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障害者スポーツの普及活動からアスリートへ転身 - 田中光哉さん

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■ テコンドー K44/44クラス-61kg級代表 沖縄の名桜大学在学中に、東京パラリンピックの開催が決まりました。何か関係する仕事に就きたいと考え、東京都障害者スポーツ協会に就職。協会では障害者スポーツの指導やスポーツイベントの運営に携わり、その中で自分と同じ上肢に障害がある選手が出場するテコンドーと出会いました。 小学校から大学まで健常者と一緒にサッカーをしていた田中さんは、何かスポーツをしたいと考えていたところだったため、テコンドーに取り組んでみることにしました。しかも東京パラリンピックの公式競技として採用されることが決まったと聞き、どうせならパラリンピックを目指そうと考えました。 そうするうちに合宿や遠征が増え、東京パラリンピック出場の可能性も感じ始めました。しかし、当時の職場では休みを取るのが難しく、2018年4月、競技に専念出来る雇用形態で製薬会社へ転職。同時に、通っていたテコンドーの本部道場の近くに引っ越して、競技に集中する環境を整えました。更に、テコンドーの本場である韓国へ武者修行に行ったり、韓国から練習パートナーに来てもらったりして、研鑽を積みました。 テコンドーは、障害者スポーツには珍しいフルコンタクトの格闘技で、迫力や激しさがあり、障害のあるなしにかかわらず観戦して楽しめる競技になっています。田中さん自身はステップを得意としており、観戦の機会があれば細かいステップを見てほしい、と話していました。 パラテコンドーは障害の程度によって四つのクラスに分かれ、更に体重別に3階級が設定されていますが、パラリンピックでは障害のクラス分けがありません。テコンドーには手で押して蹴るという戦法があるため、腕がある障害の軽い選手と対戦する場合、両上肢欠損の田中さんは不利な状況での戦いになります。そのため、練習パートナーや師範を始め道場生の協力を得て、腕がある選手と対戦する場合の戦術や技を磨いてきました。そのかいあって、昨年1月のパラリンピック選考会で見事優勝して、日本代表の座を射止めました。 「東京パラリンピックでの目標は、メダル獲得です。その戦いを通して、パラテコンドーを多くの人に知ってもらいたいです」と、田中さんは話しています。 【成績】9月2日テコンドー男子K44 61kg級準々決勝に登場した田中選手(K43)は、ブラジルのソダリオ トルクワト選手と対戦し、

地元開催でお家芸復活の期待がかかる全盲の柔道家 - 永井崇匡さん

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■ 柔道B1クラス73kg級代表 生まれつき眼球に異常があり、2歳で完全に視力を失いました。小学校1年の終わり頃、父が少しでも運動をさせたいと、地元中之条町の林昌寺道場で柔道の指導をしている知人に相談し、道場に通い始めました。外遊びは危ないと止められていたため、道場で思う存分動けるのが楽しく、永井さんは熱心に練習に励み、小学生時代には県大会で2度3位に入賞。もちろん相手は全て健常者でした。 中学は東京にある筑波大学付属視覚特別支援学校に進学。寮の門限があり、柔道は2週間に一度、自宅に帰った時に林昌寺道場で稽古をするぐらいでした。それでも中学3年で出場した視覚障害者の大会で優勝。高等部に進むと門限が延び、近くにある系列の筑波大学付属高校の柔道部で練習するようになりました。高校1年で出場した健常者の大会では決勝で破れましたが、健常者とも互角に渡り合える実力が評価され、視覚障害者柔道の強化合宿に呼ばれるようになりました。その後、数学教師を目指し、2年間の浪人生活を経て、学習院大学理学部数学科へ進学。運動と勉学を両立させ、2019年春、大学を卒業し、同大職員として仕事をしながら、東京パラリンピックを目指しました。 視覚障害者柔道は全盲から軽度の弱視まで三つの障害クラスが設定されています。しかし、実際には全クラスの選手が一緒に試合をします。全盲の永井選手には不利ですが、感覚を研ぎ澄ませハンディを克服。国内では優勝して当たり前と言われるほど、一歩抜きん出た存在ですが、目標はあくまでも東京パラリンピックでの金メダル。 柔道男子がパラリンピック正式競技になった1988年のソウル大会で日本は金メダル4個を獲得しましたが、その後は右肩下がりで、前回リオ大会では金メダルがゼロに終わりました。地元開催で、お家芸復活ののろしを上げたい日本パラ柔道界にとって、永井選手は期待の星です。 得意技は巴投げと寝技。最近はそれに加え、小外刈りなどの足技も磨いています。また、視覚障害者柔道では組み合った状態で試合が始まるため、力の強い外国人選手に対抗出来るようフィジカルの強化にも取り組んできました。 【成績】8月28日柔道男子73kg級予選に登場した永井選手(B1クラス=全盲)は、同じB1クラスのアルゼンチン、ラミレス選手(クラス)を相手に39秒、巴投で一本勝ちを収め、幸先の良いスタートを切りました。しか

目標はずばり、東京パラリンピックでの金メダル! - 山口凌河さん

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■ ゴールボール代表 小学5年生で野球を始め、中学時代は野球部の主将を務めるスポーツ少年でした。が、中学2年の時、レーベル遺伝性視神経症という難病を発症。2.0あった視力は半年ほどで、わずかに人影や光を認識出来る程度にまで落ちてしまいました。医師からは治らないと告げられ、自暴自棄になっていた彼に、母が盲学校進学を進めました。そして、進学した茨城県立盲学校で、ゴールボールと出会いました。 「目が見えなくなったらスポーツなんて出来ないと思っていました。でも、普通に体育の授業があり、また身体を動かす楽しさを感じることが出来ました」 その後は、ゴールボールにのめり込みます。野球と同じ団体競技で、仲間と声を掛け合い、コミュニケーションを取りながら戦う楽しさが山口さんには合っていました。高校1年の冬には、早くもゴールボールのユース代表合宿に呼ばれました。ここで世界を意識。世界と戦えることが、何よりも魅力的でした。 2013年には世界ユース選手権大会で優勝、更にフル代表にも招集され、2019年に開催されたジャパンメンズオープンでは大会得点王に輝き、日本チームの優勝に貢献しました。 山口さんのプレーは、投げる球の速さと、相手が嫌がるところに正確に投げ込めるコントロールの良さにあります。現在の目標はもちろん、東京パラリンピックで金メダルをその手にすること。 「以前は夢でしかありませんでしたが、相手チームを研究し、どうやったら勝てるか試行錯誤を繰り返し、東京パラリンピックではいい結果が出せるのではないか、と手応えを感じられるようになりました」 目が見えなくなったことで、見えたこともたくさんあります。自分は両親や友達、チームの仲間、所属する関彰商事の人たちなど大勢の人に支えられています。一番の収穫は、人のありがたさに気づけたことでした。そして、その人たちや自分を応援してくれている人に、スポーツで結果を出し恩返しがしたい。全ての人が、イコールで結ばれる社会を目指し、自分もレガシーを作っていけたら・・・。そう山口さんは話します。 【成績】予選リーグ:8月25日のアルジェリア戦は13対4で勝利、山口選手は5分の出場で1得点を上げました。27日のアメリカ戦は11対1で勝利、この日はスターターの3人が好調で、コールド勝ちを収めたこともあり、山口選手の出場はありませんでした。28日のリトアニア戦も1

スピードと高い守備力で日本代表に定着 - 赤石竜我さん

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■ 車いすバスケットボール代表 5歳の時、ぜんそくの発作で入院。治療を終え退院する日の朝、突然立てなくなりました。精密検査の結果、日本で3例目という難病だと判明。脊髄損傷で車いす生活を送ることになりました。 その後、リハビリを続ける中、小学校4年生の時に、当時通っていたリハビリの先生から車いすバスケットボールのことを聞き、現在所属しているチーム「埼玉ライオンズ」を紹介してもらいました。当時はあまり興味を持てませんでしたが、中学に入学すると、仲のいい友人がバスケット部に入部したり、3歳上の兄がバスケットをしていたりする影響もあって、改めて埼玉ライオンズの練習に参加させてもらうことにしました。 ちょうどその頃、2020年の東京パラリンピック開催が決まりました。赤石さんはその出来事に運命的なものを感じ、バスケットにのめり込むようになります。もちろん競技を始めたばかりで明確な目標ではありませんでしたが、東京パラリンピックに出たいという気持ちはその時から少なからずあったといいます。 中学2年の時、正式にチームに加入。ぐんぐん頭角を現し、高校1年で初めて国際大会を経験。それがきっかけとなって日本代表を目指すようになりました。今度は明確な目標でした。そして高校2年で23歳以下日本代表に選ばれ、その1年後にはフル代表にも初招集されました。 赤石さんの持ち味はスピードを生かしたディフェンス力。スピードでは日本でも1、2を争うレベルにあり、日本代表で求められているのもそこだと自覚しています。逆に一番の課題は得点力で、特にアウトサイドシュートの確率を上げるため、さまざまなトレーニングに励んでいます。 「東京パラリンピックに出場する日本代表チーム12人の中に残ることが当面の目標でしたが、選ばれただけでは意味がなく、選ばれたからには結果を出す義務があります。日本代表チームが目標としている初のメダル獲得に貢献した、と言われるような活躍をしたいと思っています」 スピードと高い守備力で、日本代表に欠かせない存在になっている赤石さん。その目線は更なる高みにあります。 【成績】 予選リーグ :8月26日のコロンビア戦は63対56で勝利、赤石選手のプレイタイムは11分15秒、フィールドゴール(FG)は0/3でした。27日の韓国戦は59対52で勝利、赤石選手は8分51秒の出場で、FG2/2、アシスト(AS

難病に負けず、明日に向かって走り続ける"あきらめない男" - 伊藤智也さん

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■ 陸上男子T52(車いす:100m/400m/1500m)代表  ※写真は20年前の取材当時 伊藤さんが発病したのは、35歳の誕生日を迎えた3日後の1998年8月19日のことでした。医師からは10万人に1人という中枢神経系の難病、多発性硬化症だと告げられました。伊藤さんの場合、まず両脚が動かなくなりました。やがて左目が見えなくなり、左腕にも症状が現れてきました。 病気は伊藤さんから、さまざまな運動機能を奪ってしまいました。しかし、伊藤さんの前向きな性格や持ち前の明るさまで奪うことは出来ませんでした。発病から1年ほど経った1999年の夏頃には、車いすマラソンの練習も始めました。練習を続けるうち、どうせやるからには大きな大会を走りたいと思うようになり、 2000年11月12日に開催される第20回大分国際車いすマラソン大会に出場することを決めました。  ◆ 大会当日、30km地点を通過した時のことです。よし、もう少しだ。伊藤さんが、そう思った瞬間、体が車いすごと道路にたたきつけられました。 左側から抜いてきた選手との接触事故でした。左目が失明状態のため、その選手が視界に入らなかったのです。右肩に激痛が走りました。脱臼でした。が、伊藤さんはあきらめませんでした。競技係員が寄って来ました。「どうする? 棄権するか?」。係員の問いに、伊藤さんは答えました。「右肩をはめるのを手伝ってください。レースを続けます」。 30km地点での転倒後、伊藤さんは脱臼した右腕一本で車いすを操作し、懸命にゴールを目指しました。スピードは出ず、後続の選手に抜かれて行きます。彼らは追い抜く時、一様に「がんばれよ」と声をかけて行きます。両腕両脚がなく、顎を使って車いすをこいでいる選手もいました。伊藤さんは走りながら、そんな選手たちに励まされていました。そして3時間という制限時間まで残り約15分、伊藤さんは力を振り絞ってゴールに飛び込びました。  ◆ このレースをきっかけに、伊藤さんは本格的に陸上競技に参戦。2002年には、日本選手権シリーズのマラソン、5000m、1500mの各種目で優勝を飾っています。また、国際大会にも出場し始め、2003年の世界選手権では400m、1500m、マラソンの3種目で金メダルを獲得。 パラリンピックには2004年のアテネから、2008年北京、2012年ロンドンと、3大会連

パラリンピック競技大会のお話

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パラリンピックは、障害を持つアスリートによる世界最高峰の国際競技大会。夏季大会と冬季大会があり、オリンピックと同じ年に同じ都市で開催されます。1960年のローマ大会が、第1回大会と位置づけられていますが、当時は国際ストーク・マンデビル大会と呼ばれていました。 ストーク・マンデビルというのは、イギリスのロンドン郊外にある病院で、ロンドン・オリンピックがあった48年、この病院で16人(男子14人、女子2人)の車いす患者によるアーチェリー大会が開催されたのが、そもそもの発端です。この大会は以後毎年開催され、52年にはオランダからも参加があり、国際競技会へと発展。オリンピックが開催された60年のローマ大会には23カ国、400人が参加するまでになりました。 そして64年の東京オリンピック開催に合わせ、国際ストーク・マンデビル大会を行ってほしいとの要請が、61年3月に同大会の提唱者であるルートヴィヒ・グットマン博士から厚生省(現厚生労働省)にありました。しかし、身体障害者スポーツの素地がなかった日本は、関係団体を中心に協議するも、国際大会以前に国内の障害者スポーツ振興が先との声が強い状況でした。 そんな中、日本国内のライオンズクラブが、朝日新聞厚生文化事業団に対してパラリンピック開催について照会。やるのであれば援助を検討したいと連絡しました。グットマン博士から要請があった1年後の62年3月のことでした。 これを受けた同事業団は協議の上、1)国内のスポーツ振興を図ってからパラリンピックを引き受けるのは実際問題として困難。むしろパラリンピック開催を強く打ち出し国内態勢を作る方が早道。2)パラリンピックを引き受けるに当たっては肢体不自由、盲、ろうあの人たちのスポーツも同時に行うことを条件とする。3)5月に小範囲の人たちで準備打ち合わせ会を開催する。4)ライオンズクラブに強力に働き掛ける、という4項目を決定。厚生省の了解を得た上で、NHK厚生文化事業団との連名で関係者に準備打ち合わせ会の案内を発送、こうしてパラリンピック東京大会開催への道が開けました。 ところでパラリンピックの呼称は、両下肢の運動まひであるパラプレジア=Paraplegiaの「パラ」とオリンピック=Olympicの「リンピック」を組み合わせた造語で、日本が作った愛称でした。正式には国際ストーク・マンデビル大会だったわけ