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江戸時代から続く老舗居酒屋「鍵屋」

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前に上野について書いた際( 忍岡と呼ばれた上野公園と不忍池は台地と低地の境目 )、上野駅の隣にある鶯谷駅についても少しだけ触れました。その時にも書きましたが、鶯谷駅の南口は山の手台地、北口は下町低地になっており、南口は徳川将軍家の菩提寺・寛永寺の寺域で、崖下となる北口はラブホテル街という、地形的にも環境的にも、かなり対照的な感じになっています。 で、上野の記事は、南口から上野公園に向かって書き進めましたが、北口にも、実はお薦めしたいスポットがあります。 鶯谷駅の南口から跨線橋で北口へ渡り、鶯谷駅下の交差点で言問通りを横断。左に進んで2本目の道を入り、すぐに左折すると、右側に大変趣のある佇まいを見せる正統派居酒屋「鍵屋」があります。 「鍵屋」は、1856(安政3)年の創業。現存する居酒屋としては、日本最古と言われます。もともとは酒屋で、店先に卓を置いて飲めるようになっていたそうです。当時は、今よりもやや浅草寄りの下谷に店を構えていましたが、言問通りの拡張に伴い現在地へ移転。大正元年に建てられた日本家屋を改装し、風情ある店構えを保ちつつ今も変わらぬスタイルで営業しています。 なお、初代の建物は、私が幼少期から結婚するまで住んでいた小金井市の、小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」に移築され、毎年8月のイベント時には、その中でお酒を楽しめるそうです。 これまで何度か「鍵屋」に行っていますが、17時開店なので、平日、仕事を終えてからだと、店内はいつも満席。ただ、お客さんが長居をするような店ではないので、少しの間、待っていれば入ることが出来ます。 メニューを写真で入れておきますが、私が必ず頼むのは、「うなぎのくりからやき」と「煮奴」です。 「くりからやき」は、不動明王が持つ倶利伽羅剣に似ていることから名付けられたもので、「鍵屋」では、間違いなく看板メニューになっています。「鍵屋」では、うなぎの腹身を串に刺し、たれに漬けて炙っています。身は弾力があり、甘辛いたれとうなぎの脂がよく絡み、とてもおいしいので、お薦めです。 もう一つの「煮奴」も「鍵屋」の名物の一つで、メニューにある「とりもつなべ」の甘辛い醤油味のつゆで煮ています。とりもつのだしが、豆腐によく染み、更に時々とりもつが入っていたりして、それもまた楽しみな一品となっています。 また「鍵屋」のお酒は、菊正宗、大関、櫻正宗の

これなくして冬は語れない - 庄内の郷土料理・寒鱈汁

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酒田市は山形県北西部、1672(寛文12)年に西廻り航路が整備されると、最上川舟運と結び付いた米の一大集散地となり、日本海沿岸有数の港町として発展しました。その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」とも言われ、井原西鶴の『日本永代蔵』に登場する廻船問屋の鐙屋や、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と俗謡にうたわれた本間家などの豪商が活躍。更に明治に入ると、庄内平野の米作地帯を背景に米取引が盛んとなり、1893(明治26)年には米の貯蔵庫として山居倉庫が建てられました。 山居倉庫は米どころ庄内のシンボル的存在で、間口13.6m、奥行き約29mの建物が12棟連なっています。そのうち9棟は現役の米保管倉庫となっており、現在は最新空調システムが付いていますが、建てられた当時は土木建築技術の粋を集め、庄内の気候に合わせた機能性を持たせていました。その一つが、倉庫内を一定の温度に保つための二重屋根で、他にも土蔵と屋根の間を空けることで温度と湿度が急激に上昇するのを防ぐなどの工夫が凝らされていました。また倉庫裏にあるケヤキ並木は冬の風雪から倉庫を守るために植えられたもので、夏には生い茂った葉が西日をさえぎる役目を果たします。 ちなみに山居倉庫は、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」の舞台としても知られます。「おしん」は平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%という驚異的な数字を記録し、世界68カ国で放映されるなど、テレビ史に残るヒットとなりました。 そんな酒田市へ行ったのは、2017年1月27日のことでした。酒田までは飛行機を使った方が若干早いのですが、自宅からだと上越新幹線で新潟を経由しても、30分程度しか違わないので、金額的には半分以下のJRを使うことにしました。北へ向かう新幹線の場合、私は上野か大宮から乗るのですが、この時は大宮から乗車。新潟までは約1時間15分、新潟からは羽越本線の特急いなほで酒田へ向かいます。 新潟から酒田までは、2時間少々ですが、この日は強風の影響で列車が遅延。途中で停車したり徐行したりで、酒田到着は50分ほど遅れました。2005年12月25日に、この区間で強風によって乗客5人が亡くなる脱線事故があってから、強風時の運行にはかなり慎重になっているようです。予定していた取材があったため、やきもきしましたが、地元の方が駅で待機していてくださり、酒田に到

震災の被災地で女性たちの支援に取り組む

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宮古は三陸復興国立公園や早池峰国定公園など、海、山、川の恵まれた自然環境を背景に、観光に力を入れています。中でも浄土ケ浜は、三陸復興国立公園の中心的存在で、1955年に国の名勝に指定された他、岩手県指定名勝(第1号/54年指定)や、日本の白砂青松100選(87年)、かおり風景100選(環境省、2001年)などに選定されています。 そんな観光・宮古の復興に手を貸そうと、酉の市発祥の寺として知られる東京・浅草の長國寺から宮古市に、大熊手が贈られています。日本一と言われるこの大熊手は、毎年100万人の人出でにぎわう浅草の酉の市で実際に祭られたもので、これまでは門外不出でした。しかし、「三陸の復興に役立てたい」という井桁凰雄住職の提案で、震災のあった2011年から宮古市に贈られるようになりました。 その取材の折にお会いした宮古市議会議員の須賀原チエ子さんは、震災により地域が崩壊し、仮設住宅などに引きこもりがちになっていた家庭の主婦らを支援しようと、被災者が自立していくための手芸品作りなどを行う「輝きの和」を立ち上げました。大熊手奉納の取材をきっかけに、以後、この「輝きの和」も追跡取材させてもらうようになったのですが、その中で、須賀原さんから「命の道路」という話を伺う機会がありました。それは、震災の際、津波にのまれながらも、地域の人たちの行動により助かった乳児とそのお母さんの話でした。  ◆ その時、母子は実家へ向かうため、海沿いの国道45号線を津軽石方面に向けて急いでいました。しかし、海のあまりの恐ろしさに、高浜の入り口で車を乗り捨て、近くの一軒家に助けを求めました。 家の方に2階に上がるよう促され、階段を駆け上がったところに津波が襲来。赤ちゃんを抱いたまま外に引きずり出され、山肌に叩きつけられました。恐る恐る振り向くと、助けを求めた家は、跡形もなく消えていました。 ずぶ濡れで震えていたところを、様子を見に来た近所の若者が発見。彼らの助けを借り、高浜地区の住民が避難する高台にたどり着きました。しかし、その時には赤ちゃんの唇は紫色に変わり、泣くことも出来ませんでした。高浜の皆さんは急いでお湯を沸かし、タオルを持ち寄って懸命に母子を温めました。その中に、「輝きの和」の代表・岩間和子さんもいました。 しかし、赤ちゃんの低体温は治らず、そのままでは命が危ない状態になってしまいました

海と祭りに生きる山田の人々

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山田町は岩手県沿岸部のほぼ中央、北を宮古市、南を大槌町に挟まれています。東日本大震災では、津波で壊滅的な被害を受け、更にその後に発生した火災で、町役場周辺の約500棟があった区画が焼き尽くされました。焼失面積は推定で約18haと、今回の震災で発生した東北沿岸部の火災では最大の被害となりました。 震災後、山田町を最初に訪問したのは、4月15日でした。釜石、大槌、山田に支援物資を搬入する河合悦子さんのグループ( 「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」 )を取材するためでしたが、この時にお会いした山田町の方たちには、その後何度も、取材でお世話になりました。その一人、千坂清一さんに、当時のことを伺ったことがあります。  ◆ 震災前は海から100mほど離れた国道沿いで薬局を経営していました。あの日、私は2坪強の調剤室、二人の従業員は店舗、家内は2階の自宅で遅い昼食を取り寛いでいました。そこへあの揺れがきました。予想外に長く強い揺れに、店では化粧品の瓶が割れ、従業員の悲鳴が聞こえてきました。調剤室でも棚やロッカーが倒れ、飼っていた猫が飛び込んできて私の足元をすごい速さでグルグル回りました。初めて見る行動で、恐ろしいことが起きると、動物の本能で察知していたようです。ようやく揺れが収まった後、すぐに店を閉め、家内には近所に一人で暮らす義母(当時93歳)を連れて避難所である役場に行くよう、従業員にはすぐに自宅に帰るように指示しました。 義母、家内と私の3人が役場の中庭に避難してから約30分、周囲が異様な雰囲気に包まれました。何人かが海の方向を見て息をのむような声にならない声を上げていました。屋根が左から右へ、かなりの速さで動いていくのです。周囲には黄色い煙が上がっていました。後に、大津波が建物を根こそぎ破壊していたのだと分かりました。 それからは町内の一角で発生した火事が一晩かけて広がる様子を、役場の敷地内から呆然と見ていました。翌12日の朝に見た山田町はがれきの山と焼け跡、それに異臭が加わり、とても現実とは信じられませんでした。  ◆ 最初の訪問から数日後の4月21日、青森県の弘前東奥ライオンズクラブが、岩手県山田町の保健センター前で炊き出しを行い、弘前名物のかに汁とおにぎりを800食ずつ山田町の人たちに振る舞いました。 かに汁は、桜の名所・弘前の花見に欠かせない津軽地方定番の季

「大船渡屋台村」OBたちのその後

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三陸を代表する景勝地・穴通磯(あなとおしいそ) 前のブログ( 「大船渡屋台村をきっかけに生まれたつながり」 )に書いた大船渡屋台村は、2011年12月20日にオープンし、2017年5月7日まで、大船渡市大船渡町で営業をしていました。この屋台村と同時期に、大船渡プラザホテルが営業を再開したこともあって、気仙地方に行く時は、プラザホテルに泊まって屋台村を訪問するというパターンが出来上がりました。 鮨・一品料理 山福 屋台村では、ランチが「山福」か「えんがわ」「旬菜美味ひろ」、夜は「らんぷ亭」のもっきりから始めて、「喜楽」のおでんで温まった後、シメに「ゆめんちゅ」に寄るのが定番でした。閉村後の2018年に大船渡に泊まった時は、屋台村があった場所の近くに出来た本設の商店街「キャッセン」へ行き、屋台村では沖縄風居酒屋「ゆめんちゅ」を経営していた佐藤圭二さんの「Another World Bar KEIJI」から、屋台村の理事長だった及川雄右さんの「湾岸食堂」へと移動し、お二人に再会してきました。しかし、まだ訪問していないお店の方が多いので、コロナ禍が収まったら、大船渡にも足を運びたいと思う今日この頃です。(※「キャッセン」は気仙の言葉で「いらっしゃい」の意) 沖縄風居酒屋ゆめんちゅ Another World Bar KEIJI 湾岸食堂 さて、そんなわけで、今回は大船渡屋台村OBたちのその後を書いてみます。 屋台村は、2017年のゴールデンウィークをもって閉村しましたが、それを機に、店主の皆さんはそれぞれの道を歩き出しました。圭二さんや及川さんと同様に、屋台村から「キャッセン」へ出店したのは、「神菜月」「鮨・季節料理ささき」「貝だしラーメン黒船」「花椿(HANABIとして開店)」の各店。また、屋台村と同時期に仮設でオープンした「おおふなと夢商店街」が、本設でも「キャッセン」と同じ日にグランドオープンし、こちらには屋台村から「山福」「青い麦」「ちょっとより処 皁」が出店しました。 2017年4月にオープンしたキャッセン 更に、その年の10月1日には、夢商店街の隣に「おおふなと夢横丁」がオープン。こちらには、屋台村から「あげは」「Aoi」が入りました。屋台村の規程で、当時はどちらも本来のスナックとしての営業は出来ず、「あげは」は小料理屋、「Aoi」は串揚げとして営業。しかし、今