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民謡のある風景 - 文化の深さに支えられた粋(愛媛県 伊予節)

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道後温泉は、古くから「伊予の湯」として知られ、万葉の歌人・山部赤人もやって来て、「昔の天子も行幸なさった温泉」と、歌で称えています。 道後は、城下町・松山の北東。木造3層の道後温泉本館を取り巻くようにして、華やかに旅館群が並びます。おなじみ、夏目漱石『坊ちゃん』の舞台でもあります。なにしろ古くからの名所なので、土地の民謡『伊予節』にも、真っ先に登場します。  ♪伊予の松山 名物名所 三津の朝市 道後の湯   音に名高い五色素麺 十六日の初楼   吉田さし桃小かきつばた 高井の里のていれぎや   紫井戸や片目ぶな 薄墨楼や緋の蕪 チョイト伊予がすり 『伊予節』は、古くからのお座敷唄で、ゆったりと粋な調子と三味の手から見て、江戸で生まれたのではないか、という説があるくらいです。 昔、海の道は、今の新幹線並みの威力で、江戸と各地を結んでいました。江戸で生まれた唄が、松山へ入り、名所づくしが評判となって、再び江戸へ入ったのかもしれません。いずれにしても、19世紀の初め頃には、江戸・中村座でもこの唄の曲調が使われ、幕末には、200余の歌詞が瓦版で出回っていたといいます。もちろん商都・大坂にも伝わり、明治になってからも流行を繰り返したというから、息の長いもてはやされ方をした、と言えるでしょう。 『伊予節』は、本調子の三絃を粋に響かせ、曲調は純然たる俗謡です。民謡に特有のひなびた味わいなど、全くありません。それでいながら、唄そのものは地元の隅々にまで広く浸透し、替え唄もずいぶん生まれたといいます。今では、すっかり地元を代表する民謡になっています。洗練された味わいを、少しの戸惑いもなく呑み込んでしまうあたりに、伊予地方の文化の底の深さがうかがえます。「坊ちゃん」が、この地の気風に合わなかったのは、たまたまムシの居所が悪かっただけなのかもしれません。

松山の名物バー「露口」

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以前の記事( 松山・大街道の大入亭からバー露口へ )に書いたバー「露口」のお話です。 今から10年近く前、松山市大街道の和食屋さん「大入亭」で夕食中、カウンターで隣り合った方が、超辛口の酒を勧めてくれ、それをきっかけに話が弾み、愛媛や松山の酒談義に。その中で、松山に名物バーがあるので、ぜひ行ってみて、と言われ、前のめりになる私。すると、大入亭のご主人が、案内してあげたら、と口添えしてくれ、3人の男性客と共に、名物バーへ向かうことになりました。 で、前の記事では「ここについては、いろいろ書きたいこともあるので、記事を改めることにします」と書いておきながら、そこから既に1年3カ月余り・・・忘れていたわけではないのですが、ようやくバー「露口」の登場です。 サントリーバー「露口」は、1958(昭和33)年8月の開店。オーナーの露口貴雄さんは、大阪のバーで修行後、縁あって松山へ移り、翌年、21歳の若さで独立したそうです。その3年後、後に夫人となる朝子さんがアルバイトとして働き始め、以来、ずっと一緒にカウンターに立ってきました。 大入亭で知り合った方に案内されたのは、2013年3月30日のことでした。間もなく開店から55年という年で、案内してくださった松山の方たちは、こんなに長く、ご夫婦そろって立っている所は、東京にもないでしょ、と自慢されていました。当時、貴雄さんが76歳、朝子さんが70歳とおっしゃっていたので、この記事を書いている今は、貴雄さんは85歳、朝子さんは79歳になられていると思います。 さて、案内人のお薦めはマティーニということで、1杯目はマティーニを頂きました。その後、案内してくれた方たちは、もともと予定があったらしく、1杯だけ飲んで立ち去り、私は、続いてマンハッタンを頂いて、朝子さんとおしゃべり。 すると、新聞を渡してくれ、この春から、マスター監修の下、「サントリー角ハイボール缶〈濃いめ〉」というお酒が、コンビニで売られるようになったとのこと。聞くと、サントリーの商品開発の担当者が、お店に来て、オリジナルのハイボールを飲んで、それをベースに作ったサンプル3点の中から、露口さんが選考をしたそうです。 「露口」がオープンした当時、サントリー(当時は寿屋)ではチェーンバーの展開をしている頃で、トリスバーやサントリーバーが各地で続々と誕生していました。最盛期には、全国

愛媛を代表するB級グルメと、みんな大好き国民食のコラボ

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2018年7月に起こった西日本豪雨で甚大な被害があった愛媛県の宇和島市吉田町、西予市野村町、大洲市の3カ所を取材した帰り、JR松山駅でB級グルメ好きの心を刺激するのぼりを発見しました。駅構内にあるカレーショップデリーの「やきぶたたまごカレー」です。どうやら「自慢のカレーで焼豚玉子飯を応援」とのコンセプトで始めたようです。焼豚玉子飯は、知る人ぞ知る今治市のB級グルメで、既にこのブログでも一度紹介していますが( 鉄板焼き鳥にセンザンキ、焼豚玉子飯 - 今治のソウルフードはすごいぞ )、今回はそのつづきみたいなものです。 さて、カレーで「デリー」と言えば、1956(昭和31)年に東京・湯島で創業した老舗インドカレー店が頭に浮かびます。が、松山の「デリー」は、そちらとは特に関係ない模様。1971(昭和46)年に、四国で唯一の地下街「まつちかタウン」にオープンした「カレーショップデリー」の支店になるそうです。 のぼりには「やきぶたたまごカレー」とありましたが、掲示メニューには「焼豚玉子カレー」と書かれ、しっかり今治のB級グルメを継承していました。「デリー」は松山駅の北側にありますが、反対の南側にある「麺小町」という喜多方ラーメンの店で、「焼豚玉子飯」をメニューに載せており、焼き豚はこの店から融通してもらっているとのこと。ホンモノの焼き豚を使っているってことですな。 ネットでクチコミを見ていると、かなりの人が、この焼豚玉子カレーを食べています。が、愛媛を代表するB級グルメと、みんな大好き国民食とのコラボに、これがうまくないわけはないと手放しで喜ぶ人がいる一方、別々に食べたいとする人も相当数いて、評価は真っ二つ。私も、正直なところ別々派ですが、これはこれで食べること自体に意義があると思うB級好きです。 そんなこんなで、予定外の場所で「焼豚玉子カレー」を食べた私、ホテルは駅の近くだったので、まずはチェックイン。そして、まだ空いているであろうサントリーバー「露口」へ行こうと、大手町駅前から路面電車で大街道を目指すことにしました。 すると、大手町駅の手前に踏切があり、線路が交差しています。あれ? これって、前に聞いた、電車の交差点か? そう思いました。 というのも、その4年前、「露口」で隣り合ったお客さんから、松山には日本で唯一、一般電車(鉄道)と路面電車(軌道)が交差するポイントがあ

250年近い歴史を持つ伊予の窯業地・砥部

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砥部町は、愛媛県のほぼ中央、東と西、南の三方を山に囲まれた盆地状の町です。北部は松山平野に向かって開け、重信川を境に松山市に接します。町の中央を砥部川が北流し重信川に合流、瀬戸内海へと下ります。「ミカン王国・愛媛」の中でも一、二の生産量を誇る代表的産地です。と同時に、やきもの産地としても知られています。 砥部では、主に飲食器、花器類の磁器が生産されています。その特色は、白い磁膚に藍の呉須絵にあります。砥部焼の正確な起源は不明ですが、少なくとも江戸中期以来、陶器が焼かれていました。今日のような磁器の製造が始められたのは、1777(安永6)年のことです。 時の大洲藩主、加藤泰候(9代)が、藩財政振興策の一環として始めたものです。伊予郡原町村(現・砥部町)の杉野丈助が、監督としてこれに応じ、有田や波佐見などと共に、磁器の産地として知られていた肥前大村藩・長与の陶工5人を招き、砥部村五本松(現・砥部町五本松)に築窯しました。 砥部は、「伊予砥」の名で中央にも聞こえた砥石の産地でした。泰候は、肥後の天草砥石を原料にして、肥前各地で磁器が生産されていることを知り、伊予砥でも磁器が作れないかと考えたのです。そして、5人の指導を受け、3年近い歳月を経て出来上がったのが、1777年でした。 最初に窯が築かれた五本松は、今も砥部焼の中心地で、周辺を合わせて30数戸の窯元が軒を連ねます。南に高くそびえる障子山(885m)を背景に、庭で天日乾燥する情景は、「陶芸の町」砥部らしい情趣が漂います。 藩政期においては、主に染付を量産しました。俗に「くらわんか茶碗」というものがありますが、これは摂津国枚方(大阪府枚方)付近で、淀川通いの船に酒食を売る船で用いた粗磁の茶碗を言います。初期のものは、砥部焼が多く使用されたということです。 砥部の窯業が、地場産業として確立したのは、明治に入ってからのことです。1875(明治8)年、良質の原料陶石「万年石」が発見され、急速に発展しました。主に、東南アジアへの輸出が始まリ、大正の頃には輸出が総生産の7割を占めた時期もあります。茶碗は特に「伊予ボール」として人気がありました。その後、時代の波を受けつつも、昭和40年代の民芸ブームによリ窯数も増え、1976(昭和51)年には国の伝統的工芸品に指定され、今日に至っています。 若い頃、撮影に協力して頂いた故酒井芳美さ

日本三古湯の一つ道後温泉の話と真穴みかん

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昨年暮れに書いた松山の記事( 松山・大街道の大入亭からバー露口へ )で、大入亭のカウンターで隣り合った地元の方から、バー露口を紹介された話を披露しました。で、そのお客さんは、道後温泉にあるホテルの社長で、「良かったら、うちのお風呂に入って行ってください」と、帰り際に名刺を渡されました。 初めて会った人間に、とても親切な申し出をしてくださったのですが、翌日は朝から砥部焼の取材が入っていたため、残念ながらお風呂をお借りすることはありませんでした。 道後温泉は、古代からその存在が知られ、日本三古湯の一つと言われています。夏目漱石の『坊つちやん』(1905年)でも、「住田」という温泉場として何度も登場します。ちょっと、抜き出してみましょう。 「住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた」 前の記事( 銘菓郷愁 - 漱石にも勧めたい「坊っちゃん団子」 愛媛県松山 )に書いた「坊ちゃん団子」は、この部分にちなんでつくられたお菓子です。で、まだあります。 「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来たものだから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛ける」 更に、住田という固有名詞ではなく、温泉になると、これがもう、あちこちに出てくるわけです。「温泉は三階の新築で上等な浴衣をかして、流しをつけて八銭で済む」とか、「私は正に宿直中に温泉に行きました。これは全くわるい。あやまります」「温泉へ着いて、三階から、浴衣のなりで湯壺へ下りてみたら」などなど・・・。 この3階建ての温泉というのが、有名な道後温泉本館です。漱石が、旧制松山中学に英語教師として赴任したのは、1895(明治28)年のことで、道後温泉本館は、その前年、94年に改築したばかりでした。建物は、松山城の城大工棟梁の家系である坂本又八郎が設計しました。 道後温泉本館は、いわゆる銭湯ですが、1994(平成6)年に国の重要文化財に指定されながら、今も現役の公衆浴場として営業をしています。2007(平成19)年に地域団体商標(地域ブランド

赤い献灯提灯が印象的な内子の八幡様

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以前の記事( 「白いろうそく」が作った豪商たちの屋敷群 )に書いた内子訪問の際、たまたま発見した八幡神社の話です。この時は、内子町と言っても、市街地から西へ12kmほど行った石畳地区が、本来の目的地でした。その記事の最後で少しだけ触れた屋根付き橋と、その近くにあるシダレザクラを撮影するためでした。 ただ、内子の町並みがきれいなのは知っていたので、石畳の撮影が終わってから、市街地にも立ち寄りました。 伝統的建造物群保存地区の側に、町並駐車場がありますが、内子座にも入ってみたかったので、車は内子座の駐車場に置いて、歩くことにしました。もし伝建地区から内子座へ向かっていたら、中町通りを歩いたでしょうが、駐車場は本町通り側だったので、素直に本町通りを歩いたため、八幡神社を見つけることが出来たわけです。 内子座の駐車場から歩くと、八幡神社の手前に、「商いと暮らし博物館」があります。明治時代に創業した薬屋さんの建物を利用した歴史民俗資料館です。 で、その斜め前にあったのが、八幡神社です。住宅と住宅の間に挟まれた、小さな参道で、普通なら通り過ぎてしまったと思います。しかし、赤い献灯提灯が参道にたくさんぶら下がっていたので、それにつられて参拝してみることにしました。内子に行ったのは3月の下旬で、春祭か何かに当たったのかと思ったのですが、その後、検索していたら、皆さん、この提灯のことを書いていたので、いつも飾っているのかもしれません。 参道には、小さな石造りの太鼓橋があり、山門をくぐってお社の方へ入って行きます。太鼓橋の下は特に水は流れていませんでしたが、昔は水路が巡らされていたのかもしれませんね。内子の八幡神社は、1542(天文11)年6月6日に宇佐神宮から祭神を勧請し、1550(天文19)年、現在の六日市に社殿が造営されそうです。当時、内子は、戦国武将・曽根高昌の領地でした。 曽根氏の祖は、近江源氏の一族で、源頼朝、義経、義仲らの従兄弟になる佐々木高綱と言われ、近江国愛知郡曾根が本拠地だったようです。高昌は、周防、長門、安芸、備後、石見、豊前、筑前7カ国の守護となり、西国随一の勢力を誇った大内義隆を頼り、周防に住した後、当時内ノ子と呼ばれていたこの地に移って来ました。 高昌は、内ノ子に入ると、周防国・泰雲寺の大功円忠大和尚が開いた護国山浄久寺に深く帰依。1533(天文2)年、第4

ANAの機内誌をきっかけに見つけた、石垣の集落

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以前、ANAの機内誌『翼の王国』で紹介された、愛媛県愛南町に興味を持ち、出張から帰った後、愛南町について検索したことがあります。記事は、「アイアイ先生の生物多様性紀行」。「アイアイ先生」とは、猿のアイアイで有名なマダガスカルの環境保護を長年続けている島泰三博士のことで、この記事には、地元の案内人がいました。そこで、その案内人に話を聞くのが手っ取り早いと、まずはその方を検索してみました。 記事では、「旅の水先案内人、自称"漁猟長"の山﨑晴久さん。この漁猟長、このあたりのあらゆる事情に精通しているから心強い」とあります。で、最初のヒットで、山﨑さんは、環境NPOあいネットワークの代表であることが分かりました。また、取材協力としてクレジットが入っていた南宇和ライオンズクラブの会員であることも判明。まずは、その辺から当たってみることにしました。 すると、記事の1年半ほど前、南宇和ライオンズクラブの事業として、島博士を招いて「どくとる・アイアイ環境教室」を開催したとのこと。本文の「この桟橋なら子どもも安全だから、釣り大会をやりますか? そのあと、料理教室も」というのは、この1年半前の事業で実施したものだったようです。 これには、小学3~6年生とその保護者約50人が参加。親子魚釣りと料理教室の後、島博士による子ども向けのワークショップが行われました。更に夕方からは、地域の方たちを対象とした講演会「生物多様性入門イン愛南」も実施され、参加された方たちからは、「愛南町には、何もないと思っていましたが、実は自然の宝庫だと気づきました」などの声が聞かました。また、島博士も、「御荘湾(みしょうわん)は国の宝です。いつかは、そのことを全国民が理解する時が来ると思います」と話されていたそうです。 島博士が、「国の宝」と称した御荘湾は、環境省の「日本の重要湿地500」に選定されており、確かに日本の海の宝物であることも理解しました。 その一方、取材協力の南宇和ライオンズクラブと、御荘という地名で、他のトピックも検索に引っかかりました。それは、御荘病院でした。 御荘病院は1962年に開院した精神科の病院で、74年には退院した精神障害者の社会復帰施設平山寮を開設しました。その後、米やサツマイモの栽培,養豚,闘牛の飼育,牡蠣の養殖,釣り筏の経営などのさまざまな作業を通じて、平山寮入

南伊予地方が伝えた奇想天外な笑話

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「鉄砲撃ちの茂八」 昔、昔、村に鉄砲撃ちの上手な茂八さん、という人がおった、とよ。 なにしろな、鉄砲撃ちの名人なもんでよ、とんでもねえことがおこるんだ、と。 ある日のことだ。鉄砲撃ちの茂八さんが、鉄砲持って、出かけたんだ、と。どうしたことかその日にかぎって、さっぱりえものが無かったんだ、と。しかたがないから、家へ帰ろうと、野原をとぼとぼ歩いていたら、空を雁が飛んでいた、と。 それで、茂八さんは「雁、雁、竿になあれ」と言ったんだ、と。そうしたら、今までカギになって飛んでいたのが、まっすぐになって飛んだ、と。それを見た茂八さんが、「雁、雁、カギになあれ」と言ったらの、カギになって飛んだんだ、と。 茂八さんは「ははあ、こりゃしめた。雁に命令して、一発でしとめてやろう」と思い、「雁よ、雁よ、竿になれ」と言って鉄砲かまえた。 ところがよ、雁も雁じゃ。撃たれちゃかなわんと、竿にならずに、カギになって飛びだしたんだ。だがの、さすがは茂八さんじゃ。雁の裏をかいて、鉄砲、カギのかっこうに曲げてな、ズドン。先頭から終わりまで、全部一発でしとめてしまったんだ、と。これ本当の話だ、と。  ◆ 愛媛県の昔話の中には、「トッポ話」という系列のものがあると言われています。この「トッポ」というのは、方言で、とんでもない、奇想天外な、という意味なのだそうで、とほうもない嘘で、人をアッと言わせるような話を「トッポ話」と言うのだそうです。主に愛媛県の南伊予地方に伝わり、高知県などでも笑い話として語り伝えられています。 「トッポ話」は地名とか人名をつけて「なになにトッポ話」という形で話されているのだそうで、「岩松トッポ話」とか「粂之丞のトッポ話」とかいう形で伝えられていますが、話の内容には同じものもあるようです。例えば、ここに出て来た鉄砲撃ちの話にしても、一発の弾でたくさんの獲物をしとめたとか、竹藪に弾を一発打ち込んだら、その弾が竹藪の中で跳ね返って、何と七日七晩も鳴り響いていたとか、ありそうもない話がさもあったというふうに、語られることが多いようです。とにかく、とてつもない出来事が実際にあったこと、事実だとして語られているのです。そこがまた面白さを誘ってもいるわけで「トッポ話」の特徴にもなっているようです。 愛媛県の「トッポ話」は北宇和郡の津島町から、南宇和郡にかけて多く語り伝えられていると言われていま

世界的な文化遺産ウォッチ・リストに認定された岩松の町並み

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ワールド・モニュメント財団(WMF)が認定する、存続が危ぶまれる歴史遺産「ワールド・モニュメント・ウォッチ・リスト」2020年版の中に、宇和島市にある岩松地区の町並みが入りました。WMFは、世界の歴史的建築物や文化遺産の保護に取り組む財団で、今回のリストには、2019年4月に大火災が発生したフランス・パリのノートルダム大聖堂、新たな空港建設計画で危機に瀕しているペルー南部、マチュピチュの近郊にあるウルバンバの谷、行政上の問題で適切に管理されていないチリ領イースター島の彫刻や岩絵などが含まれています。 「ワールド・モニュメント・ウォッチ・リスト」は、隔年で発表されており、2020年版は世界21カ国から25カ所が認定され、日本からも2カ所が入っています。その2カ所は、岩松地区と東京都北区滝野川の稲荷湯でした。稲荷湯は、昔ながらの銭湯で、映画『テルマエ・ロマエ』の撮影地としても知られますが、「銭湯の人気低下が、影響を与えている」としています。一方の岩松地区については、少し長くなりますが、報道発表を転載します。 「岩松歴史的町並みは、四国の西側で瀬戸内海の南西部に広がる宇和海のリアス式海岸地帯の湾口部にあたる岩松(愛媛県宇和島市津島町)に所在します。16世紀後半にできた農村集落から始まり17世紀(江戸時代)から酒、醤油などの醸造業を中心に、岩松川の川港を基盤にして栄えました。川沿いに形成された町並みで、往時の有力商家の屋敷構えは今でもその建築的特徴を良く残すなど、岩松の歴史を今日まで伝えており、海岸線が入りこんだ愛媛県南予地方でも、その規模は大きく、保存状態も良いとされています。最近では空家、空き地、改築などにより、その景観が失われることが危倶され、歴史的建物再活用による地域活性化を図りながら町並み保存を地域社会の総意として進める取り組みがされており、今回の『文化遺産ウォッチ』選定にあたっては、歴史的文化的建築的価値とともに、保存活動の計画性や長期にわたる行政も交えた地域社会の関わりの在り方などが評価されました。」 岩松は、この報道発表にあるように、藩政時代から、岩松川河口の港町として、山からは木炭、海からは鮮魚などが運ばれ、山と海の産物の交易により栄えてきました。戦後最初の新聞連載小説となった、獅子文六の『てんやわんや』は、終戦直後、文六が妻の実家がある、この岩松に疎開し

「白いろうそく」が作った豪商たちの屋敷群

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「白いろうそく」の発明は、想像以上に画期的だったようです。18世紀初めに、ろうそく製造を営んでいた芳我弥三右衛門という人によって「伊予式箱晒し法」の技術が発明され、精製脱色技術が格段に向上しました。 青みがかった色が当たり前だったろうそくが、それまで見たこともないような乳白色に生まれ変わりました。この白いろうそくは、「晒ろう(白ろう)」と呼ばれ、電気のなかった時代には国内外で高級品として重宝されました。 県都・松山から北西へ約40km。四方を山で囲まれた盆地に、ひっそりと佇む内子町。江戸後期から明治にかけて、木ろうと和紙の生産で栄えた町です。 木ろうとは、ウルシ科の落葉高木ハゼの実をしぼって作るろうそくの原料です。江戸時代には頭髪を結う際のビンツケに用いられた他、近年では化粧品や色鉛筆などの原料としても利用されていました。 ハゼノキは、江戸時代に琉球王国から持ち込まれ、九州、中国、四国など西日本では、それまで木ろうの原料だったウルシからハゼに切り替わったようです。 伊予国の大洲藩で製ろうが始まったのは、安芸国(広島県)可部から、3人のろう職人を呼んでからで、藩内の内子でも、ろうがつくられるようになったと伝わります。内子の木ろう生産に、一大変革が訪れるのは、明治時代中期。維新後、激減していた木ろうの需要ですが、活路を海外に見いだしました。 引き金となったのは、「伊予式箱晒し法」です。芳我弥三右衛門は、ろうそくのしたたりが、水面に落ちて白くなったのにヒントを得て、研究の末にこの製法を発見したといいます。 彼が開発した技術は、精製脱色のみならず、晒ろうの量産も可能にしました。そのため、日本はもとよりヨーロッパを中心に、世界に向けて晒ろうを輸出することが出来るようになりました。 やや固く、融点の高い晒ろうの上品な灯火は、海外でも絶大な人気を誇り、内子の街は大いに繁栄しました。最盛期は、1900年代初頭(明治30年代後半)です。晒ろう生産は、愛媛県が全国1位を独占、内子町はその70%を占める一大晒ろう生産地となり、全国に名をはせました。 しかし、この栄華は短く、大正に入るとパラフィンの普及、石油の輸入、電灯の導入によって需要が激減。内子町の晒ろう生産は、大正10年頃までにほぼ消滅してしまいました。 かつての四国遍路と金比羅旧街道のゆるやかな坂道に沿った約600mにわたる八日市

松山・大街道の大入亭からバー露口へ

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松山城は、加藤嘉明が築いた城です。城が完成したのは1603(慶長8)年で、この時、勝山という地名を松山に改めています。城下町は、標高132mの城山(勝山)のふもとに建設し、ほぼ方形の町割りとしました。 その後、松山藩は蒲生氏を経て、1635(寛永12)年から松平氏が藩主となり、明治まで続きました。その間、1784(天明4)年元旦に、天守が落雷で焼失。現在の天守は、1854(安政元)年に再建されたものです。 第2次世界大戦終戦間近の1945(昭和20)年7月26日、その松山市に128機ものB29が襲来、市街地に焼夷弾の雨を降らせます。この爆撃で、松山では半数以上の家屋が焼失、松山市は一面の焼け野原となり、城下町時代の町並みは姿を消しました。 その中で、唯一戦災を免れた歴史遺産が、松山城です。そして松山城は今も、松山のシンボルとなっており、復興した松山市も、やはり城を中心につくられています。 愛媛県庁や松山市役所を始めとした官公庁や金融機関などが集まる松山市の中心地は、城山の南側に集中。かつて、上中級家臣団の武家屋敷があった「外側」と呼ばれる地域で、現在の一番町から三番町にかけての番町エリアになります。松山一の商店街「大街道商店街」は、この番町エリアを東西に分けるセンターにあり、北はロープウェー商店街、南は銀天街につながっています。 私も、松山には結構行っていて、コロナ禍前の2010年代には、覚えているだけで6回行きました。2011年の時は、前のブログに書いた 鳴門 、 東かがわ 、 美馬 を回ってから松山入り。2013年の時は、松山を拠点に、 新居浜 と 内子 、砥部へ行っています。この2回は松山に泊まっていますが、2014年に 宇和島 、 愛南 、 大月 、 足摺 、 四万十 、 中土佐 と回って高知から帰ってきた時は、松山は空港でレンタカーを借りただけでした。実はそんなケースも何度かあり、松山を四国のゲートウェイとして利用することもありました。そう言えば、松山の取材後、高速艇で呉に渡ったこともあり、松山は陸海空、全てにおいて交通の便がいいと実感しています。 そんな松山の大街道で、偶然見つけたのが、「大入亭」です。松山市内を走る路面電車・伊予鉄道「大街道」駅を降りると、目の前が大街道商店街で、大入亭は、そのアーケードに入ってすぐ左のビルの中にあります。立地はいいので