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民謡のある風景 - 大鎌振るう労働の消えた古里(宮崎県 刈干切り唄)

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宮崎は県域の7割以上が山岳部。建国神話で有名な高千穂の峰もここにあります。80代以上の人たちなら多分記憶しているはずの『紀元節祝歌』は、こう歌い出します。 「雲に聳える高千穂の高根おろしに・・・」 宮崎県北西部にある高千穂、熊本県と境を接し、五ケ瀬川の上流に位置します。奥日向と呼ばれる山深い盆地の町は、北に1757mの祖母山、南に1739mの国見岳に挟まれ、昔は、秋になると、この辺り一帯でササや丈なすカヤを刈る光景が見られました。 カヤは、勾配の急な山の斜面に生えています。それを刈る鎌は、刃渡りおよそ50cmばかり、柄の長さは1m半ほどもあったといいますから、カヤ刈りはかなりの重労働だったでしょう。カヤは、よく乾かしてから牛馬の飼料にしました。『刈干切り唄』は、このカヤ刈りの際に唄われました。  ♪ここの山の 刈干しァすんだヨー   あすは田圃で エー稲刈ろかヨー 昔は「一谷一節」と言われ、谷間ごとに独自の節まわしを響かせていました。同じ奥日向でも、高千穂の唄と五ケ瀬のものでは、テンポが違うといいます。高千穂で唄い継がれた旋律は、哀愁をたたえ、ゆったりとした節まわしで、大鎌を振るう労働を彷彿とさせます。 この唄には、日向地方一帯で唄われている旋律もあります。全国的に知られているのはこちらの方で、昭和40年代の民謡ブームに乗って、たちまちポピュラーになりました。 作業唄は座敷唄に変わり、刈干しを飼料としていた牛馬も今は耕耘機に変わってしまいました。地元では、広まった唄の旋律を「うそつき節」といって区別しているそうですが、どちらも既にして、唄の背景を失ってしまいました。 高千穂の峰々は、神話時代そのままの趣で、観光客の姿も絶えませんが、集落の暮らし方は刻々と変わり続け、『刈干切り唄』の古里で、古老のしわは深まるばかりです。

見た目エイリアンなのに味は伊勢エビ級と言われるウチワエビ

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日南市飫肥を取材した際( 飫肥城下に残る不思議な弓 )、初日の撮影が終わり、取材に協力してくれた地元の皆さんと夕食に向かう途中、その一人が魚屋の前で足を止めました。そして、バケツに入った何かを買っていました。 バケツの中を覗くと、見たことのない生物が入っていました。それが、ウチワエビでした。 土地の人はパチエビとかパッチンとか呼んでいるそうです。見かけは、SF物のエイリアンか何かのように、ややグロテスクな感じでした。でも、味は最高で、エビとカニの中間といった感じらしく、身は軟らかく甘いんですよ、と皆さん口々に賛美。後で、ご馳走しますからね、と。 私は初めて見たんですが、このウチワエビ、千葉県から九州、沖縄まで棲息しているとのこと。どちらかと言うと、西日本に多いみたいですが、それでも都市部ではほとんど知られておらず、やはり一般的なエビではない模様。 ただ、宮崎を始め、九州では結構親しまれていて、伊勢エビに比べて安価な割に、かなりおいしく、中には伊勢エビよりうまいという人もいるほどだとか。茹でて食べるのが一般的ですが、焼くと甘みのある濃厚な味わいがより強くなります。一緒にいた方たちは、茹でてマヨネーズをつけて食べると、焼酎にとてもよく合う、と教えてくれました。 身は大小ありますが、それほど大きいものではなく、手のひらサイズと思ってもらえばいいでしょう。私が日南を訪問した頃は、魚屋さんで1匹400円ぐらいで売っていました。 しかし、最近では、そのおいしさが飲食業界に知れ渡り、現在では豊洲市場でも取り引きされ、東日本では伊勢エビ級の高級品として扱われる場合もあるようです。そこで通販サイトを確認したら、1kgで6000円(5〜7匹)から8000円(6〜10匹)、中には1万4000円(5〜10匹)なんて店もありました。恐ろしいもんですな。 取材で行った際、地元の方が、魚屋で買って、ホテルで湯がいて二つに割ってもらえばいいですよ、とアドバイスしてくれました。が、今や庶民の味ではなくなったようなので、日南でも、そんな楽しみ方は出来ないかもしれません。

高千穂の伝統食・こびるにかっぽ酒、そして蘇食

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「 天孫降臨神話に彩られた神々の里 」と「 国見ケ丘から雲海に覆われた天孫降臨の地を望む 」という二つの記事を書いた高千穂を取材した際、ホテル四季見という宿にお世話になりました。このホテルは、本館と離れから成っており、私が泊まったのは離れでした。 基本的に、客室は和室になっており、本館は8畳の和室が9室、12畳の和室が1室あるようです。私が泊まった離れは、6畳の和室に4畳半の次の間、それに踏み込み2畳という部屋構成でした。6室ある離れは、だいたいこの構成ですが、1室は6畳間が和洋室でツインのベッド、あと1室は6畳と9畳の和室に踏み込み2畳と、やや広くなっているみたいです。 これまで何度か書いていますが、私、日本旅館やペンションなどのおしきせの夕食はあまり好きではないので、基本、1泊朝食付きにして、夕食はほとんど外で食べています。しかし、高千穂では、夜神楽を見に行く都合もあって、夕食もホテルで取りました。 で、ホテル四季見は、宿以外にも神楽宿という食事処も経営しており、そこで出している「蘇食物語」とほぼ同じ料理が提供されています。宿によると、「蘇食の蘇は、蘇生する、蘇るの蘇で薬膳の意」で、宮崎の名産品やこの地高千穂に昔から伝わるお料理や食材を現代に蘇らせた食事とのこと。 2年ほど前にSNSで話題になった「蘇」という古代食があります。蘇が、どのような食べ物だったのかは、明確には分かっていませんが、日本や中国の文献などから、チーズやヨーグルト、あるいはバターや練乳といった説が唱えられています。 平安時代の医学書 『医心方』によると、蘇は「全身の衰弱をおぎない、大腸をよくし、口の中の潰瘍を治療する」などとされ、いわゆる健康食と考えられていたようです。もともと、飛鳥時代に唐から伝わった薬には、生薬などの他に、栄養価の高い食材を使った料理なども含まれていました。それらは、今も薬膳料理として食べられており、蘇は、その代表的な食材と言えるのかもしれません。 ホテル四季見の夕食で提供される「高千穂蘇食」は、高千穂が発祥と言われる「かっぽ酒」からスタートします。山仕事の合間に、手近な青竹を切って節を抜き、水を入れて焚き火にくべ、お茶を沸かして飲んだことが始まりとされ、やがて生活の場にも入り込み、中身はお酒に代わり、神事などで飲まれるようになりました。 肝心の料理はというと、古代黒米うど

国見ケ丘から雲海に覆われた天孫降臨の地を望む

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高千穂町は九州山地のほぼ中央、宮崎県の最北端にあり、熊本県、大分県と接しています。国の名勝、天然記念物に指定されている高千穂峡や、国見ケ丘などの景勝地を持ち、天の岩戸開きや天孫降臨を始めとする神話の町として、1年を通じて多くの観光客をひきつけています。 国見ケ丘は、神武天皇の孫に当たる建盤龍命(タテイワタツノミコト)が、 九州統治のため阿蘇に向かう途中、この丘に立ち寄って国見をされたという伝説の丘です。近くには、建磐龍命を祭神とする中畑神社があります。樹齢約300年という杉をご神木とした神社の社殿は、建磐龍命が建てたとされる行宮の跡地に建てられています。建磐龍命は、阿蘇を開拓した神様ともされ、熊本県阿蘇市には、建磐龍命を主祭神とする阿蘇神社があり、中畑神社は、その外宮となっています。 国見ケ丘は、標高513mの小さな山ですが、頂上付近からは、眼下に高千穂の町並みや棚田など、五ケ瀬川に沿って広がる高千穂盆地の美しい風景を見下ろせます。更には東に高千穂の山々、西に阿蘇外輪山や阿蘇五岳、北に標高1757mの祖母山をはじめとする連峰、南に霊峰「二上山」に続く椎葉の山々を一望出来る絶景スポットです。 ちなみに、ここから眺める阿蘇五岳は、お釈迦様が横たわった姿に似ていることから、別名「阿蘇の涅槃像」と呼ばれています。2011年には世界的旅行ガイドブック『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』で、一つ星を獲得しました。 国見ケ丘はまた、雲海の名所としても知られます。秋から初冬(9月中旬から11月下旬)の快晴無風の冷え込んだ早朝、霧が高千穂盆地や、とりまく山々を覆い隠し、墨絵のような幻想的な世界を演出します。天孫降臨の地だけに、朝日が差し込むと同時に雲海が広がり、さまざまな表情を見せてくれる光景は、まるで神話の世界のようです。 そのため、シーズン中は多くの人が、早朝にもかかわらず、雲海を見るために国見ケ岳に上がってきます。実際のところ雲海は天候次第ですが、ちょうどこの頃は、国の重要無形民俗文化財になっている夜神楽が奉納される時期でもあり、夜神楽見学に雲海を組み合わせてもいいかもしれません。 また、国見ヶ丘は、初日の出スポットとしても人気で、毎年、初日の出参りを行う人で賑わいます。元日に国見ケ丘でご来光を仰いだ後、初詣は天岩戸神社にというのは、神話の地ならではの正月行事ですね。 ちな

中世ヨーロッパの町並みを思わせる石垣の村

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高千穂の宿を出た私は、一路、日之影町を目指しました。日之影の目的地は、「石垣の村」と呼ばれる戸川の集落です。 少し前の記事( ANAの機内誌をきっかけに見つけた、石垣の集落 )で、愛媛県愛南町外泊にある「石垣の里」を紹介しました。外泊は、台風や冬の強い季節風から守るため、家の周りを石垣で囲んだ集落でした。 一方、日之影町戸川地区のものは、そうした気象条件から出来た石垣ではないようです。また、外泊は、集落の成り立ちが分かっていますが、戸川の歴史は、よく分かっていないとのことでした。 高千穂の宿から、日之影の石垣の村・戸川までは、「神話街道」と呼ばれる国道218号から、五ケ瀬川に沿って走る県道237号を通り、五ケ瀬川に日之影川が合流する地点を左折。日之影キャンプ場の看板を目印に進みます。ここから日之影川に沿って8kmほど走ると、左手に石垣の集落が見えてきます。※今年8月に九州中央自動車道の一部である高千穂日之影道路が開通したことで、高千穂から日之影のアクセスはこの当時より便利になっています。 さて戸川は、総戸数7戸の小さな集落で、愛南町の外泊のように宅地が石垣になっているのはもちろん、蔵や塀なども石造りで、まるで中世ヨーロッパの町並みを思わせる独特の景観を見せています。先述の通り、戸川地区の歴史は定かではないようですが、残っている記録によると、最も古い石垣は、江戸後期の嘉永から安政年間に築かれたものだといいます。 その記録に出ている石工の坂本寅太郎や、藤本嘉三郎らは、江戸城の修復にも携わっています。江戸城は、1855(安政2)年に起きた安政大地震で、石垣や櫓などが、大きな被害を受けており、時期的にその修復に招かれたのでしょう。 現在、戸川に残っているのは7戸ですが、石垣が積まれた頃は9戸でした。そして、大正時代になって、牛馬が通れる道が出来るまで、それらの家が、外部とは隔絶した自給自足の生活を送っていたそうです。 最も大きな出来事は、1920(大正9)年に始まり25年に完成した七折用水の開通でした。この用水路は、大分県豊後大野市との境にある傾山(標高1605m)を源流とする日之影川の上流部・見立地区で取水し、七折地区の山腹を縫って下流へと流れています。取水口から7kmほどの所にある戸川地区でも、この用水路により、石積みの技術を発揮して棚田が作られました。 その後、192

天孫降臨神話に彩られた神々の里

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阿蘇中岳の火口近くまで行った後、次の目的地・高千穂まで移動しました。と言っても、取材地の日之影に適当な宿が見つからず、中継地として高千穂に泊まることにしたものです。ただ、単なる中継地ではもったいないので、まず高千穂峡に寄ってみました。阿蘇から高千穂峡まで、国道325号で約53km、所要時間は1時間とちょっとでした。 一昨日の鍋ケ滝の記事で、「阿蘇の大自然は、約9万年前に起こった巨大噴火によるもの」と書きましたが、実は高千穂峡も、阿蘇山の火砕流がもたらしたものです。高千穂峡の場合、9万年前の噴火とその3万年前、つまり約12万年前の噴火による火砕流が、五ケ瀬川を浸食して出来た浸食峡谷です。 峡谷は、高い所で100m、 平均80mの断崖が、東西に約7kmにわたって続いています。高千穂峡にある真名井の滝は、日本の滝百選になっている名瀑で、高千穂峡のシンボルともなっています。 この高千穂峡には、約1kmの遊歩道が整備され、崖の上から峡谷や滝を眺められます。また、真名井の滝の近くには、貸しボートもあり、水上から滝を始め柱状節理の断崖を見上げることも出来ます。 私が行ったのは、晩秋だったので、深い緑の渓谷というイメージとは違っていたものの、背景が紅葉しており、それはそれできれいな風景でした。この晩秋というのは、高千穂で夜神楽が始まる時期でもあります。しかも、私が高千穂に行った日は、ちょうど高千穂神社の夜神楽まつりにぶつかり、夜神楽を鑑賞することが出来ました。 毎年11月22日と23日の2日間、高千穂神社の神楽殿で、「神話の高千穂夜神楽まつり」が開催されるそうで、タイミングばっちりでした。で、宿で夕食を取った後、高千穂神社へ向かいました。宿では、夜神楽まつりを見に行く宿泊客のために、バスを出してくれ、行きはそれを利用させてもらいました。 高千穂の夜神楽は、神楽宿と呼ばれる民家や公民館で、夜を徹して三十三番の神楽を氏神様に奉納します。町内20の集落で行われますが、例祭日は集落によって異なり、毎年11月中旬から翌年2月上旬にかけて、それぞれの地域で奉納されます。 ただ、高千穂の夜神楽は、神事ですし、期間も決まっているので、一般の観光客はなかなか見ることが出来ないため、いつでも神楽を広く鑑賞出来るようにと、毎日高千穂神社境内の神楽殿で「高千穂神楽」が行われています。毎日夜の8時から1時間

飫肥城下に残る不思議な弓

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南国情緒あふれる日南の海岸から、国道222号を山の手の方へ上っていくと、なだらかな山々に囲まれた飫肥の町に入ります。ここは、伊東氏5万1000石の城下町。往時の姿を留める石垣塀や門構えを残す武家屋敷が、町のあちこちに連なり、同じ日南市でも、明るい海側とは対照的に、しっとりと落ち着いたたたずまいを感じさせます。 飫肥城は伊東、島津の攻防、実に103年という、城をめぐる戦いとしては日本最長の記録を持ついわくつきの城です。1458(長禄2)年、島津忠国が伊東氏の南進に備えて築城したもので、その後、両氏の間で長い争奪戦が展開され、1578(天正15)年の秀吉による九州統一後、伊東氏の本城となりました。 この飫肥に、四半的という、400年前から伝わる独特の弓があります。射場の距離が4間半、弓矢共に長さ4尺半、的の直径4寸半ということから、その名が付けられたといいます。普通の弓矢に比べ、弓が短く、矢が長い。つまり、よく飛ばないという不思議な弓です。 しかも、射手はみな座って弓を引き、その前にはなぜか焼酎の一升瓶がどんと据えられています。これ、飾りでもなんでもなく、本当に飲んじゃうのです。焼酎と弓。なんとも不釣り合いな取り合わせです。 もともと四半的は、娯楽 - それも農民の遊びとして始まりました。武士が考え出したもので、農民が武器を持たないよう仕向けたもののようです。だから武道、ましてや礼法などとは全く無縁。 今では体協にも加盟、飫肥だけでなく、宮崎県内各地はもとより熊本や東京にも広がり、老若男女、特にお年寄りのレクリエーションとして、最近、競技人口が増えています。休日ともなると民家の庭先や広場など、飫肥の町のあちこちで、四半的を楽しむ光景が見られます。 しかし、体協に加盟しようが、一般的になろうが、焼酎は欠かせません。「飲んで弾こうか、弾いちかり飲もうか」と民謡「四半的くどき」にも歌われるように、こぶし固めと称して弓を引く前に飲み、的に当たったと言ってはまた一杯・・といった調子。 なにしろ宮崎県は、お隣り鹿児島県と並ぶ焼酎王国。人口5万1000人の日南市だけでも、九つの蔵元があります。そんな土地だけに、「焼酎と弓」、一見して不釣り合いなこの取り合わせも、かえってらしく、なんの不思議も感じさせません。 ※写真1枚目=泰平踊:飫肥に元禄の初めから伝わる郷土舞踊。藩主伊東氏の功績を

剛直な尚武の気風を今に残す日向の木刀づくり

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都城は宮崎県南西部、市域の西側と南側は、鹿児島県に接しています。全国有数の木材産地で、木工家具の他、全国生産の90%を占める木刀の産地でもあります。木刀の原材は6割がカシですが、その約80%が南九州に集中するという地理的条件が、その大きな要因となっています。 また、都城には、戦国の世以来の尚武の気風もあります。島津勢力の最前線として、日向の伊東氏や豊後の大友氏と死闘を繰り返してきた都城では、昔から武道が盛んでした。近代に入ってからも、軍都の趣を呈すなど、武張ったイメージの強い九州の中でも、その傾向はとりわけ強い地域です。こうした尚武の土地柄も、都城を全国一の武道具の産地としたことと無縁ではないでしょう。 都城木刀の歴史は、藩政時代、島津氏の支領となって以来のことで、薩摩示現流の大刀が見本として伝承され、明治末には新陰流の大刀を加味して、反りのある美しい型が出来上がりました。産業として確立したのは、大正の中頃になってから。その後、昭和に入って満洲鉄道開設のためのハンマーやつるはしの柄、軍事教練用の武具づくりで、非常な活況を見せました。 しかし、終戦後は武器につながるとして、木刀の製造は禁止されました。禁止が解け、再び製造が始まったのは1952(昭和27)年。この後は、国体に武道が採り入れられるようになって、武道熱も高まり、スポーツ店では武道具木工品が、ベストセラーとなりました。量産時代の幕開けです。が、需要に供給が追いつかず、店を畳む人が出始め、逆に製作者は徐々に減ってきました。 なにしろ一口に木刀と言っても、流派別に型はみな違います。しかも同じ流派でも、一本一本違った要望を出してくる場合があります。なかなか対応しきれるものではありません。 取材させて頂いた当時、宮崎県伝統工芸士である堀之内登さんの所では、木刀だけで約400種に及んでいました。製作者が減った分、しわ寄せがきて、伝統的な都城木刀だけをつくっているわけにはいかないとのことでした。その他、薙刀や木銃、鎖鎌、杖、棒、ヌンチャクなど、武道用具の全てを製造しています。しかも薙刀や空手用品も、流派別です。その当時で、アメリカを始め海外12カ国へも出していました。 また、都城は木刀の他、竹製の大弓づくりの産地でもあり、こちらは全国の95%を占め、弓師も17人を数えていました。木刀にしろ弓にしろ、その製作は手仕事の部分

苦節13年、豊かな森と日向灘の荒波が育てる高鍋の天然かき

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  高鍋のかきは、うまいらしい! その情報が、私の頭にすり込まれたのは、2003年のことです。その年の10月、高鍋のお隣、川南町で取材がありました。 川南町は宮崎県のほぼ中央、日向灘に面した町で、青森県十和田市、福島県矢吹町と並んで日本三大開拓地に数えられています。入植の歴史は藩政時代からと言われますが、当時はまだ小規模なものでした。昭和初期でも、川南の人口は3000人ほど。それが戦後、一気にふくらむことになります。 太平洋戦争に突入した1941年、南方戦線での奇襲作戦に備えて空挺落下傘部隊が川南に創設されました。「空の神兵」と称えられた将兵たちの降下訓練が連日行われ、川南は軍都の様相を呈しました。 そして戦後、彼ら落下傘部隊の多くが、そのまま川南に残ると共に、川南で大規模な国営開墾事業が始まり、海外からの引き揚げ者が続々と入植して来るようになりました。人口は何と2万4000人に上りました。戦前の8倍です。これらの入植者は全都道府県に及ぶことから、川南は「日本の合衆国」と呼ばれるようになったそうです。 で、そんな川南での取材を終え、空港へ戻る際、取材をしていた場所からは、川南駅より一つ先の高鍋駅の方が近いから、と地元の方が、車で高鍋まで送ってくれることになりました。車中、高鍋は、天然かきで有名だと教えられました。飛行機の搭乗まで時間があったら、絶対に食べて行った方がいいとも。 とにかく、高鍋の天然かきは、濃厚な味わいとぷりぷりの食感で、そんじょそこらのかきとは全く違うとのこと。そこまで言われると、既に頭の中は、かき尽くし・・・。 で、駅に着く前から、目を皿のようにして、かきが食べられそうな店をチェック。しかし、努力のかいなく、駅まで、これぞという店は見つかりませんでした。 そこで、海は改札口の反対側にあることから、海の方へ歩いてみることにしました。で、ついに1軒、磯料理の店を発見。やった!と思ったのもつかの間、時間的に営業をしておらず、夜の営業では帰りの飛行機に間に合わないことが判明しました。 仕方なく駅へ戻り、列車の時間まで、駅前にあった「カルダン」というレトロな純喫茶で時間をつぶし、いつか必ず高鍋のかきを食べに戻って来るぞ、「I'll be back!」と誓ったものです。 そうして苦節13年、とうとう高鍋でかきを食べる時がやって来ました。そう、思い切りそ