、築地へ通勤するようになって、その存在を知りました。 ちょっと身の上話をすると、私は新宿区生まれ、小金井市育ちで、結婚するまではJR中央線の武蔵小金井駅から歩いて5分ほどの所に住んでいました。一方、妻の実家は中野で、結婚してからは、東村山市にアパートを借りて住んでいました。しかし、義父はリタイア後、故郷である茨城県古河市に移住する予定だったこと、また私の事務所が築地であることから、両方に利便性がある東武伊勢崎線沿線に的を絞って、家を探しました。 結果、越谷市で土地を見つけて家を建てることになり、妻と2歳前の長男の3人で埼玉県人となりました。その後、長女が生まれ、更には年月を経て長男、長女が結婚して孫も生まれましたが、一昨年まで東武線での通勤が続きました。が、実のところ、わざわざ途中下車してまでラーメンを食べようとは思わず、「西新井らーめん」を食べたのは、長男が小学校高学年の一時期だけでした。 「西新井らーめん」を食べることになるきっかけは、中学受験を控えた長男の日曜テストでした。当時、四谷大塚のテストを受ける長男とその友人に付きそうのが、毎日曜日の恒例になっていました。で、西新井駅で準急に乗り換えたりする際、めざとく「西新井らーめん」を見つけた長男のリクエストで食べることになったのです。 以後、それが恒例のようになり、今では2人の子どもの親となった長男は、初詣で西新井大師へ行き、帰りに家族で「西新井らーめん」を食べるというのが、正月の恒例行事になっているようです。別に親から親へ代々受け継ぐ恒例行事にしなくてもいいんですが・・・。子どもの頃の思い出って、変なところで残っているのかもしれませんね。 東武伊勢崎線は、1899(明治32)年に北千住駅から久喜駅まで

鳥栖駅6番ホーム「中央軒」のかしわうどん

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今から20年近く前、サロンパスで知られる久光製薬の元会長・中冨正義さんにお会いするため、佐賀県鳥栖市を訪問しました。事前にご本人と約束し、「白寿のジョガー」として取材させて頂くことになっていたため、鳥栖到着後、真っ直ぐご自宅へ伺いました。 1905年生まれ中冨さんは、60代も後半を迎えたある日、旧友から高齢者マラソン出場を誘われました。学生時代は陸上部でしたが、50年近くも走りから遠ざかっていました。いったんは無理だと断ったのですが、旧友の「途中で歩いてもいいから」の一言にカチン。生来の負けず嫌いが頭をもたげ、練習に励んだ末、見事完走。 これをきっかけに、その後、国内外の大会へ次々と出場。ついには82年、77歳の時にホノルルでフルマラソンを走ってしまいます。以来、ホノルルには15回連続出場。サロンパスの試供品を詰めた大きな袋を肩からかけ、沿道の観衆に配りながら走るのが名物となりました。 実は中冨さんとはそれ以前に、どこかのホテルで偶然お会いしたことがありました。その時、乗り合わせたエレベーターで、同行されていた方が持っていた袋からサロンパスを取り出し、渡されたことがあります。突然のことで驚いたのも確かですが、ホノルル・マラソンでサロンパスを配るエピソードは聞いていたので、結構うれしくなったものです。 そんな話を枕に、いろいろ伝説的エピソードを伺おう、なんぞと考えながら、中冨家のインターホンをピンポーン。すると、家の方が出てこられ、中に入れてくださいました。取材のため中冨さんにお会いしたい旨伝えると、いま旅行に出ているとの返事。 呆然とする私に、ご家族が申し訳なさそうに声を掛け、経緯を聞いた上で、少し待ってほしいと。しばらくして、手ぶらでお帰しするわけにはいかないので、とりあえずマラソン関係も含め、エピソードを詳しく知っている関係者の方に集まってもらうことになった、とのこと。 せっかく手配をしてくださったので、そちらに出向き、お話を伺うことにしたのですが、行ってみると、結構な人数が集まっており、これも中冨さんの人徳なのだろうと察しました。で、基本的なエピソードはそこで伺い、後でご本人からは電話取材でコメントをもらうことにし、写真も先方が手配してくれることになりました。その後、世間話に入り、鳥栖の町についても、いろいろお話を聞かせて頂く中、気になる情報が飛び込んできまし

常磐線我孫子駅「弥生軒」の唐揚げそば

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全国の駅そばを30年にわたって食べ歩いた駅そば研究家による「全日本愛と感動の駅そばランキング」の第1位は、常磐線我孫子駅にある弥生軒でした。とはいえ、駅そば研究家の弥生軒評は「ごくありふれた駅のごくありふれた駅そば」。更にネットのクチコミでも「そばは普通」との評価が多いのです・・・。 それがなぜ、駅そばNO1なのかというと、その秘密は、平成になって始めたトッピングの唐揚げにあるようです。ボリューム満点の唐揚げは、たちまち人気となり、やがて客の絶えない駅そばになったのです。 ただ、唐揚げは作り置きなので、常連の間では、つゆに浸し温かくしてから食べるという裏技が定番らしいことも分かりました。 で、ある日、私も我孫子駅へ行ってみました。 実はこれ、編集部の若手スタッフが担当するコラムの代打取材だったのです。というのも、直近の出張で、ちょっとした食べ物ネタを扱うコラムの取材も一緒にやってくるはずが、体調不良により取材が出来なかったということで、私が急遽、何かをやっつけなくてはいけなくなったのです。 そこで、他の企画と場所がかぶらず、しかも近場で取材出来るもの、という条件の中、弥生軒の唐揚げそばを選びました。もちろん朝食を抜き、それなりに構えて行ったのですが、それにしてもヘビーな駅そばで、既に若手ではなかった私には結構堪えました。 ちなみに、朝9時の段階で、1・2番ホームの唐揚げは売り切れ。仕方なく階段を上り下りして隣のホームでゲットしました。それでも、私の唐揚げが最後の1個でした。唐揚げは、外で作って運んでくるらしく、次に入るのは10時過ぎ、とおばちゃんが客に説明していました。 ところで、もう一つ、この店を有名にしているものがあります。山下清です。 清は昭和17年から5年間、住み込みで働いていました。弥生軒は当時、駅弁を販売していたのですが、その弁当の包装紙には、清の絵が使われていました。 ただ、その間も清の放浪癖は治まらず、旅から戻る度に、社長から怒られるという繰り返しだったそうです。

富山駅の新旧グルメたち

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昨日の記事( 日本酒好きのワンダーランド・ぽんしゅ館で味わう「鶴の友」 )で、上越新幹線越後湯沢駅構内にある利き酒施設「ぽんしゅ館」を紹介しました。ここは、新潟県内の酒蔵が、全て利き酒出来る施設ですが、富山駅にも以前、駅ナカ角打ちがありました。 「ぽんしゅ館」がある新潟は、日本屈指の酒どころですが、お隣の富山も負けていません。立山、勝駒、満寿泉、三笑楽、銀盤など、おいしい地酒が目白押しです。富山駅の駅ナカ角打ち「つりや」は、それらの銘柄が5種類ずつ定期的に入れ替わり、1杯200円で試飲出来るようになっていました。 そんな駅ナカ角打ちですが、コロナ禍でどうしたか検索してみたら、コロナ禍以前の2019年1月に撤退していることが分かりました。っていうか、富山駅自体、だいぶ変わっているようです。 最後に富山へ行ったのは2018年5月で、当時も工事中でしたが、地元ではないので、今後どうなるかなどは特に気にしていませんでした。が、この3月18日には、富山駅南口にホテルと商業施設の複合ビル「MAROOT(マルート)」がオープンし、これに歩調を合わせて、駅前にあった商業施設「マリエとやま」の一部機能がマルートへ移転。マリエはいったん閉鎖した上で大規模リニューアルをし、今年秋頃、新装オープンするようです。 富山駅では、夜のラーメン屋台を含め、シロエビの天丼を食べたり、列車待ちの間にシューパフェを食べたり、ます寿司を買ったりと、結構飲食をしていたんですが、今や知っている店はないかも状態となっています。 そんな中、駅ナカ角打ちの「つりや」と同じ、きときと市場「とやマルシェ」に入っていた「白えび亭」は、今も健在のようです。以前、富山でライフスキル教育を取材した後、講師の方を空港へ送るという地元の方から、途中でシロエビの天丼をご馳走するという話を聞き、新幹線で帰る私はよだれを垂らしながら、それを見送ったものです。 それからしばらくして、富山に日帰り出張があり、昼前に富山駅に降り立ちました。で、シロエビを食べたいと切望していた私、当時は富山駅ビルの3階にあった「白えび亭」に入りました。今はどうか知りませんが、その頃は食券を買うシステムでした。そこで、ショーケースにある番号と機械の番号を照合し、シロエビの天丼 with 刺身を注文した・・・つもり。 が、出てきたものは、あちらさん曰く「えびえび丼

日本酒好きのワンダーランド・ぽんしゅ館で味わう「鶴の友」

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以前の記事で、新潟県のJR越後線内野駅が、かつて「鶴の友」駅と呼ばれていたことを紹介しました( 杜氏の技と蔵元のこだわりが生む越後の隠れた銘酒たち )。これは、駅舎の上に「鶴の友」という巨大看板が立っていたためで、「内野駅」の看板はその隣に、ひっそりと掲げられていました。 「鶴の友」とは、内野にある樋木酒造の日本酒です。樋木酒造は超がつくほど地元密着型の蔵元で、地元の人の口に合った酒造りを目指しています。そのため、「鶴の友」も新潟市以外にはほとんど出回らず、県外不出の地酒となっていますが、その旨さは口コミなどで広まり、今や知る人ぞ知る幻の銘酒となっています。 私の場合、築地の事務所近くにあった老舗のそば店「さらしなの里」に「鶴の友」が置いてあったことから、時々、飲むことが出来ましたが、東京を始め関東圏ではめったにお目にかかれないと思います。一度、北海道の函館に行った際、「鶴の友」を置いてあるという理由で店を選んだことがありました( 銘酒「鶴の友」がある函館の居酒屋てっ平 )。その時は、残念ながら品切れだったんですが、日本酒のラインアップに「鶴の友」が入っているだけで、その店を信頼してしまうほど、私にとって好きな銘柄となっています。 そんな「鶴の友」を確実に味わえるのが、「ぽんしゅ館」です。 「ぽんしゅ館」は、新潟県湯沢町にあるレルヒという会社が運営しており、「新潟人も知らない、新潟を売る、新潟の専門食品店」を標榜しています。扱っているのはお酒だけではないのですが、県外の人間からすると、「ぽんしゅ館」という名前からして、完全に日本酒のお店だと思ってしまいます。 私の初「ぽんしゅ館」は、上越新幹線越後湯沢駅構内の店舗でした。ここは1995年に出来た店で、以後、2013年に新潟駅、2017年には長岡駅にも開店しています。 で、目玉は何と言っても、ぽんしゅ館オリジナルの利き酒設備です。日本酒王国・新潟の酒蔵が、全て利き酒出来る越後のお酒ミュージアムで、日本酒好きにとっては、ワンダーランド的施設でしょう。 また、第1号店の越後湯沢駅店には、「湯の沢」という酒風呂もあって、定期的にお風呂専用に薄めた日本酒が投入されています。日本酒の成分が血行を促進し、肌がすべすべ・体がポカポカになると言われ、新幹線や在来線の待ち時間などに利用する旅行客もいます。 そんな施設だけに、新幹線の駅な

全国的にも珍しい温泉付き駅舎・ほっとゆだ駅

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横手のかまくらを取材した後、JR北上線で西和賀町を訪問した話を以前の記事( 岩手県一の豪雪地帯西和賀町の冬 )に書きました。その際、下車したのが、「ほっとゆだ」駅でした。  ◆ ほっとゆだ駅は、全国でも例を見ない温泉付きの駅舎です。ただ「温泉付き」とはいえ、外に出て駅舎を眺めると、どう考えても、併設の温泉の方がメインに見えます。湯田温泉峡のシンボルとしての存在感は確実にあるようです。 湯田温泉峡には、湯本温泉、湯川温泉、大沓温泉、巣郷温泉があり、20軒ほどの宿が営業しています。この他、駅の温泉「ほっとゆだ」を含め、日帰り温泉が10箇所あります。 ちなみに駅舎内の「ほっとゆだ」は、源泉かけ流しで、午前7時から午後9時の営業。大浴場には信号機が設置してあり、青・黄・赤の色で列車が近づいたことを知らせてくれます。というわけで、私も帰りに入ってみることにし、まずは目的地の錦秋湖へ向かいました。  ◆ ほっとゆだ駅については、こんな記述でしたが、駅は元々1922(大正11)年に、横手を起点とする国鉄西横黒線(にしおうこくせん)の終点・陸中川尻駅として開業しました。西横黒線はその後、24(大正13)年に陸中川尻まで延伸した東横黒線に編入され、横黒線に線名を変更。岩手県の黒沢尻駅から秋田県の横手駅を結ぶ路線として開業しますが、54(昭和29)年に黒沢尻町が周辺の6村と合併して北上市になったのを機に、黒沢尻駅を北上駅に改名し、66(昭和41)年には線名も北上線に変更されました。 国鉄民営化後、陸中川尻駅は、旧湯田町が費用の3分の2を負担して、木造2階建ての新駅舎を建てました。また、湯田温泉峡を持つ町のPRと活性化も兼ねて温泉を掘り、89(平成元)年4月1日、温泉付き駅舎のほっとゆだ駅として運用を開始しました。 温泉施設ほっとゆだの入浴料は大人440円、子ども260円で、1600円で利用出来る貸切風呂もあります。私は、錦秋湖の雪景色を撮影した後、列車の待ち時間を利用して「ほっとゆだ」で冷えた身体を温めましたが、中にはわざわざ途中下車をして温泉に入る好き者もいるようです。 まあ確かに、鉄道好き、温泉好き、どちらにとっても、行ってみたいスポットではあるでしょうね。それに私のような、鉄道、温泉にこだわりのない単なるミーハーも、近くに行ったら、寄ってみたくなること請け合いです。 ちなみに、ほ

今度はサンライズ瀬戸に乗車するの巻

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昨日の記事( 最後のブルートレイン・寝台特急「北斗星」に乗った話 )で、初めて寝台特急に乗った話を書きましたが、それから3年後、今度はサンライズ瀬戸に乗る機会がありました。東日本大震災の前々日から前日にかけてのことです。 2011年の3月は7日に雑誌の入稿を済ませた後、8日午後に会議があり、それを終えてから取材のために広島入りをしました。そして、翌9日午前中に広島市内で、子どもへの暴力防止を目指すCAP広島のワークショップを取材。午後には次の取材のため、岡山で特急しおかぜに乗り換え、四国は香川の多度津に入りました。 多度津では、以前の記事( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )で紹介したB級グルメ・多度津鍋ホルうどんの取材がメインでした。で、取材は当然、鍋ホルうどんを食べながらということになり、しっかり夜までかかりました。 取材をさせて頂いた多度津鍋ホルうどん普及委員会の皆さんは、私がその時間から東京へ戻ることなどさらさら考えていないようで、取材が一段落すると、今度は骨付鶏をアピール。結果、これが香川・骨付鶏3選のブログ記事につながったんですが、それはともかく、私が多度津を離れたのは9日の21時10分頃でした。 最初は岡山に泊まるつもりでいたのですが、多度津から岡山までの列車を検索していて、寝台特急サンライズ瀬戸の存在に気がつきました。岡山でサンライズ瀬戸に乗り換えると、東京駅には10日の朝7時過ぎに着きます。事務所に出るには早すぎますが、寝台特急の方がミーハー心をくすぐります。当然、寝台を選択しました。 ただ、サンライズ瀬戸は、私が岡山から乗った「しおかぜ」とはルートが異なり、宇多津駅管内を通って坂出へ向かいます。同じ香川県内であっても、多度津の場合は岡山で乗車する方が便利なようです。そのため、特急(南風)で岡山まで行き、そこでサンライズ瀬戸に乗車することにしました。 岡山に着いたのは22時頃で、サンライズ瀬戸の乗車時間は22時半ぐらい。既に夕飯は済ませていますし、時間も時間でしたが、何もないのも寂しいので、売店などで少し食べ物を仕入れ、スタバでラテを買って、列車に乗り込みました。 サンライズ瀬戸は、B寝台シングルにしたんですが、想像していたより狭い個室でした。閉所恐怖症の人は無理かもと思ったものです。岡山駅の段階では、近くの個室は空いて

最後のブルートレイン・寝台特急「北斗星」に乗った話

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北海道伊達市での取材後、寝台特急「北斗星」で帰って来たことがあります。 噴火湾に面した伊達市は「北の湘南」と呼ばれ、北海道の中では穏やかな気候で知られます。2008年にサミットが開催された洞爺湖の南、新千歳空港まで約100kmという場所にあります。 取材に行ったのは洞爺湖サミットのあった2008年で、伊達市の人口は約3万8000人でした。その中に、知的発達障害を持つ人たちが、たくさん暮らしており、「ノーマライゼーションの町」として全国区の存在となっていました。伊達の取材は、障害者自立支援をテーマにしたもので、民間企業に勤め、グループホームで暮らす方の生活を、丸1日密着させてもらいました。 最初はB寝台の上段でした で、取材を終え帰る段になって、ルートを検索したところ、出てきたのは寝台特急で帰るか、1泊して朝一番の飛行機で帰るかの2択でした。伊達市から新千歳空港まで、特急列車だと1時間20分ほどですが、本数が少なく、19時過ぎでは羽田へ向かう最終便には間に合いません。そこで、カメラマンの田中さんとも相談の上、北斗星で帰ることを選択しました。 北斗星は、青函トンネルが開業した1988(昭和63)年3月13日に、東京と北海道を乗り換えなしで結ぶ初の直行列車として運行を開始しました。それまでは、「津軽海峡冬景色」にあるように、上野発の夜行列車で青森まで行き、そこで青函連絡船に乗って北海道へ渡っていました。 札幌から上野までは、千歳線・室蘭本線・函館本線・津軽海峡線・青い森鉄道線・いわて銀河鉄道線・東北本線を通るルートになります。我々が乗車した伊達紋別駅は、室蘭本線の駅で、北斗星が17時過ぎに札幌を出てちょうど2時間、五つ目の停車駅となっていました。 イメージしていた寝台列車より個室が多かったのですが、同じ寝台料金で利用出来るとあって人気を集めており、既に個室は満員。田中さんと私は、上下2段の寝台が二つ並ぶB寝台の上段になってしまいました。寝台も荷物を入れるスペースも完全オープンなため、田中さんの機材が心配で、食堂車やサロンにも行けず、しばらく寝台で待機。 キャンセルがあったA寝台ツインデラックスに移動 その後、検札に来た車掌さんに個室のキャンセルがないか聞いたところ、ツインが空いているということで、差額7000円也を払って移動。ツインとはいえ、やはり上下2段の寝台でしたが、

ブルーインパルスの創設者・源田実さんに伺った話

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私がまだ20代半ばだった41年前の今日、当時参議院議員だった源田実さんのお話を伺う機会がありました。日本の防衛に関するお話でしたが、ロシア(当時はソ連)の考え方なども出て来ました。今回のウクライナ侵略で、それを思い出したので、お話の一部を抜粋して紹介します。 源田さんは当時4期目の参議院議員を務めていましたが、お話を伺うきっかけは、源田さんが隊長を務めていた赤十字飛行隊の調布支隊長で、自らセスナを操縦して災害救援などに当たっていた山口敏彦さんからの紹介でした。ちなみに源田さんは、1904(明治37)年、広島県の生まれで、海軍兵学校、海軍大学校を卒業。1941(昭和16)年には第一航空艦隊参謀として真珠湾攻撃の作戦計画に参加。戦後、昭和29年航空自衛隊に入り、航空総隊司令を経て、航空幕僚長を務めました。  ◆ 人類の6000年の歴史を見て、その中で侵略者が最終的に勝利をおさめた例は、ただの一度もない。例外がないんです。言葉をかえて言えば「異民族を武力で征服することは不可能である」ということです。 チンギス・ハーンがアジアからヨーロッパに至る、世界でいまだかつてない大帝国をつくり上げた。アレキサンダーは、ヨーロッパからインドまでの大帝国をつくった。今何が残っているのか。 現在、アフガニスタンがソ連に制圧されている。しかし、アフガニスタンのあの民族、必ず独立します。私ははっきりこの首を賭けて言えます。要するに、武力による異民族の制圧というのは、全くの無駄であり、罪悪であると。 過去の日本はどうでしょう。神功皇后様以来、何度韓国を制圧したかーー。今、だれが韓国を統治しているか。日本人か。日本の制圧に対する恨みは、韓国人の心の底に深く根を下ろしています。いまだに豊臣秀吉は恨まれているんです。 我々が韓国に行きますと、調子がいいです。政治家同士、高級官僚なんていうのは、みんな適当に飲んで「日韓親善」と……、「共に手を携えて、共産主義に対抗しようじゃないか」と。上の方は「そうだ、そうだ」と、こうなんです。向こうの兵隊に聞いてごらんなさい、どう言うか。 「まっぴらだ。我々だけでやる。日本とは手を携えない。我々は日本の支配下にあった40年を忘れることは出来ないんだ」 と言うんですよ。 今の韓国の兵隊は戦後派です。従って自分らの親から教えられることなんです。彼らはまたその子どもに教える

1995年3月20日 地下鉄サリン事件

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私が30代後半だった1995年の今日、東京でオウム真理教による無差別テロ、地下鉄サリン事件が起きました。世界初となる化学兵器を使ったテロで、13人の方が犠牲になり、6000人以上が負傷しました。 狙われた地下鉄は、日比谷線、丸ノ内線、千代田線の3路線で、いずれも警視庁や警察庁、検察庁などの中央官庁がある霞ケ関駅を通る路線でした。この中で、最も多くの犠牲者が出た日比谷線では、小伝馬町駅で4人、八丁堀駅で1人、築地駅で3人の方が亡くなっています。 当時、私が勤めていた編集部は築地にあり、自宅の最寄り駅からは1本で行くことが出来ました。しかし、その日は北千住の手前で電車がストップ。当初、原因は確認中との車内アナウンスが流れていましたが、やがて「築地駅で爆発事故があった模様」という情報がもたらされました。 後になって分かったのですが、乗客が車内非常通報装置を押し、サリンが撒かれた車両が停車したのが築地駅で、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームに倒れ込んだそうです。そして、それを見た運転士が、「車内から白煙が出て乗客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という話になったようです。 実際の日比谷線でのテロは、次のように実行されました。 1995(平成7)年3月20日(月曜日)、実行犯の林泰男はサリン3パックを携帯して、上野駅から日比谷線中目黒行きの3号車に乗車。秋葉原駅でサリンが入った袋に穴を開けました。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客の一人が、サリンの袋をホームに蹴り出しました。 これにより、電車は運行を継続。しかし、サリンの液体は車両の床に残ったままだったため、車内はパニックとなり、乗客は他の車両へ避難をし、非常通報ボタンを押すことになります。また、サリンの袋が蹴り出された小伝馬町駅では、ホームに広がったサリンを多くの乗客が吸引、4人の方が犠牲となりました。 当時、カメラ器材などを購入していた会社が、小伝馬町にありました。そこの店長は日比谷線の利用ではなかったため難を免れましたが、出勤はまさにテロがあった時間帯で、朝、小伝馬町駅の前を通り掛かったら、出口付近に大勢の人が倒れており、二日酔いにしてはずいぶん人が多いなあ、と思っていたとのこと。そんなのんきなことを思い浮かべるほど、無差別テロなどということが日本で起こるとは、誰もが予想もしていません

2006年3月19日 線路歩行初体験の巻

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今から16年前の今日、東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の高架線路上を歩くという貴重な体験をしました。 前日の18日から、高知県春野町(現・高知市春野町)へ、高校生のライフスキル教育を取材に行っていた私。取材を終えて、羽田空港へ戻ってきたのは、そんなに遅い時間ではありませんでした。 しかし、事務所へ出ても中途半端な時間だったので、そのまま直帰することにしました。それが結果的に、線路歩行初体験につながりました。 羽田空港へのアクセスは、電車だと京急とモノレールがあり、私の場合、京急を利用する時は東銀座か人形町で乗り換え、モノレールを使う時は山手線経由の秋葉原乗り換えになります。 で、その時は、羽田空港からモノレールを使い、浜松町で山手線に乗り換え、秋葉原で日比谷線に乗車しました。電車は、私の最寄り駅である北越谷行きで、とても順調に家路に就いていました。 が、しかし、北越谷駅の一つ手前、越谷駅を発車したところで、電車がストップ。 「強風により飛ばされたビニールが、架線に引っかかっているとの連絡が入りました。撤去まで、しばらくお待ちください」 との車内放送がありました。 アナウンスに切迫感はなく、すぐ動くのだろうと、高をくくっていたのですが、待てど暮らせど動く気配がありません。更には停車中は暖房も切れ、徐々に寒さが車内を包み始めました・・・。 結局、50分ほど待たされた挙げ句、撤去の見込みがつかないので、最後尾の車両から越谷駅まで線路伝いを歩いてほしいとのこと。そこで、最後尾の車両まで移動しました。 で、どうやって線路に下りるのだろうと思っていたら、駅員たちはやおら座席を取り外し、3本を使ってスロープを急造。ほうほう、こうやるのかあ、と関心しきりの乗客。 実際には、傾斜が結構きついので、お年寄りや女性たちはおっかなびっくりでしたが、私は、こんな経験なかなか出来ん、とうれしくなって線路に降り立ちました。 ちなみに、東武線は複々線になっており、もう1本の下り用線路は全く影響なしで運行していたため、しばらくして到着した電車で、ほぼ1時間遅れで無事、帰着することが出来ました。

大内宿を彷彿させる茅葺き屋根の駅 - 湯野上温泉駅

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会津美里町で本郷焼の取材をした際( 大人気漫画の聖地で出会った謎の看板 )、新白河駅でレンタカーを借り、国道289号と121号経由で会津美里町へ入りました。その記事にも写真だけ入れましたが、会津美里へ向かう途中、新白河駅から約45kmの地点に、湯野上温泉駅があります。 この駅は、1932(昭和7)年に国鉄会津線の湯野上駅として開業しました。民営化後の87(昭和62)年、会津線がJR東日本から第三セクターの会津鉄道に転換、駅名も湯野上温泉駅に改称されました。更にその年12月には新駅舎が完成しましたが、これが全国でも珍しい茅葺き屋根の駅舎で、鉄道マニアだけではなく、一般の観光客も多く訪れる駅となりました。 湯野上温泉駅は、観光スポットである大内宿( 江戸期会津の面影を今に残す街道の宿場町 )の玄関口で、茅葺き屋根も、そんな大内宿の街並みに合わせて葺き替えられました。また、待合室には茅につく虫を煙で追い払うための囲炉裏があったり、駅舎の隣には足湯があったりして、訪れる人を癒やしてくれます。 更にこのスポットは、会津の桜の名所ともなっており、ホーム沿いの桜並木が一斉に花を咲かせる春には、写真愛好家や鉄道マニアを始め、多くの観光客で賑わいます。福島民報が定点で撮影した春の動画があるので、例によって一部早送りして編集したものを埋め込んでおきます。

糸魚川駅周辺のあれこれ

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糸魚川駅北大火を紙芝居で語り継ぐ活動を取材した際( 糸魚川駅北大火からの復興 )、夕方から駅に近い商工会議所で紙芝居をするということで、昼間のうちに別件の仕事を一本片付けたり、火災があったエリアを歩いたりしました。それでも少し時間が出来たので、糸魚川ジオステーション「ジオパル」を訪問してみました。 「ジオパル」は、糸魚川市が北陸新幹線糸魚川駅高架下に設けた「糸魚川世界ジオパーク」の魅力発信基地となると共に、糸魚川の特徴的な地勢の一部を表現した大型ジオラマも設置されています。つまり、「ジオパル」の「ジオ」は、「ジオパーク」と「ジオラマ」双方の意味を持ち、友達や仲間を意味する「パル」を組み合わせた交流施設となっています。 ちなみに、ジオパークの「ジオ(geo-)」は「地球の、地面の、地理の」を意味する接頭辞で、これに「パーク(park=公園)」をつなげた造語です。ジオパークの構想は1990年代半ばからヨーロッパで練られ、2004年にユネスコの支援を受けて世界ジオパークネットワークが発足。「世界ジオパーク」の加盟認定を行う仕組みが作られました。 日本には現在九つの世界ジオパークがあり、糸魚川ジオパークもその一つになっています。糸魚川には、日本列島を東西に二分する大断層フォッサマグナの西側の断層である「糸魚川‐静岡構造線(糸静線)」が通り、日本列島の形成を示す貴重な地質や特徴的な地形を見ることが出来ます。また、二つの国立公園(中部山岳、妙高戸隠連山)や三つの県立自然公園(親不知・子不知、久比岐、白馬山麓)があり、ジオに関する豊富な話題を始め温泉や登山など、さまざまな切り口で楽しめます。 「ジオパル」にはこの他、大糸線で活躍した人気車両「キハ52-156」の実車が展示されていたり、日本の豪華寝台特急の先駆けとなったトワイライトエクスプレスの再現車両があったり、鉄道マニアにとって聖地の一つになっています。糸魚川市のYoutubeチャンネルITOIGAWAbroadcastが動画を公開しているので、ジオラマ部分をピックアップして埋め込んでおきます。 ところで、糸魚川に着いたのは昼前でしたが、一つ簡単な仕事を片付けてから、遅めの昼食を駅前にあった大衆食堂「あおい食堂」でとりました。その後、駅北大火があった場所を確認するため歩いていたら、マンホール蓋の交換作業に遭遇しました。珍しいの