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民謡のある風景 - 海路で運ばれた唄の源流(熊本県 牛深ハイヤ)

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熊本県の天草は、隠れキリシタンの里と言われ、崎津港の天主堂は、天草を代表する景観となっています。天草は、大小120余の島からなり、天然の良港が多い土地です。崎津はその一つですが、唄で知られた牛深港も、各方面への定期船が発着して、海の路の要となっており、今なお水産業の中心地でもあります。 牛深が発祥地だとされる唄が『牛深ハイヤ』ですが、牛深は、土地の歴史から言っても、唄の発祥地というよりは、唄を広めた中軸の地と言った方がいいかもしれません。  ♪ハイヤエー ハイヤ可愛いや 可愛いや   今朝出た船はェー どこの港にサーマ 入るやらェー 牛深はその昔、風待ちをする船の寄港地だったといいます。海産物を積んで大坂へ向かう船は、牛深で南風の吹き出しを待ちました。その南風を、西日本では広く「ハエ」と呼んでいます。梅雨時の南風が黒ハエ、梅雨明けの南風が白ハエと呼ばれてもいます。この唄の唄い出しハイヤエーは、そのハエのことだという説があります。つまりは、風を利用して航行した船乗りたちが、この唄と深く関わっていた証左がそこにもある、ということでしょうか。 『ハイヤ節』は本来、奄美の盆踊り唄に、二上がりの手を付け、口笛も入った激しいリズムの唄だったといいます。鹿児崎や長崎の田助も『ハイヤ節』の発祥地と言われたりしていますが、どれも底抜けに明るい唄です。南国のリズムが、船乗りたちの気風と溶け合い、この唄は酒席で盛んに唄われ、やがて船乗りたちによって諸国へ運ばれました。 各地に散った『ハイヤ節』は、それぞれの土地に根を下ろしました。『津軽アイヤ節』『塩釜甚句』『庄内ハエヤ節』『三原ヤッサ』など、実に多くのハイヤ系の唄があります。ハイヤの変貌は、昔の交通の要が、海の路であったことを告げ、唄の生い立ちの秘密を暗示して、興味がつきません。

100年近い歴史を刻む木造駅舎のシフォンケーキ屋さん

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昨日、千綿駅のことを書いていて、趣のある木造駅舎に喫茶店が営業する駅が、南阿蘇にもあることを思い出しました。南阿蘇鉄道高森線の長陽駅です。 1928(昭和3)年2月、旧国鉄時代に豊肥本線の支線として、南阿蘇村の立野と高森町の間を結ぶ路線が開業。その際、もともとあった立野駅に加え、長陽、阿蘇下田、中松、阿蘇白川、高森の各駅が新設されました。その後、同年12月に豊肥本線が全通したことに伴い、立野 - 高森間は高森線として分離されました。 しかし、赤字路線となり、1981(昭和56)年に第1次特定地方交通線として廃止が承認され、バスへの転換案が提示されました。これに対して、地元では存続運動を展開。7町村の出資(99.5%)によって、85年に第三セクター「南阿蘇鉄道」(愛称「南鉄」)が設立され、86年から営業を開始しました。 転換当初は、旧国鉄高森線時代の6駅でしたが、日本一長い駅名を誇る「南阿蘇水の生まれる里白水高原」や、名水百選に選ばれた白川水源の最寄り駅「南阿蘇白川水源」など10駅にまで増え、地域住民の交通手段としてだけではなく、阿蘇観光にも利用されるローカル色豊かな鉄道となっています。 そんな中で、長陽駅には2006(平成18)年、駅舎内の喫茶店「久永屋」が開業。店主の久永操さんは佐賀県の出身だそうですが、ご両親が南阿蘇に移住した関係で、南阿蘇で仕事をするようになりました。 駅舎を店舗にするまでには紆余曲折があったらしいのですが、長陽地区出身の村長を始め役場の方たちの協力もあり、外装改修と構造補強は村で、内装工事は自費で施工し、開店にこぎ着けました。看板メニューは、「久永屋の唯一の資本」と言われたことから命名した「資本ケーキ(シフォンケーキ)」。国産の無漂白小麦とサトウキビ100%の粗糖を材料に、添加物や保存料は使わない自然派のケーキを作っています。 ただ、喫茶店をオープンするのは土日祝日限定で、ふだんはシフォンケーキ屋として営業しています。お取り寄せも出来るので、気になった方はサイトを覗いてみてください。→ http://choyoeki.shop-pro.jp/ ちなみに南阿蘇鉄道は、2016年4月の熊本地震で大きな被害を受け、一時、全線運休となりました。その年7月31日から、高森駅と中松駅の間5駅、7.1kmで運転を再開しましたが、中松〜立野間は依然として運休

ミシュランプレートに掲載された馬肉料理店「馬勝蔵」

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熊本地震関連の取材で肥後大津駅近くのホテルに泊まったのは、鍋ケ滝撮影( 裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝 )の際に一度行っている馬肉料理の「馬勝蔵」が、目的の一つと前の記事(南阿蘇村でお世話になった宿のいい話)に書きました。「 熊本と聞いて思い浮かぶ事ども 」でも書きましたが、2017年に実施された「熊本県と聞いて思い浮かぶもの」というネット調査で、馬刺しは、くまモン(28.8%)、熊本城(16.7%)、阿蘇山(11.4%)に次ぐ4位となっていました。 というわけで、今回は肥後大津駅周辺の話です。肥後大津駅近くにはホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅や旅籠はしもと、エヴァーグリーン大津駅前などの宿があります。また駅の南側を走る国道57号沿いにも、ベッセルホテル熊本空港、ホテルビスタ熊本空港、カンデオホテルズ大津熊本空港などが建ち並んでおり、宿泊にはかなり便利です。 そんな肥後大津駅の北、歩いて3、4分の所に、馬肉料理の「馬勝蔵」があります。 ちなみに、ミシュランの基準を満たした料理を提供する飲食店「ミシュランプレート」に掲載された馬肉料理店は、熊本県全体で4軒あります。3軒は熊本市内(菅乃屋銀座通り店、けんぞう、むつ五郎)ですが、残り1軒が、この馬勝蔵でした。 馬勝蔵は、1890(明治23)年に建てられた蔵を改装しており、建物自体、なかなか趣があります。蔵造りの玄関に掲げられた赤い暖簾には、「馬勝蔵」という店名の下に、「UMAKATSUZO」と書かれた英字が表示されていました。それを見て知ったのですが、店の名前は「うまかつぞう」だそうです。 これ、熊本の方言「うまかっぞぅ(おいしいぞう)」から付けたそうです。そう考えると、店名が先で、蔵を見つけてきたのか、蔵が先で、そこから店名を思いついたのか、気になるところです。 で、肝心の料理ですが、ネット調査で4位に入った馬刺しはもちろん、煮込みや焼き物、揚げ物など、さまざまな馬肉料理がありました。メニューは写真に撮ってこなかったんですが、馬ステーキに馬カツ、馬すじや馬ホルモンの煮込み、レバ刺しを含めた各種馬刺し、串焼き、串揚げ、コロッケなどが、お品書きに載っていました。また、馬肉料理だけではなく、大津の郷土料理だという唐芋天婦羅や、国内最大級の地鶏・天草大王、更には熊本ラーメン、阿蘇高菜めしなどもありました。 通常

南阿蘇村でお世話になった宿のいい話

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今回は、熊本地震について書いた前3本の記事の余録です。地震発生後10日近く経った4月24日に初めて西原村に入った際は、車中泊だったのですが、5月以降は出来るだけ取材先に近い宿を拠点にしました。 熊本城に近い アークホテル熊本城前 、益城町と西原村に近い グリーンリッチホテルあそ熊本空港 と ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前 、それに 南阿蘇村のグリーンピア南阿蘇 、 ペンションルミナス 、ペンションハーモニーなどです。 熊本市内に関しては、シティホテルもビジネスホテルもたくさんあるので、特に問題なしでしたが、他はオンライン予約大手の楽天トラベルやじゃらんで、飛行機のパックで出てきた宿を押さえました。益城町には、エミナースというホテルがあるのですが、ここは当時、被災された方の避難所になっていました。ただ、益城や西原は熊本空港がある場所なので、周辺にビジネスホテルが点在しており、特に宿には困りませんでした。 グリーンリッチホテルあそ熊本空港は菊陽町、ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前は大津町にそれぞれありますが、どちらも熊本空港から車で14、15分の所にあり、近くには鍋ケ滝の取材( 裏からも見ることが出来るフォトジェニックな滝 )の際に泊まった ホテルビスタ熊本空港 や、ベッセルホテル熊本空港、カンデオホテルズ大津熊本空港、カンデオホテルズ菊陽熊本空港、HOTEL AZ 熊本大津店などが、熊本から南阿蘇村へ向かう国道57号沿いに建っています。 このうち、ホテルルートイン阿蘇くまもと空港駅前は、JR豊肥本線肥後大津駅から歩いて2分ほどの所にあり、近くには居酒屋さんがあったり、鍋ケ滝撮影で泊まった時に行った馬肉料理の「馬勝蔵」も歩いて5、6分と、かなり利便性のあるホテルでした。 地震があった2016年の取材はいずれも単独でしたが、この時は地震被害から再建された益城町給食センターの取材で、カメラマンの田中さんが一緒だったため、飲み歩くことを想定していました。ただ、給食センター再建支援の中心になった方と取材のコーディネートをしてくれた方が、両方とも熊本市の方で、しかも一人はお酒を飲まず車の運転が好きな方で、車で送迎するからと、熊本市内の馬肉ダイニング「馬桜」に連れて行かれ、結局、飲み歩きの利便性は何の意味も持ちませんでした。 一方、南阿蘇村は、草千里ケ浜や白川水源など、豊

がんばるばい熊本!! 南阿蘇ミーティング 2016夏

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南阿蘇村は4月16日の熊本地震本震で、震度6強を観測。阿蘇外輪山の内側にある村は至る所で山ののり面が崩落して、流れ出した土砂が道路や橋、住宅を押し流しました。 この地震では、南阿蘇村だけで31人の方が犠牲となりました(関連死15人)。村の調べでは、被害家屋は全壊、半壊だけで1600棟以上と、甚大な被害となりました。この他、国道57号が阿蘇大橋の崩落と土砂災害により通行止め、県道28号熊本高森線も俵山トンネルの崩落と土砂災害のため通行止めとなったのを始め、村内の生活道路が至る所で損壊していました。 また、山の崩落が見られるエリアでは雨が降る度に土砂災害の危険が高まり、大雨が降った6月28日には1658世帯3931人に避難指示、2693世帯6606人に避難勧告が出ました。これは村の人口の9割近くとなり、地震から2カ月以上が経っても、多くの住民が2次災害に怯える状況となっていました。 その1週間ほど前の6月20日夜半にも阿蘇地方を豪雨が襲い、福祉避難所の旅館朝陽はベランダの排水能力が間に合わず、全館水浸しとなってしまいました。避難者たちは、漏電の恐れがあるためブレーカーを落とし、暴風雨と暗闇の中、フロアの水出しに追われたといいます。オーナーの土田裕二さんによると、朝陽に避難している約30人方はお年寄りが多く、地震による被災だけでも大変な中、6月のような豪雨災害が重なると、非常に大きなストレスとなると話していました。 5月に朝陽を訪問した際の話を、熊本市の知人TTさんにしたところ、少しでもそうした方たちの力になりたいと、被災地支援隊を組織し、朝陽を拠点に活動を展開することになりました。支援隊のうち女性陣は調理場で食事の支度、男性陣は土田さんを通じて依頼のあった被災者宅で家の片付けを手伝うなどの活動を実施しました。 その後、8月に入って、被災地支援活動を通じてつながった全国の有志により、南阿蘇村にある世界最大級の野外劇場アスペクタで、食と音楽、遊びのイベント「がんばるばい熊本!! 南阿蘇ミーティング 2016夏」が開催されました。 イベントには全国15道府県から有志が集結。地元ボランティアも含め約130人のスタッフで、さまざまな企画が実施されました。「食」ではフードコートに、鶏肉とナスのグリーンカレー(チーム青森)、焼き鳥と焼きトウモロコシ(チーム鯖江)、たこ焼き、お好み焼き

阿蘇大橋の崩落で村が寸断された南阿蘇村

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前の記事で書いた西原村での炊き出しの日(4月25日)、炊き出しの中心となった石垣島のSYさんと共に南阿蘇村へも入りました。阿蘇大橋が崩落していたため、いったんミルクロードに出て、県道23号から南阿蘇村に向かいました。事前にコンタクトを取っていた中尾三郎さんの自宅は、応急危険度判定で「建物が傾斜している」として危険判定を受けていたため、当時は、阿蘇市赤水に避難しており、そこでお会いして現状をお聞きしました。 中尾さんの自宅があるか立野地区には、村で唯一の救急病院だった阿蘇立野病院があり、中野さんの自宅からは車で5分ほどですが、病院の間の道路は地震の被害で通行止めとなっていました。その阿蘇立野病院も、地震で建物に亀裂が入るなど大きな被害を受け、入院患者を他の医療機関に搬送後、しばらく休診となっているなどの話を伺いました。また、中尾さんの自宅や阿蘇立野病院は、村の中心部とは黒川をはさんで対岸にあり、阿蘇大橋の崩落によって行き来が出来にくい状態だとも話していました。 南阿蘇村は阿蘇カルデラの南部、阿蘇五岳と外輪山に挟まれた南郷谷にあります。白水村、久木野村、長陽村の3村が合併して出来た村で、村内中央を東から西へ流れる白川が、外輪山の切れ目となる立野地区で黒川と合流し、熊本平野へと流れています。今回の地震では、旧長陽村の黒川側で大きな被害が出ました。大規模な土砂崩れにより国道57号が寸断され、阿蘇大橋が崩落した立野地区や、京都大学火山研究所の下から大規模地すべりが起きた高野台も、複数のアパートが倒壊した東海大学の学生村があったのも、このエリアになります。 地震から1カ月ほど経った5月17、18日に、再度、南阿蘇村を訪問しました。最初に伺ったのは、高野台に住む松岡一雄さんでした。 松岡さんは、地震の瞬間、下から突き上げるような激しい縦揺れに、身体が宙に飛ばされました。続いて長い横揺れが始まり、それと共にこれまで経験したことのないような地響きがしてきました。土砂崩れでした。 京都大学火山研究所が丘の上にあるこの地区は高野台と呼ばれ、村が開発公社を通じて売り出した住宅地でした。南阿蘇村で不動産業を営み、村内の宅地情勢に詳しい上田晴三さんは「傾斜の緩やかな場所ですし、雨も降っていないのに、これほどの土砂崩れが起こるとは考えてもいませんでした。火山灰の層が強い揺れで液状化したとしか考え

熊本地震支援活動 - 西原村・益城町

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熊本地震が起きた2016年4月14日は、取材で宮崎県の高鍋町にいました( 児童福祉の父・石井十次のルーツを訪ねる - 高鍋 )。宮崎県でも、阿蘇に近い高千穂町などで震度5強を観測しましたが、高鍋町は震度4の揺れでした。それでも、大きな地震であったことはすぐに分かりました。 しかし、その2日後に本震がくるなんて・・・。 4月16日午前1時25分頃、熊本県熊本地方を震源とする強い地震があり、益城町と西原村で震度7の激しい揺れを観測しました。14日にあった震度7の揺れは、この日の地震の「前震」とされたのです。 翌17日、東日本大震災の被災地支援で知り合い、前年9月の関東・東北豪雨でも常総市に詰めて活動した茨城県水戸市の若林純也さんが、早くも熊本の被災地に入り、特に被害が大きかった益城町、西原村、南阿蘇村を回って、状況の確認とニーズの把握、支援の調整を始めました。ちょうど、東日本大震災の被災地・南三陸へ同行したり、後の西日本豪雨では一緒に真備へ入った、南海のシーサーこと石垣島のSYさんから、熊本地震の被災地で炊き出しをしたいが、どこがいいだろうと相談を受けていたので、若林さんに連絡し、炊き出し場所の調整をお願いしました。 若林さんは、すぐに西原市災害対策本部と調整をしてくれ、4月25日に避難所となっている西原中学校で炊き出しを受け入れてもらえることが決まりました。 熊本市から東へ約20km。阿蘇外輪山の西麓にある西原村は、昭和35年に山西村と河原村が合併。両村から1文字ずつをとって新しい村名としました。熊本地震では、16日未明の本震で震度7の激しい揺れを観測。住宅約2300棟のうち344棟が全壊、1087棟が半壊と、6割以上の家が大きな被害を受けました。また、倒壊した建物の下敷きになるなどして、5人の方が亡くなっています。 石垣島からやって来たSYさんたちは、沖縄での戦没者遺骨収集活動などで以前から交流のある福岡の友人らと共に、24日夜、西原村に到着しました。そして、避難所の責任者と打ち合わせを行った上で、休む間もなく翌日の設営を開始。手際よくテントやテーブルなどの配置を済ませた後、車の中で仮眠をとり、翌朝の炊き出しに備えました。 SYさんたちが提供したのは、八重山そばと天ぷら。また、話を聞きつけた恩納村商工会女性部の方たちが、1000食分のだしと、サーターアンダギー500

「火の国」熊本のシンボル・阿蘇山

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熊本 - 小国 - 阿蘇 - 高千穂 - 日之影の取材行3回目です。小国町の鍋ケ滝の撮影を終えた後、次なる目的地・高千穂までは、大観峰からミルクロードで、阿蘇の外側を通るルートが最短ですが、せっかくなので、阿蘇山に寄って行くことにしました。2013年当時は、阿蘇山ロープウェーが運行しており、まずはそこを目指しました。 阿蘇山は「火の国」熊本のシンボル的存在で、世界有数の大型カルデラと雄大な外輪山を持っています。今も盛んに噴煙をあげる中岳、1592mと阿蘇最高峰の高岳、鋸歯のような山容が特徴の根子岳に、杵島岳、烏帽子岳の阿蘇五岳が東西に連なります。その周りを、高さ700〜800mの外輪山が南北約24km、東西約18kmにわたって囲んでカルデラを形成しています。 そんな壮大なスケールを実感するためには、外輪山からの展望がお勧めです。鍋ケ滝から大観峰までは約20km、30分弱で着きます。大観峰展望台に立つと、眼下の谷に水田や町が広がり、その向こうに阿蘇五岳がどっしりと横たわります。その迫力ある景観には、圧倒されるばかりです。 特に見どころが集中しているのは、阿蘇山の西側です。大観峰から阿蘇山ロープウェーを目指すと、ちょうどそれらの絶景ポイントを通ります。すり鉢を逆さにしたような米塚は、緑の山肌が美しい寄生火山です。烏帽子岳の北側には、火口跡が大草原となった草千里ケ浜が広がります。夏には放牧された牛馬が草を食む、のどかな高原の趣となります。 外輪山やカルデラ内部にある中央火口丘の広大な草原は、ほとんどがススキとネザサの群落です。私が行った晩秋は、特にススキの穂が光に映え、非常に美しい景観を見せてくれました。 この風景は、阿蘇山の度重なる噴火やそれに伴う降灰によって生み出され、更に放牧や野焼きなど、人の手が加わって作り出されました。いわば自然と人間の共生によって維持されてきた草原で、歴史的産物と言っても過言ではありません。 阿蘇では毎年3月中旬に野焼きが行われます。前の年の枯れ草を焼却し、森林化の最初の段階である低木の生長を抑え、また地下茎が発達して火に強いイネ科の植物の比率を高めることなどを目的としています。野焼き直後の草原は一面真っ黒ですが、しばらくすると緑の草原に変わります。その頃にはあちこちに牛が放牧されます。また夏には、冬の牛馬の餌として背の高い草が刈り取られます。