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音楽で震災からの復興を! - みんなで歌う第九の会

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日本で第九が初演されてちょうど100年目に当たる2018年、福島県郡山市の「みんなで歌う第九の会」を訪ねました。初演というのは、徳島県鳴門市にあった板東俘虜(ふりょ)収容所でのことで、第1次世界大戦で捕虜となったドイツ兵による演奏でした。板東俘虜収容所は、規則の範囲で捕虜に自由を与え、地元民との交流も許していました。これには、所長を務めていた松江豊寿さんの考えが、大きく反映されていたようで、松江所長は父親が会津藩士だったため、敗者の屈辱を痛いほど理解しており、収容所でも人道的な管理を行っていたと伝えられています。 この松江さんが、福島出身ということもあり、その年は県内各地で第九の演奏会が続いていました。郡山の「みんなで歌う第九の会」でも、このエピソードに思いを馳せ、もう一度初心に返って、第九の持つ精神性をかみしめたいと、演奏会に向けて練習に取り組んでいるところでした。 東日本大震災で、福島県は沿岸部の津波被害に加え、福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染が広がったことで、山間部の浜通り北部や、郡山市を含む中通りも影響を受けました。震災から時が経っても沿岸部や浜通り北部の方たちは避難生活を余儀なくされ、しかも放射能汚染の風評被害もあり、福島県全体が沈滞ムードに包まれていました。そこで、復興の意欲を音楽で示そうと、「みんなで歌う第九の会」を設立することになったそうです。 ベートーヴェンの交響曲第9番は、日本では親しみを込めて「第九」と呼ばれることが多く、特に合唱を伴う第4楽章は冬の風物詩と言えるほど、年末になると日本各地で演奏されています。この第4楽章は「歓喜の歌」という名で親しまれていますが、歌詞にはドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」が抜粋され、冒頭部分はベートーヴェン自身が作詞したものです。歌詞には友愛や喜びといったテーマが込められており、欧州評議会が、ヨーロッパ全体をたたえる「欧州の歌」としている他、統一性を象徴するものとしてEUの歌にも採択されています。 「みんなで歌う第九の会」代表の作田秀二さんによると、第九の会の設立は、震災後、家族や友人たちとの絆が強く求められるようになる中、第九のテーマである友愛こそ、この状況にふさわしいと考えたからだといいます。 作田さんは高校時代に合唱に出会い、大学時代も合唱部に所属。社会人になってからも、月1回のボイストレーニン...

安積原野の開拓と安積疏水開削事業

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郡山市の麓山公園に「安積疏水麓山の飛瀑」という人工の滝があります。 これは、那須疏水(栃木県)、琵琶湖疏水(滋賀県琵琶湖‐京都市)と並び、日本三大疏水の一つに数えられる安積疎水の完成を記念して、1882(明治15)年に造られたものです。昭和初期までは、広く人々に親しまれていましたが、いつしか大半が埋められ、ほんの一部が顔をのぞかせるだけの残念な滝になっていました。 その後、平成に入り、安積原野を開拓した先人たちの偉業を後世に伝えるため、麓山の滝を復元しようとの気運が高まり、1991年に郡山市民のシンボルとして滝が蘇り、滝見台も整備されました。2002年には「安積疎水麓山の飛瀑」の名称で国の登録有形文化財となり、更に16年には日本遺産認定と世界かんがい施設遺産登録も果たしています。 明治初期まで、郡山周辺は水利が悪く、雨量も少なかったため、荒涼とした原野が広がっていました。西には国内有数の広さを誇る猪苗代湖がありましたが、猪苗代の水は、奥羽山脈がそびえる東側の安積原野には流れてきませんでした。疏水開さくの構想は、江戸時代からありましたが、水利の問題があり、疏水は夢物語となっていました。 が、明治維新後、開拓と産業振興が国の発展の源だと考えた内務卿・大久保利通が、殖産興業と士族授産を結び付けた全国的なモデル事業を、広大な原野を有する安積で実施することを決断。オランダ人技師の指導で近代土木技術を導入し、実測データに基づく科学的検証で水利問題を解決しました。また、水路工事の最大の難関・奥羽山脈のトンネル掘削も見事成功させ、疏水通水が実現。安積疎水は、後の那須疏水と琵琶湖疏水の建設にも大きな影響を与えました。 郡山市郊外に、大久保利通を祭る大久保神社があります。大久保は会津の仇敵・薩摩出身ですが、疏水の実現は、その恩讐を超える偉業だったのでしょう。 ところで、麓山の滝が復元されて3年後の94年夏、鳥取女子高校社会部の生徒たちが、福島県の喜多方へやって来ました。彼女たちは、「食文化と町おこし」というテーマで、研究活動を続けており、最初はそばの名産地を訪ねていました。そのうち、「そばよりもラーメンの方がいいよ。全国のラーメン食べれるじゃん」ということになり、この年は喜多方ラーメンの本場を訪ねることになったのです。 しかし、喜多方市内でアンケートを実施したものの、回収が思うようにい...

江戸期会津の面影を今に残す街道の宿場町

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300mほどのゆるやかな坂道の両側に、雪国特有の重厚な茅葺きの民家が建ち並びます。ここ大内宿は、江戸時代初期に整備されたと言われる宿場町の一つです。町中を貫く会津西街道は、会津の若松城下から下野の今市を結ぶ街道ですが、それは関東側の呼び名で、会津側からは下野街道、あるいは南山通りなどと呼ばれていました。 江戸時代には、会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要な役割を担っていました。数万俵の廻米や生活物資、参勤交代の大名行列や旅人がこの街道を往来し、街道筋にある大内宿の本陣や脇本陣、旅籠で旅の疲れを癒やしました。 1868(慶応4)年には、白虎隊で有名な会津戦争(戊辰戦争)の際に、周辺が戦場となりましたが、運良く戦火をまぬがれました。しかし、旅の要所としての役割を果してきた大内宿も、新政府の誕生と共にその役割を終えることになります。 1884(明治17)年、現在の国道121号が開通すると、大内宿はその道すじから遠く離れ、過疎の山村となってしまいました。以来、大内宿は人々の記憶の中から姿を消していくことになりました。 大内宿が再び脚光を浴びるのは、1981(昭和56)年のことです。全国で16番目の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。その後、大内宿は、会津の歴史を生きたまま今に伝えることとなります。 保存地区は、旧宿場を中心とする南北約500m、東西200mの範囲です。茅葺・寄棟造の主屋が妻面を街道に向け、道路と直角に整然と並び、この地方の宿場によく見られる家屋の形態をよく残しています。床面積は約40〜50坪と一定で、他の一般的な宿場よりかなり大きめに作られています。これは、雪深い山間という土地柄、「うまや」を住居の中に収容するための知恵でした。 道路の中央には、広い溝が設けられ、宿場の用水として利用されていましたが、1886(明治19)年に埋め立てられ、道路の両側に、新たに洗い場用の側溝が掘られました。この溝は、今でも豊かな水量を保ち、地元の人々によって大切に使用されています。 また、大内宿には、源平合戦の先駆けとなった「以仁王(もちひとおう)伝説」が残されています。京都から敗走した以仁王が、この地に潜行したという物語です。王の宮号「高倉宮」にちなんだと思われる高倉神社では、毎年7月2日の半夏生(はんげし...

歴史ドラマの舞台となった会津若松の旅

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飯盛山の土産物屋から聞こえてきた「寄っでがんしょ。お茶飲んで休まっせ」の声に誘われ、店に入りました。お茶を入れてくれたおばさんに、東日本大震災の影響を聞くと、「観光客は激減。いつもは宮城からの修学旅行が多いんだけど、今はゼロ。福島や郡山の子どもたちが遠足で来るぐらい」とあきらめ顔でした。 東日本大震災から半年の2011年9月に、会津若松を訪れた時のことです。 飯盛山は、会津若松駅のほぼ真東にある標高300mほどの山で、白虎隊自刃の地として知られます。会津と言えば、白虎隊の悲劇を思い浮かべる人も多く、会津を旅した人は必ずと言っていいぐらい飯盛山に登ります。震災前には、年間約200万人の観光客が訪れ、白虎隊十九士の墓前には香煙が絶えませんでした。 頂上からは、市内が一望出来ます。かつて、飯盛山にたどり着いた白虎隊の隊士たちは、砲煙に包まれた城下を目にし、城が陥落したと思い自刃しました。山頂では、そんな少年たちに思いをはせ、手を合わせる人たちの姿が見られます。 その飯盛山の中腹には、会津さざえ堂というお堂があります。正式名称は円通三匝堂(えんつうさんそうどう)。上りと下りが別の通路になっており、入口から斜路を最上階まで上り、他者とすれ違うことなく、別の斜路を下って外に出ることが出来ます。世界的にも珍しい、二重らせん構造の建築物として、国の重要文化財に指定されています。 さざえ堂は、江戸後期に東北から関東各地の寺院に建てられた仏堂で、順路に沿って三十三観音や百観音などが安置され、堂内を回るだけで巡礼がかなう構造となっています。会津さざえ堂も同じで、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となるまでは、斜路に沿って西国三十三観音像が安置されていました。 この飯盛山と並んで会津若松のシンボルとなっているのが、鶴ケ城です。会津の旅で、ここを外すわけにはいきません。 蒲生氏郷が築いた城は、黒壁で7層の天守閣を持ち、織田信長の安土城を思わせる偉容だったとも言われています。江戸時代に地震の被害を受け、再建された天守閣は、現在と同じ5層でした。戊辰戦争後は、明治政府の命令で取り壊され、現在の天守閣は1965年に再建されました。内部は郷土博物館になっていて、5層からは会津若松市街地や会津盆地、奥には磐梯山まで望めます。 震災があった2011年3月に、天守閣の屋根の葺き替えが終わり、それまでの黒瓦を明治以前...

天地創造の世界・裏磐梯を訪ねて

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1888(明治21)年7月15日の朝、1000年の眠りから覚めた磐梯山が、突然爆発しました。それまで北側にあった小磐梯山が吹き飛ばされ、それらが土石流となって、磐梯山の北側を流れていた長瀬川沿いに押し出し、谷を埋め、川を堰き止めました。 その過程で、崩壊した大きな岩塊がそっくり移動して、流れ山が出来ました。更には、長瀬川の堰き止めや、流れ山の低所に水がたたえられて湖が出来、沼となりました。桧原湖や五色沼など、大小200もの湖沼群、磐梯高原はこうして誕生しました。まさに天地創造です。 今回の記事では、この天地創造の世界・裏磐梯を訪ねます。磐梯高原には、いわゆる裏磐梯三湖と呼ばれる火山堰き止め湖、桧原湖、秋元湖、小野川湖があります。しかし、これら大きな湖を紹介していると長くなってしまうので、今回はパスして、五色沼自然探勝路と中瀬沼遊歩道を紹介します。 五色沼は、裏磐梯の定番と言っていいほどの有名な観光地です。既にご存じかもしれませんが、裏磐梯紀行で、ここを外すわけにはいきません。 そんな五色沼の人気の秘密は、やはり水の色にあるといっていいでしょう。湧出する鉱泉に含まれている物質と光の加減で、沼により、天候により、また時間によって、さまざまに色が変化します。特に秋は、紅葉を水面に映し、ひときわ美しくなります。 探勝路は全長3.7km。東西二つの入口があり、東口は五色沼自然教室からスタート。西ロは裏磐梯で最もにぎわう、桧原湖南岸の磐梯高原駅バス停近くから入ることになります。 東口から入ると、まず五色沼の中で最も大きい毘沙門沼に出ます。ここではボート遊びも出来、背景には磐梯山も望めます。探勝路を進むと、深泥沼、弁天沼と続き、五色沼随一の景勝地と言われる瑠璃沼に着きます。瑠璃沼のそばには、エメラルドグリーンの水をたたえた青沼があり、ここから最後の柳沼まではあと一息。西口に着いたら、桧原湖で遊覧船に乗るのもいいでしょう。 中瀬沼は、桧原湖と小野川湖に挟まれた湖で、その北岸、アカマツ林の中をたどるように全長2.5kmの遊歩道が設けられています。途中にある展望台からの眺めは格別。眼下には小島が浮かぶ中瀬沼があり、正面には磐梯山の爆裂火口が大きく口を開けています。 この展望台は、流れ山の上に設けられたものです。それにしても、絶好のポジションに流れ着いたものです。中瀬沼遊歩道には、桧原湖...

義経・弁慶も賞味したと伝わる「五郎兵衛飴」 福島県会津若松

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飴は、我が国で発明された最も占い甘味料だと言われています。言ってみれば、甘さの根源のようなもので、古代の飴は米もやしで作られ、近世の中期には麦もやし(麦芽)が使われるようになったそうです。 米から作る飴は、一晩水につけたもち米を蒸して、それにこうじの粉と水を入れてかき混ぜ、弱火にかけて甘酒のようになったものを袋に入れて絞り、煮詰めるのだそうで、これを水飴と言いました。更に練って固くすると堅飴(クロ飴)、もっと練り固めていくと白飴に変わります。 どちらにしても、それほどに古い甘味料ですから、飴にまつわる言い伝えや風習も実にさまざまあります。会津の五郎兵衛飴について語られている物語も、そんなお話の一つと言えるでしょう。 五郎兵衛飴には、源義経が食べたという言い伝えがあって、義経に従って奥州へ下った弁慶の証文と言われるものが伝わっています。これは、義経主従が会津へ来た時に五郎兵衛飴を食べ、その代金一貫文を借りたという借用証で、借りたのが義経、保証人が弁慶というものです。借りた日付は、文治4年(1188)となっています。 義経が奥州平泉へ下り、藤原氏の許へ身を寄せたのは文治3年のことで、5年には、衣川館で自刃して果てます。ところが、義経は実は生き延びたのだという伝説があって、それによると、文治4年、危険を察した義経主従は、密かに平泉を逃れて、北上し、本州北端から北海道へ渡ったことになっています。つまり、義経が五郎兵衛飴を食べて代金を借りたのは、ちょうど一行が北上を開始した年に当たるわけです。そんな伝説が残るほど、古くからある飴だということになります。 米から作る飴は、稲の刈り入れが終わった10月頃から次の年の春くらいまでの間に作るのが良いとされています。義経主従が食べたのも、この時期だったのかもしれません。 この五郎兵衛飴は、やがてこの地を治めた蒲生氏や松平氏に、長く携帯食として採用され、幕末には、白虎隊も携行したということです。 これは、もち米に麦芽糖を加え、寒天で固めてオブラートで包んであります。澱粉が溶けて、滑らかな舌触りを楽しんでいると、控えめの甘さが口の中にあふれ出し、後から後からいつまでも尽きぬもののように広がる古典的逸品です。

伝統を守りながら新しいものを育てる南会津の太鼓胴産地

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福島県の南端、尾瀬の玄関口として知られる南会津町に、「ミニ尾瀬」と言われる駒止湿原があります。この湿原に群生する水芭蕉は、がくの部分に特徴があり、世界でもここだけの品種とされ、多くのハイカーが訪れます。 町の中心・田島は、江戸期には幕府直轄領として、南会津地方の産業、文化の中心地となっていました。毎年夏に行われる「田島祇園祭り」は800年の伝統を持ち、歴史の深さを物語っています。 この田島は、江戸時代から続く太鼓胴の産地です。太鼓は木をくり抜いた胴に、牛などの動物の革を張ってつくられます。昔から分業制がとられ、田島を中心とする南会津地方は胴までをつくり、江戸や上方へ出荷していました。 会津西街道を通って、会津若松の問屋に納められた胴は、そこから陸路江戸へ、また阿賀野川を下って新潟経由で海路大坂へ送り出されていました。問屋経由であったせいか、大正時代までは、会津が太鼓胴の産地であることは知られていましたが、実際にどこでつくられているかは特定されていませんでした。 最盛期の大正時代には、全国の太鼓胴の8割ほどが、南会津地方で生産されていたといいます。太鼓の胴をつくるには、最低でも直径60cm以上の原木が必要となります。当時、南会津地方には、樹齢100年以上の木が豊富にありました。太鼓職人は山に寝泊まりしながら、こうした原木をくり抜いていました。 しかし、豊かな自然に恵まれた南会津でも、近年は大木が激減。やがて原木は北海道産が主流となり、胴堀り職人もいなくなってしまいました。そんな中、南会津町にある川田太鼓工房は、南会津産の木にこだわり、アイデアと技術で新しい太鼓胴を生み出しました。 名付けて「ハイテク太鼓」。ハイテクといっても、電子太鼓でもなければ、中にICが入っているわけでもありません。南会津町特産のナラの木の一枚板を、樽のように張り合わせて太鼓胴に仕上げる製法です。 近年は、各地に太鼓のチームも出来、海外で公演するほどになっています。そうした太鼓ブームや町おこしのために、巨大な太鼓もつくられるようになりました。ハイテク太鼓は好みの音、好みの大きさに仕上げられるそうで、そうした需要にも合致しています。更には、世界的に希少となった大木の保護のためにも、また国産材の活用という点からも、注目すべき太鼓胴と言えるでしょう。

イケメン山伏安珍さんの古里で開催されるだるま市

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『おくのほそ道』の序文に「春立てる霞の空に、白河の関越えんと(春になり霞たなびく空を見るにつけ、白河の関を越えたいと)」と綴られているように、奥州三関の一つ「白河の関」が置かれ、古くからみちのくの玄関口として知られる白河。そんな白河市に春の訪れを告げる白河だるま市が、毎年2月11日、市中心部の目抜き通りで開かれます。 白河だるまは、眉やひげなどを「鶴亀」「松竹梅」に見立てて描いており、「白河鶴亀松竹梅だるま」とも呼ばれます。江戸時代中期、寛政の改革で知られる白河藩主の松平定信が、旧正月の市に縁起物として売らせたのがだるま市の起源と言われます。 江戸時代から続く伝統の白河だるま市には、毎年15万人もの人出があり、国内最大級のだるま市となっています。 だるまのサイズは、8cmの小さなものから、75cmの大きいのものまで18種類あります。定価はありますが、値切り交渉も可能。だるまを値切ることは縁起が良いとされるそうなので、臆せず声をかけてみたらいいかと。 また、店によっては、だるまに無料で文字入れをしてくれる所もあります。「家内安全」「商売繁盛」「合格祈願」など、願掛けしたい言葉の中から選んで、その場で文字を入れてもらえます。 ところで、話が変わりますが、「安珍清姫」伝説の安珍さんは、ここ白河の出身です。「安珍清姫」の話は、熊野詣での僧に想いを寄せた女性にまつわるもので、この話は、平安時代半ばに出来た『本朝法華験記』という仏教説話集に載っていたと言います。それが『今昔物語集』にも引き継がれ、「巻十四第三話」に、女の執念が凝り固まって蛇になった話として紹介されています。 この伝説は、中世の頃には確立されていたようで、能楽の演目として早くから定着し、それが、いわゆる「道成寺もの」として歌舞伎の中に採り入れられ、1752(宝暦2)年、中村富十郎によって『娘道成寺』として集大成され、京都嵐三右衛門座で創演されるに至ります。そして翌年には『京鹿子娘道成寺』として、江戸中村座でも上演され、今日まで受け継がれています。 一方、伝説そのものも、道成寺に土佐光重の筆と伝わる『道成寺縁起絵巻(国の重要文化財)』という形で残され、2017年には江戸時代以来362年ぶりに全面修復が施されました。 安珍さんは15歳の時に、会津や平泉と共に東北仏教文化の中心だった「出羽三山」の一つ羽黒山に入ったと言...

福島にある「UFOの里」と老舗洋食屋さん

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昨日、ブログに福島県川俣町のことを書きましたが、同じ日の『福島民報』に、「『UFO研究所』開所正式発表」という記事が出ました。その記事によると、いいの街なか活性化委員会によって、福島県福島市飯野町のUFOふれあい館内に国際未確認飛行物体研究所(通称・UFO研究所)が開所されることが正式に発表された、とのこと。 「UFOふれあい館」というのは、福島駅から国道114号で川俣町へ向かう途中にあります。2012年の12月、原発事故による全村避難が続いていた飯舘村へ行き、村内で仕事をされている8人の方を取材させて頂いた帰途、星飛雄馬の姉ちゃんばりに、物陰からじっとこちらを見つめる宇宙人の姿を発見。その目に吸い寄せられたかのごとく(単にミーハーなだけですが)、件の施設を訪ねてみました。 ちゃんと 公式のウェブサイト もあるので、まずはそちらの公式見解を転載します。 「UFOの里:福島県の中通り北部、県都福島市の南西部に位置する飯野町地区、ここはUFOの里として広く知られています。飯野町地区北部に位置する千貫森周辺には、古来から多数の発光物体の目撃例が見られました。 また千貫森自体も謎多き山であり、その周辺にも多くのミステリーゾーンが存在する事が知られています。そういった数々の謎の研究資料や、UFOやその他のミステリーに関わる資料を集め、展示する施設として1992年に開館したのがUFOふれあい館です。その後パノラマ食堂(UFO物産館)、UFO広場等周辺環境も整備され、古くからある小手神社や謎の巨石群と合わせて一大ミステリー体験ゾーンを形成しています」 福島市の飯野地区(旧飯野町)では、平成元(1989)年のふるさと創生事業をきっかけに、町おこしとしてUFOの里づくりに取り組むようになりました。そして、その中心施設として、1992年にUFOふれあい館を開館。館内には、UFO研究家として知られた故荒井欣一さん寄贈によるUFO関連資料など約3000点が収蔵されており、UFOファンの聖地として年間約3万人が訪れています。 折しもアメリカでは、国防総省が、「未確認の飛行現象」として映像を公開し、専門チームを立ち上げて本格的な分析を始めました。その報告書は近く公開されるようで、UFOについて「宇宙人の乗り物だとする証拠は見つからない」と結論づける一方、「飛行物体の急加速や方向転換、急降下など...

平安時代から続く絹の里は、中南米音楽とシャモ推しの町

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東日本大震災後、飯舘村や南相馬市へ取材に行く際、福島でレンタカーを借り、川俣町経由で入っていました。福島から川俣までは国道114号を通りますが、川俣に入って700mほどの所に小さな池があります。そのほとりには、「コスキンの町 川俣」と書かれたモニュメント「コスキンくん人形」が立っています。 初めて見る人は、「何だこれ?」と思うに違いありません。ところが、私の場合、やはり初見だったものの、すぐにそれが何かを理解しました。そうです。私、川俣がコスキンの町であることを、だいぶ前から知っていたのです。 日本最大のフォルクローレ音楽祭「コスキン・エン・ハポン」が、川俣町で開催されていると知ったのは、2000年のことです。その年はちょうど、「コスキン・エン・ハポン」が始まって25周年だったため、それを記念して第1回コスキン・パレードも行われました。 「コスキン」というのは、南米アルゼンチンの地方都市の名前です。アンデス山脈の山間にある人口2万人の小さな市ですが、ここで10日間にわたり延べ20万人が集まる盛大な音楽祭が開かれます。 その祭りを模して、川俣町の南米音楽愛好家が、「コスキン・エン・ハポン(日本のコスキン)」として音楽祭を開くようになりました。当初は、全国13のフォルクローレ愛好家グループが集い、演奏を楽しんでいました。しかし、年々参加グループが増え、25年目の2000年には過去最高の161グループが日本各地から集まり、2日間にわたり演奏を行ったそうです。 その後も、ますます隆盛となり、連綿と続いてきました。今では国内外から200組を超える演奏者が集まる国内最大級の中南米音楽の祭典に成長。10月第2土曜日から3日間、山間の小さな町は、中南米の音楽とカラフルな色であふれ返ります。 実は川俣町も、東日本大震災の原発事故により、一時、山木屋地区が帰宅困難地域に指定されていました。しかし、各地から寄せられる応援に力を得て、コスキン・エン・ハポンは震災の年にも例年通りに開かれました。 ただ、2019年は東日本台風、2020年は新型コロナウイルス感染症の影響で、コスキン・エン・ハポンは中止となりました。今年は、4月時点では開催予定で進んでいましたが、その後の状況に鑑み、開催断念を決断。残念ながら、3年続けて中止という事態になりました。 昨年は、代替えイベントとして、演奏動画を集めて...

震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント

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2011年5月4日、震災後初めてとなるゴールデンウィーク中に、福島県新地町で大規模な炊き出しイベントが行われました。イベントを主催したのは、新地ライオンズクラブ(当時31人)で、これにSNSを通じて全国から大勢の支援者が集まり、新地町役場前で盛大に実施されました。 SNSで発信したのは、明石の橋本維久夫さんでした。橋本さんは、阪神・淡路大震災以来、被災地での支援活動を実践されてきました。更に、2004年の新潟県中越地震の炊き出しには、他県からも数人の賛同者が参加。07年の新潟県中越沖地震では、その輪が6都県20人と大幅に広がり、橋本さんはいつしか、仲間内では「大体長(※大隊長ではありません)」と呼ばれる存在になっていました。そして新地には、橋本さんの呼び掛けに12都県から43人のボランティアが参集しました。 新地での活動のきっかけとなったのは、岐阜のOTさんでした。OTさんは、東日本大震災後、すぐに沿岸部の各市町村災害対策本部に連絡。その中で3月14日、相馬市災害対策本部から食料品などの支援要請が入り、3月22日に支援物資を持って相馬を訪問しました。そして、災害対策本部に物資を下ろした後、相馬編( 「母方の古里(かもしれない)相馬の海の恵み『常磐もの』」 )で紹介した、八坂神社の岩崎和夫宮司らの案内で、避難所4カ所にも直接物資を届けました。 この時、岩崎さんは、所属するライオンズクラブのつながりで、隣の新地ライオンズクラブにも連絡。新地から5人の会員が相馬まで出向き、緊急で必要としていた乳児用のミルクなどを受け取り、新地町の避難所でそれらを配布しました。OTさんは、ここでつながりが出来た新地の方たちと、その後もコンタクトを取り続け、ゴールデンウィークの炊き出しイベント開催にこぎ着けたというわけです。 一方、受け入れ側の窓口となったのは、歯科医の笹原健児さんでした。笹原さんは、自宅と歯科医院が流失し、自らも被災する中、炊き出しイベントの中心として活動されました。新地町は福島県浜通りの最北端にあり、3月11日の本震では震度6強を記録。新地ライオンズクラブのメンバーでもある加藤憲郎町長によると、その時点で津波により92人が亡くなり、23人が行方不明とのことでした(その後の調べで死者118人、家屋全半壊630戸)。 そんな中、当日は朝から、加藤町長自らが防災行政無線でイベン...