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ミシュランプレートに掲載された馬肉料理店「馬勝蔵」

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熊本地震関連の取材で肥後大津駅近くのホテルに泊まったのは、鍋ケ滝撮影( 裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝 )の際に一度行っている馬肉料理の「馬勝蔵」が、目的の一つと前の記事(南阿蘇村でお世話になった宿のいい話)に書きました。「 熊本と聞いて思い浮かぶ事ども 」でも書きましたが、2017年に実施された「熊本県と聞いて思い浮かぶもの」というネット調査で、馬刺しは、くまモン(28.8%)、熊本城(16.7%)、阿蘇山(11.4%)に次ぐ4位となっていました。 というわけで、今回は肥後大津駅周辺の話です。肥後大津駅近くにはホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅や旅籠はしもと、エヴァーグリーン大津駅前などの宿があります。また駅の南側を走る国道57号沿いにも、ベッセルホテル熊本空港、ホテルビスタ熊本空港、カンデオホテルズ大津熊本空港などが建ち並んでおり、宿泊にはかなり便利です。 そんな肥後大津駅の北、歩いて3、4分の所に、馬肉料理の「馬勝蔵」があります。 ちなみに、ミシュランの基準を満たした料理を提供する飲食店「ミシュランプレート」に掲載された馬肉料理店は、熊本県全体で4軒あります。3軒は熊本市内(菅乃屋銀座通り店、けんぞう、むつ五郎)ですが、残り1軒が、この馬勝蔵でした。 馬勝蔵は、1890(明治23)年に建てられた蔵を改装しており、建物自体、なかなか趣があります。蔵造りの玄関に掲げられた赤い暖簾には、「馬勝蔵」という店名の下に、「UMAKATSUZO」と書かれた英字が表示されていました。それを見て知ったのですが、店の名前は「うまかつぞう」だそうです。 これ、熊本の方言「うまかっぞぅ(おいしいぞう)」から付けたそうです。そう考えると、店名が先で、蔵を見つけてきたのか、蔵が先で、そこから店名を思いついたのか、気になるところです。 で、肝心の料理ですが、ネット調査で4位に入った馬刺しはもちろん、煮込みや焼き物、揚げ物など、さまざまな馬肉料理がありました。メニューは写真に撮ってこなかったんですが、馬ステーキに馬カツ、馬すじや馬ホルモンの煮込み、レバ刺しを含めた各種馬刺し、串焼き、串揚げ、コロッケなどが、お品書きに載っていました。また、馬肉料理だけではなく、大津の郷土料理だという唐芋天婦羅や、国内最大級の地鶏・天草大王、更には熊本ラーメン、阿蘇高菜めしなどもありました。 通常...

南阿蘇村でお世話になった宿のいい話

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今回は、熊本地震について書いた前3本の記事の余録です。地震発生後10日近く経った4月24日に初めて西原村に入った際は、車中泊だったのですが、5月以降は出来るだけ取材先に近い宿を拠点にしました。 熊本城に近い アークホテル熊本城前 、益城町と西原村に近い グリーンリッチホテルあそ熊本空港 と ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前 、それに 南阿蘇村のグリーンピア南阿蘇 、 ペンションルミナス 、ペンションハーモニーなどです。 熊本市内に関しては、シティホテルもビジネスホテルもたくさんあるので、特に問題なしでしたが、他はオンライン予約大手の楽天トラベルやじゃらんで、飛行機のパックで出てきた宿を押さえました。益城町には、エミナースというホテルがあるのですが、ここは当時、被災された方の避難所になっていました。ただ、益城や西原は熊本空港がある場所なので、周辺にビジネスホテルが点在しており、特に宿には困りませんでした。 グリーンリッチホテルあそ熊本空港は菊陽町、ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前は大津町にそれぞれありますが、どちらも熊本空港から車で14、15分の所にあり、近くには鍋ケ滝の取材( 裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝 )の際に泊まった ホテルビスタ熊本空港 や、ベッセルホテル熊本空港、カンデオホテルズ大津熊本空港、カンデオホテルズ菊陽熊本空港、HOTEL AZ 熊本大津店などが、熊本から南阿蘇村へ向かう国道57号沿いに建っています。 このうち、ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前は、JR豊肥本線肥後大津駅から歩いて2分ほどの所にあり、近くには居酒屋さんがあったり、鍋ケ滝撮影で泊まった時に行った馬肉料理の「馬勝蔵」も歩いて5、6分と、かなり利便性のあるホテルでした。 地震があった2016年の取材はいずれも単独でしたが、この時は地震被害から再建された益城町給食センターの取材で、カメラマンの田中さんが一緒だったため、飲み歩くことを想定していました。ただ、給食センター再建支援の中心になった方と取材のコーディネートをしてくれた方が、両方とも熊本市の方で、しかも一人はお酒を飲まず車の運転が好きな方で、車で送迎するからと、熊本市内の馬肉ダイニング「馬桜」に連れて行かれ、結局、飲み歩きの利便性は何の意味も持ちませんでした。 一方、南阿蘇村は、草千里ケ浜や白川水源など、豊...

阿蘇大橋の崩落で村が寸断された南阿蘇村

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前の記事で書いた西原村での炊き出しの日(4月25日)、炊き出しの中心となった石垣島のSYさんと共に南阿蘇村へも入りました。阿蘇大橋が崩落していたため、いったんミルクロードに出て、県道23号から南阿蘇村に向かいました。事前にコンタクトを取っていた中尾三郎さんの自宅は、応急危険度判定で「建物が傾斜している」として危険判定を受けていたため、当時は、阿蘇市赤水に避難しており、そこでお会いして現状をお聞きしました。 中尾さんの自宅があるか立野地区には、村で唯一の救急病院だった阿蘇立野病院があり、中野さんの自宅からは車で5分ほどですが、病院の間の道路は地震の被害で通行止めとなっていました。その阿蘇立野病院も、地震で建物に亀裂が入るなど大きな被害を受け、入院患者を他の医療機関に搬送後、しばらく休診となっているなどの話を伺いました。また、中尾さんの自宅や阿蘇立野病院は、村の中心部とは黒川をはさんで対岸にあり、阿蘇大橋の崩落によって行き来が出来にくい状態だとも話していました。 南阿蘇村は阿蘇カルデラの南部、阿蘇五岳と外輪山に挟まれた南郷谷にあります。白水村、久木野村、長陽村の3村が合併して出来た村で、村内中央を東から西へ流れる白川が、外輪山の切れ目となる立野地区で黒川と合流し、熊本平野へと流れています。今回の地震では、旧長陽村の黒川側で大きな被害が出ました。大規模な土砂崩れにより国道57号が寸断され、阿蘇大橋が崩落した立野地区や、京都大学火山研究所の下から大規模地すべりが起きた高野台も、複数のアパートが倒壊した東海大学の学生村があったのも、このエリアになります。 地震から1カ月ほど経った5月17、18日に、再度、南阿蘇村を訪問しました。最初に伺ったのは、高野台に住む松岡一雄さんでした。 松岡さんは、地震の瞬間、下から突き上げるような激しい縦揺れに、身体が宙に飛ばされました。続いて長い横揺れが始まり、それと共にこれまで経験したことのないような地響きがしてきました。土砂崩れでした。 京都大学火山研究所が丘の上にあるこの地区は高野台と呼ばれ、村が開発公社を通じて売り出した住宅地でした。南阿蘇村で不動産業を営み、村内の宅地情勢に詳しい上田晴三さんは「傾斜の緩やかな場所ですし、雨も降っていないのに、これほどの土砂崩れが起こるとは考えてもいませんでした。火山灰の層が強い揺れで液状化したとしか考え...

「火の国」熊本のシンボル・阿蘇山

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熊本 - 小国 - 阿蘇 - 高千穂 - 日之影の取材行3回目です。小国町の鍋ケ滝の撮影を終えた後、次なる目的地・高千穂までは、大観峰からミルクロードで、阿蘇の外側を通るルートが最短ですが、せっかくなので、阿蘇山に寄って行くことにしました。2013年当時は、阿蘇山ロープウェーが運行しており、まずはそこを目指しました。 阿蘇山は「火の国」熊本のシンボル的存在で、世界有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持っています。今も盛んに噴煙をあげる中岳、1592mと阿蘇最高峰の高岳、鋸歯のような山容が特徴の根子岳に、杵島岳、烏帽子岳の阿蘇五岳が東西に連なります。その周りを、高さ700〜800mの外輪山が南北約24km、東西約18kmにわたって囲んでカルデラを形成しています。 そんな壮大なスケールを実感するためには、外輪山からの展望がお勧めです。鍋ケ滝から大観峰までは約20km、30分弱で着きます。大観峰展望台に立つと、眼下の谷に水田や町が広がり、その向こうに阿蘇五岳がどっしりと横たわります。その迫力ある景観には、圧倒されるばかりです。 特に見どころが集中しているのは、阿蘇山の西側です。大観峰から阿蘇山ロープウェーを目指すと、ちょうどそれらの絶景ポイントを通ります。すり鉢を逆さにしたような米塚は、緑の山肌が美しい寄生火山です。烏帽子岳の北側には、火口跡が大草原となった草千里ケ浜が広がります。夏には放牧された牛馬が草を食む、のどかな高原の趣となります。 外輪山やカルデラ内部にある中央火口丘の広大な草原は、ほとんどがススキとネザサの群落です。私が行った晩秋は、特にススキの穂が光に映え、非常に美しい景観を見せてくれました。 この風景は、阿蘇山の度重なる噴火やそれに伴う降灰によって生み出され、更に放牧や野焼きなど、人の手が加わって作り出されました。いわば自然と人間の共生によって維持されてきた草原で、歴史的産物と言っても過言ではありません。 阿蘇では毎年3月中旬に野焼きが行われます。前の年の枯れ草を焼却し、森林化の最初の段階である低木の生長を抑え、また地下茎が発達して火に強いイネ科の植物の比率を高めることなどを目的としています。野焼き直後の草原は一面真っ黒ですが、しばらくすると緑の草原に変わります。その頃にはあちこちに牛が放牧されます。また夏には、冬の牛馬の餌として背の高い草が刈り取られます。...

裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝

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前日に熊本に入って、市内で取材を一つ済ませた後、次の日の撮影に備え、大津町まで移動しました。そして翌日、ミルクロードと国道212号を使って、小国町の鍋ケ滝へ向かいました。泊まったホテルから鍋ケ滝までは、ちょうど50kmぐらい、車で約1時間でした。 で、鍋ケ滝まであと少し、たぶんあと1分ぐらいの所で、謎の案山子群像を発見。ミーハーな私は車を停め、パシャリと1枚シャッターを切ってきました。しかも、個人宅の玄関先にいた案山子たちだけではなく、他にも案山子が出没。後で、Google Mapのストリートビューで確かめると、ここのお宅の少し先にいた、釣りをする案山子には、ボカシが入っていました。完全に人間だと思ったんでしょうね。Googleくん、だまされてますよ(笑・・・。 ちなみに、最近は更にバージョンアップしているようです。「小国町 案山子」で検索すると、結構ヒットします。お断りしておきますけど、新潟県長岡市の小国町で「おぐにかかしまつり」が行われているらしく、そちらの検索結果もかなり出て来ます。Google Mapのストリートビューで確認する時は、鍋ケ滝を目的地に、出発地を坂本善三美術館にしておくと、蓬莱川を渡ってすぐの辺りで、案山子群像のお宅があります。 で、案山子たちから鍋ケ滝の駐車場までは約350mです。2015年に、駐車場や滝までの遊歩道を整備して有料公園化したそうです。入園料は、大人(高校生以上)300円、子ども(小・中学生)150円、小学生未満無料とのことです。 私が行ったのは、その2年前の2013年の晩秋でしたが、その時も駐車場はありましたし、売店もありました。それに、滝までの階段もあって、よく整備されていると思ったのですが・・・。 鍋ケ滝は、落差は10mほどしかありませんが、幅は約25mあり、周囲が木々に覆われているため、木漏れ日の中を水が流れ落ちる様が、とてもフォトジェニックです。更に、最大の特徴は、滝の裏にかなり広いスペースがあり、裏からも滝を見ることが出来るところです。 阿蘇の大自然は、約9万年前に起こった巨大噴火によるものです。前に、裏磐梯の記事を書いた際、1888年の大噴火によって、今の裏磐梯が出来た、まさに「天地創造の世界」と書きましたが、阿蘇の規模は、その磐梯山を大きく上回っています。噴火による火山灰は、なんと北海道まで達したといいます。また...

熊本と聞いて思い浮かぶ事ども

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2016(平成28)年4月の熊本地震から5年、修復が終わった熊本城天守閣の公開が、6月28日から始まっています。とはいえ、このコロナ禍では、県外からはおいそれとは行けず、しかも完全復旧は2037年と、まだ16年も先とのことで、個人的には生きてるうちに見られるか、という状況になっております。 さて、この熊本城、加藤清正が築いた城です。天守閣前の2本の銀杏は、城の完成を記念して植えられました。その時、清正は、銀杏が天守閣の高さにまで成長したら、兵乱が起こるだろうと予言したといいます。 慶長年間、清正は一大築城工事を始め、白川と坪井川、井芹川の三つの川を外濠と内濠に利用して、壮大な城を造りました。 熊本城には、大小3基の天守を含め、5階の櫓が5基もあったそうです。実戦に強い名城と言われ、特に石垣は、清正公石垣と呼ばれる独特のものでした。それは、武者返しとも称され、上がそり返った独特の構造で、敵兵がよじ登って来れば、上の所ではね返す形になっていました。 実戦についての考えは徹底していました。城内には、120カ所の深井戸を掘り、天守閣の畳の芯には、カンピョウとかズイキなど食料になるものが使われたといいます。籠城戦に耐えられるようになっていたのです。銀杏も、実が保存出来るという発想で植えられたという説がありますが、この銀杏、実は雄木で、実はならないそうです。たぶん、後世の俗説なんでしょうね。 この名城も、清正の後、2代忠広の時に細川氏のものとなってしまいます。家中をまとめきれていないということで改易になったのですが、加藤氏が去っても、予言は城に残りました。 1877(明治10)年、西南の役が起こります。兵乱とは関係のなかった熊本城ですが、この戦いに巻き込まれてしまいます。銀杏は成長して、天守の高さに達していました。 熊本城には、政府軍の谷干城らの熊本鎮守台兵が立てこもり、それを、西郷隆盛を擁した薩摩士族軍が襲います。守りに強い名城はびくともしませんでした。しかし、この時の城内の出火で、宇土櫓などを残して、主な建物は焼失してしまいました。そしてこの時、銀杏も一緒に焼けてしまいます。現在の銀杏は、焼け残った根元から出た脇芽が成長したものです。 また、3層6重の一の天守と、2層4重の二の天守は、1960(昭和35)年に復元されました。今回、いち早く復旧した天守閣は、復興のシンボルとし...

発祥の形にこだわったきんつば「肥後鍔」 熊本

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きんつばというと、四角いものを思い浮かべる人が多いと思いますが、元は丸型でした。しかも、最初は、きんつば(金鍔)ではなく、ぎんつば(銀鍔)だったというのです。 江戸前期の天和年間(1681 - 1684年)に、京都の清水坂辺りの屋台で売られた焼き餅が、庶民の間で流行しました。小豆餡を米粉の生地で包んで焼いたもので、その色と形が刀の鍔に似ていたことから「銀鍔」と呼ばれました。 それが、享保年間(1716 - 1736年)に江戸に伝わり、米粉を小麦粉に変えて焼いたところ、焼き色が付いたことで、「銀より金の方がいい」と、「金鍔」と名付けられたと言われます。江戸時代には、「流石武士の子金鍔を食べたがり」といった江戸川柳もあって、金鍔は、江戸の代表的な菓子になっていたようです。 その後、明治になって、神戸元町の紅花堂(現・本高砂屋)の創業者・杉田太吉が、金鍔を改良して角型のきんつばを考案。これが徐々に広がり、本家も分家もしのいで、一般的になったとされます。一説によると、丸より四角の方が効率よく衣を付けることが出来、一度にたくさん焼けるようになったからだと言われています。 ところで、このブログに何度か登場している甘党の夏目漱石先生も、もちろん金鍔がお好きだったでしょう。小説『坊ちゃん』の中で、主人公のことを「坊ちゃん」と呼んで可愛がる下女・清について書きながら、「(略)折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる」と、さりげなく金鍔のことに触れています。紅花堂が、角型の「きんつば」を売り出したのは、1897(明治30)年のことで、『坊ちゃん』が発表された1906(明治39) 年に、丸か角か、どちらが一般的だったかはかなり微妙なところですが、子どもの頃の思い出であれば、間違いなく丸型だったはずです。 そんな中、日本橋にある榮太郎本舗は、幕末の頃、屋台で金鍔を商っていたそうで、今も当時と変わらず、刀の鍔をかたどった丸い金鍔を作っています。また、他にも、発祥の丸型にこだわっている店があります。 熊本にある、お菓子の香梅です。香梅の金鍔は、以前は「まるきんつば」という名前でしたが、「刀は備前、鍔は肥後」と言われたブランド鍔にあやかり、「肥後鍔」に改名しました。 肥後鍔は、江戸時代から熊本と八代を中心に作られてきた刀の鍔です。鍔は手を防御するための刀装具ですが、肥後鍔は古今の刀装具の中...

マルメロを包む「加勢以多」 熊本

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マルメロという果実をご存じでしょうか。セイヨウカリンとも言います。マルメロもカリンもバラ科の落葉高木ですが、カリンは中国大陸の原産で、マルメロはイランやトルキスタン地方などが原産地とされます。我が国には、江戸時代の1630年代の初め、長崎に出島が造られ、ポルトガル人が収容された頃にもたらされたと言われています。 洋梨型で黄色のマルメロの実は、外側が綿毛で覆われ、甘酸っぱいような独特の芳香を発します。実そのものは堅くて渋く、生でかじるというわけにはいきません。 このマルメロの実を原料にしたのが、熊本の銘菓「加勢以多(カセイタ)」です。この名は、ポルトガル語の「カイシャ・ダ・マルメラーダ(マルメロ砂糖漬の箱)」からきていると言われます。初めの2句「カイシャ・ダ」がなまって、「カセイダ」になったのだろうというのです。 このマルメロの実を原料としたポルトガルの菓子を好み、茶席で用いたのが細川忠興でした。忠興は『細川三斎茶書』『細川茶湯之書』でも知られた茶人で、千利休に学んで茶の湯の奥義を極めた人でした。忠興は、茶の中に新しいものを進んで取り入れた人だったそうですから、「カセイタ」は好みに適った菓子でした。 やがて、マルメロは細川藩内で栽培されるようになり、「カセイタ」も作られ、徳川将軍家への献上品にも加えられるようになります。 19世紀初めの記録では、細川藩内の菓子屋でもマルメロを植えていたそうですから、「カセイタ」が揺るぎない肥後産代々の銘菓となっていた様子がうかがえます。 『恰園随筆(細川護貞)』によると、昔の「カセイタ」は次のようにして作ったそうです。 まず、マルメロの皮をむいて、実を四つ切りにして堅い部分を除き、柔らかくなるまで弱火で煮てから水気を切り、すり鉢ですって漉します。更に、砂糖とゆで汁を入れてかき混ぜてから再び漉して、とろ火でくず餅くらいの堅さになるまで煮ます。それを2日ほど杉の板の容器に入れて、出来上がりとなります。堅めのマルメロジャムと言っていいでしょう。今の「加勢以多」は寒天も使い、それをもち米の粉の皮で挟みます。口に含むと、濃厚な甘味を米の粉がやさしくくるみ込み、ゼリーのような舶来の味覚が楽しめる銘菓です。

球磨川「焼酎渓谷(バレー)」を訪ねる

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人吉を語る時、忘れてはならないのが球磨川です。熊本県南部をU字状に流れる長さ約115km、九州第二の大河です。 日本三大急流の一つに数えられ、その急流を下る球磨川下りはよく知られています。また、アユ釣りの名所として、全国の釣り天狗を魅きつけていますが、シーズンなど、アユの数より多いんじゃないかと思うほど、釣り人の姿が目につきます。 寛政の三奇人の一人とうたわれた高山彦九郎は、1792(寛政4)年2月、球磨を訪れていますが、その時の様子を『筑紫日記』に「馳走有り。焼酎に鮎を肴とす」と書いています。球磨川のアユと球磨焼酎。たしかに、最高のご馳走であったに違いありません。 さて、その球磨焼酎ですが、これは球磨川流域に27(取材時は32)もの醸造元があります。人吉の下流・球磨村から、上流の水上村にかけて球磨川沿いにまんべんなく、焼酎メーカーが散らばっています。 その様は、「焼酎渓谷」という表現がぴったりです。この渓谷の人たちは、球磨川の清流の恵みを受けながら、これまで何世代にもわたって焼酎を作り、売り、そして自分たちも飲んで生活してきました。 ところで、なぜ、球磨川流域が、このような焼酎の大生産地になったのでしょうか。水がいいこともありますが、球磨焼酎は米が原料、球磨地方にはその米が余っていたからということらしいのです。 人吉は、相良氏が鎌倉初期から明治維新まで、約700年にわたって治めてきた日本一古い城下町。この人吉藩は、表高こそ2万2000石という小藩でしたが、実質10万石の収入がありました。 人吉市の東端から小高い丘陵が連なります。実はその奥に、巨大な稲田が広がっているのですが、丘に隠れているのを幸い、うちはここまでと検地の役人をだましていたのです。そして、この豊かな米を原料に、せっせと焼酎を作っていました。  ◆ 取材の際、チョクと呼ばれる盃に遭遇しました。販売促進用に作ったぐい飲みのミニチュアだろうと思ったのですが、取材に協力して頂いた深野酒造の社長は、「いや、これこそが本来の球磨焼酎の盃」と。 元来この地方では、ガラという酒器に入れて、そのまま火にかけて温めたものをチョクで飲みます。そして、酔うほどに賑わうほどに、無礼講で球磨拳が始まります。 球磨拳というのは、ジャンケンに似たゲームで、負けた人が必ず一杯飲み干さなければいけません。しかも、延々続くという恐怖のゲ...

うたせ船漁と焼きエビ、芦北町のフォトジェニックな風景

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  ある雑誌の編集に携わっていた頃、日本全国の風物や産業などを取材して紹介する企画を担当していました。そのため、取材のネタを集めるため、伝統工芸や郷土料理などを、調べまくっていました。それをテーマごとに分類し、場所がかぶらないよう配慮しながら、毎月、取材に当たっていました。 ネタ集めは、当然のことながら、編集者の好みが出ます。だいぶ前、私より一回り上の先輩編集者と二人で企画を組んでいた時は、どちらかと言うと伝統工芸や歴史関係の取材が多かったように思います。しかし、私より一回り以上、年下の女性編集者と組むようになってからは、どうも二人の思考が似通っていたのか、第一次産業が多くなってきました。取材候補の打ち合わせをして、先々の企画まで決めた後、一覧にしてみたら、ほとんど食べ物ネタだったなんてこともありました。そして、勢いのままではいかんなと反省しながら、企画を立て直すわけですが、そうしたことが度々あって、自分たちの学習能力に疑問を抱いたものです。 そんな取材候補の中に、正月の雑煮に欠かせない食材がありました。ひとくちに雑煮と言っても、住む場所によって、だいぶイメージが違うと思います。角餅か丸餅か、すまし汁か味噌仕立てかなど、地方によってだいぶ違いがあります。その中で、私が取材したかったのが、宮城県の焼きハゼと、熊本県南部と鹿児島県北部の焼きエビでした。 焼きハゼは、仙台雑煮に欠かせない伝統食材で、焼きハゼから取っただし汁で、大根やニンジン、ゴボウ、しみ豆腐などを煮ます。それを、角餅を入れたお椀に移し、かまぼこ、セリ、イクラに、だしを取ったハゼも載せるのが、宮城の伝統的な正月料理「焼きはぜの雑煮」です。この焼きハゼについては、最も伝統的な製法を継承していた石巻市長面浦の生産者が、2011年の東日本大震災で被災。その後の復活劇についても書きたいところですが、それだけで長くなってしまうので、こちらについては、またの機会に譲りたいと思います。 一方の焼きエビは、「海の貴婦人」と言われる「うたせ船」による伝統漁でとられるクマエビを使います。焼きエビ作りと共に、うたせ船漁も絵になる素材で、地元の方の協力で、どちらも取材させて頂けました。 クマエビは、クルマエビの仲間で、熊本では脚が赤いことからアシアカエビと呼びます。味が濃厚で、刺身でも塩焼きでもおいしいのですが、それを焼い...

古より今に。時を流れる轟泉水道 - 宇土

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御輿来海岸 宇土市を最初に訪問したのは、1987年のこと。開業医の伊達 鍈 二さんに会うためでした。 伊達さんは、熊本の大学病院勤務を経て、1980年に有明海沿いの宇土市網田町に診療所を構えました。そこは海風が強く、開院を祝って訪ねて来た友人の工学博士からは、「こりゃあ風力発電が出来るばい」と、太鼓判を押されたそうです。 この時から、伊達さんの心の中で、風車が回り始めました。夜ごとの酒の肴はこれに決まり。飲むほどに、酔うほどに、心の中の風車は大きく強く、伊達さんの心にエネルギーを充電してくれました。 風力発電は、19世紀後半からイギリスやアメリカなどで試みられており、日本では1949年に札幌で、風車の製造が始まりました。その後、オイルショックを機に代替エネルギーとしての風力発電への関心が高まり、70年代には複数の教育機関が研究に乗り出しました。しかし、80年代になると、石油の安定供給や価格の下落により、風力発電の研究開発は下火になっていました。 そんな時代でしたが、風の持つエネルギーに対する伊達さんの興味は、ふくらむばかり。風車の研究から始め、1年かかって、風力発電用として直径4mのプロペラ式風車を採用。初めて2枚の翼が、ゆっくり、そして風切り音をたてて回り出した時は、「無性に感動を覚えた」そうです。更にそれを、発電機で電気エネルギーに変換。「電気にする」 ことにも成功しました。 すると次に、「発電したからには何かに使わないと」と、電気の使い道を考え始めたのです。その第1段階は「風で茶を沸かす」こと。発電機をヒーターにつないて熱エネルギーにして、お湯を沸かしました。それがうまくいくと、今度はいよいよ第2段階の「風で走る」、つまり電気自動車への挑戦でした。 1970年の大阪万博会場で使われた電気自動車は、ダイハツが担当しました。以来、ダイハツはハイゼットなどの電気自動車を市販したり、自治体向けに電気自動車を少数納入したりしていました。 そこで伊達さんは、ダイハツに相談し、電気自動車と共に、専用充電装置を開発してもらいました。風車が回り始めて1年、最初にアイデアを思いついてから2年の月日が経っていました。 当時、風力を利用した電気自動車は国内では初めて、世界的にも極めて珍しいと評判になりました。最...