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民謡のある風景 - 港の賑わいしのばせる盆踊唄(福井県 三国節)

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日本海の荒波が、輝石安山岩の巨大な壁を削り、高さ25mの東尋坊を造りあげました。長さ約1km、うねるように柱状節理の巨岩が連なります。九頭竜川河口に広がる三国町(坂井市)は、その東尋坊観光の玄関口として知られます。 良港を抱えた三国町は、古くは、越前の交易の中心地として賑わい、江戸時代には、福井、丸岡、加賀の各藩もこの港を利用し、蝦夷地通いの北前船も立ち寄って、北国第一の港町と言われました。寛永年間(1624 - 44)には、既に57軒の船問屋があったと言われ、元禄の頃には、半年で2200艘の船が入港したといいます。 港町特有の華やかさの中で、遊廓も賑わいました。三国の遊女は、三国小女郎と呼ばれ、1699(元禄12)年には、近松門左衛門が、その遊女を、『けいせい仏の原』という三幕ものの芝居に登場させています。舞台はもちろん三国で、この芝居は坂田藤十郎の主演で大評判となりました。三国の花街は、それほどにも有名だったわけで、その花街で『三国節』が盛んに唄われていたといいます。  ♪三国三国と 通う人ご苦労   帯の幅ほどある町を(サッサア) この唄は、三国町の性海寺の住職が作ったとされていますが、元々は、土地の地固めの時に唄った作業唄だとも言われます。富山県の五箇山にも、似た曲調の「木遣り」が残っているという説があります。そういう作業唄に、住職が詞をつけたのであったかもしれません。 やがて、その唄に三味線の伴奏がついて、『三国節』はお座敷唄と変わり、大正年間には京阪地方の花柳界に広まり、大流行となったこともあるといいます。 交易の港だった三国は、一時衰退し、近年は石油基地として復活、昔とは違った顔を見せていますが、唄の方も今では盆踊り唄となり、8月の夏祭りに地元で唄われています。昔の賑わいをにじませた曲調は、艶を帯びて今も美しく響きます。

越前の砂丘を彩る可憐な花"辣韮"

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えちぜん鉄道三国芦原線の終着駅三国港。福井駅から小さな電車に乗って、45分の行程です。すぐ隣には「関西の奥座敷」と言われる北陸の湯どころ芦原温泉が控えます。 「九頭竜川は北陸一の長河である。三国町はその河口に『帯のはばほど』につづく古い町なみである」。三好達治が、『越前・三国わが心のふるさと』でこう書いているように、三国町(現・坂井市三国町)は九頭竜川の河口に臨む古くからの港町。江戸時代には北前船の積み出し港としてにぎわい、北陸第一の港と称されました。 その三国港の西南に、長さ12kmにわたってなだらかな砂丘地が広がります。長さが3里あることから三里浜と呼ばれるこの砂丘地帯は、全国一のラッキョウの産地です。 ラッキョウは乾燥に強く、砂丘地で無灌水栽培出来る数少ない作物の一つ。しかも球の光沢、緻密さなど、品質ではかえって砂丘地の方が優れ、また植え付け、掘リ出し、洗浄等の作業も容易で、砂地であることが有利に働いています。 三里浜にラッキョウが導入されたのは1874(明治7)年頃。少数の人が自家用として栽培を始めました。その後、他の村人もこれにならって作リ始め、次第に生産も増え、1897(明治30)年頃には、余ったものが三国商人によって売られるようになりました。 しかし、この地方にラッキョウ栽培が定着するまでには、幾多の困難と苦闘の歴史がありました。江戸時代、この辺りは日本海から吹きつける強風のため、田畑は土砂に埋まリ、海の荒波によって家々が倒され、住民は流浪して他郷に逃げざるを得ない状態でした。 江戸中期、敦賀に生まれた僧・大道が、こうした惨状をみかねて、村々の百姓を説いてネムの木を植えて砂地を落ち着かせました。大道は、次にシイや松を植え、次第に面積を広げていきました。更に草地を増やして緑化を押し進め、ついに砂丘を耕地化することに成功したのです。 そして、大道のこうした努力は、後年、全国一のラッキョウ産地として花開いたわけです。今、かつての不毛地帯・三里浜は、ラッキョウを始め、スイカ、ダイコンなどの名産地となっています。 ところで、日本の大部分のラッキョウ産地は、1年掘り栽培を採用していますが、三国では2年掘りを採用しています。2年間、畑に置くことによって、分球数が多くなり、小粒で身が締まり、肉質も緻密で歯切れの良いラッキョウになります。ラッキョウの花は、10月下旬から

伝統の手技を受け継ぐ越前すげ笠の里

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笠は、日よけや雨よけの道具として、古くから用いられていました。『万葉集』巻十二には、「ひさかたの雨の降る日を我が門に蓑笠着ずて来る人や誰」という歌があります。 絵巻物によると、平安時代頃から多く使われるようになったようです。主として女が被ったもので、市女笠といいました。笠には、こうした使用者からつけられた名称も多く、時代劇でお馴染みの三度笠(本来は月に3回、江戸・京・大坂を往復した三度飛脚が被ったものでした)もその一つ。また編笠、網代笠など、製法からの名や、すげ笠、檜笠など素材からつけられたものもあります。 福井市清水町はかつて、すげ笠の産地として知られていました。この辺りは水害が多く、米作りにも支障を来すほどで、明治時代に田ですげを育て、笠を作り始めました。すげ笠の収入は農家の副業として、大きなウエートを占めるようになりました。卸業者も多く、県内はもとより、北海道から九州まで他県へも多く移出されていました。 すげは夏に刈り取り、天日干しします。それを質により親すげと「ささ掛け」と言われる下巻き用のすげに選り分けます。戦前まで、農閑期の11月から3月にかけ、家族総出で笠作りが行われました。 すげ笠作りは、大きく分けて骨組み、ささ掛け、笠縫い、仕上げ干しの工程があります。竹で作る骨組みは男、ささ掛けは子ども、笠縫いは女と分業化され、それぞれ10人ほどが仲間となり、楽しみながら仕事をしていました。 清水町のすげ笠は、すげの質や、笠縫いが丁寧なことから、品質では日本一といわれ、『ギネスブック』にも掲載されています。とはいえ最近は、実用としての笠を見かけることはほとんどありません。そんな中、主産地・杉谷地区では、お年寄りを中心に「越前すげ笠を守る会」が作られ、伝統の技を継承しようとしています。また、すげ笠にちなんだ「清水すげ笠マラソン」や「すげ笠ウォーキング」などが行われたり、「すげ笠音頭」が作られたりしています。

土地の人から「神の島」と崇められる雄島の森を歩く

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九頭竜川河口に臨む古くからの港町三国。東尋坊、越前松島、雄島など自然景観に恵まれ、越前加賀海岸国定公園の中核として、多くの観光客が訪れます。なかでも東尋坊は約1kmにも及ぶ勇壮な柱状節理が展開し、絶壁に日本海の荒波が打ち寄せるさまは実に豪快です。その東尋坊の北約1.5kmに、越前海岸では最も大きな島があります。 といっても標高27m、周囲2kmほどの島です。この雄島は約1200万年前に噴出した輝石安山石の岩石島で、海に臨んだ見事な柱状節理が見られます。土地の人は昔から「神の島」と崇めてきました。 島には漁港のある安島から朱塗りの橋が架けられ、歩いて渡れます。橋を渡りきると、島の入口となる鳥居があります。これをくぐり78段の石段を上ると、うっそうとした森が広がり、神秘的な雰囲気が漂います。石段を上りきった正面にはスダジイの林が広がります。その林の中にも、島の中央を通る遊歩道があります。しかし、まずは右回りに1周約1kmの周遊コースを歩いてみましょう。 歩き始めてすぐ、板根を持つタブの大木が見られます。これは表土が浅いためで、森の中の倒木の根を見ても、それがはっきり分かります。雄島は、今ではほとんど見ることの出来なくなった海岸沿いの原生林をまるごと残しており、いろいろな大木の幹がとても美しい島です。 やがて二又の道に出合いますが、右の道を選び海岸沿いを歩きましょう。この辺りはヤブニッケイの純林で、これは全国的にあまり例がなく、学術的にも貴重なものとされています。 ヤブニッケイの林を通り、海に向かって進むと、だんだんと明るくなってきます。雄島は常緑広葉樹の森で、中はうっそうとしてかなり暗いです。森から抜け出ると、まだ昼間であったことに気づくほどです。 海岸沿いの道では、左側に広がる森より、荒波が砕け散る右手の岩場に目がいきます。しかし、海に面した強い風により傾斜した風衝樹林帯などもあり、森からも目が離せません。 それを過ぎるとコオニユリの群生地があります。7月には岩場一帯に、美しい花の競演を見ることが出来ます。周遊コースを半周ほどすると、島の中央を通る遊歩道に再び出会います。ここで左折し、森の中を通ると、エノキやタブなどの大木があり、スダジイの林を通って最初の石段に出ます。周遊コースをそのまま進めば、岩場を通り、大湊神社へ向かいます。 大湊神社は701年の創建と言われ、源

ヨーロッパ軒敦賀本店で念願のパリ丼を食す

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それは、2007年12月26日。仕事で富山へ行った時のことです(いま思うと、よくもまあ、こんな暮れも押し迫った時期に出張なんてしてたものです)。 同行したライターの砂山さん、敦賀から来られたSNさんと共に、当時、富山に住んでいた友人NYさんの案内で、夜の富山を回り、冬の北陸のおいしい魚と日本酒を堪能させてもらいました。 ブリ、ズワイガニなど季節のものから、ノドグロ、黒作り(塩辛)、それに忘れちゃいけない、げんげと・・・。また、日本酒は、立山、勝駒、満寿泉、三笑楽と、それぞれ違う味わいの酒を、的確な順番で飲ませてもらい、2軒目では銀盤という、これまた富山のお酒を味わうことが出来ました。 しかし、それにもまして、砂山さんと私に衝撃をもたらしたのが、NYさんとSNさんが、そろって絶賛したヨーロッパ軒のパリ丼です。「これを食べずには死ねないですよ」とまで言われ、焦りまくる二人。でも、ヨーロッパ軒は福井にあり、その時は叶わぬ夢・・・Impossible Dream・・・と諦め、帰宅したのです。 で、なかなか福井へ行く機会もなく、時は過ぎていきました。そして、あの日から1年半ほど経った2009年の6月11日、東京・築地のいきつけの店で関あじのランチを食べている時、砂山さんから「来てしまいました」というメールが入りました。留守中に、事務所にでも訪ねてきたのかと思ったのですが、メールの本文はなく、添付写真オンリー。 写真には「敦賀ヨーロッパ軒」の暖簾が・・・。どうやら、抜け駆けでヨーロッパ軒を訪問した模様。むむっ! 先を越されたか! 無念な思いで、その報告を聞いた私。でも、各地のソースカツ丼を食べ、ソースカツ丼に対してはウンチクもある砂山さんは、ソースカツ丼発祥の店であるヨーロッパ軒で、ソースカツ丼を食べずパリ丼を食べるという選択が出来なかったらしいのです。つまり、パリ丼はまだ口にしていない! というような長い長い物語があって、私、とうとう2009年7月24日、敦賀に出張した際、SNさんの案内で、無事、「敦賀ヨーロッパ軒」の「本店」に行くことが出来ました。くれぐれも言っておきますが、「本店」です。店構えからして、違います。 写真を入れておきますが、このラブホチックな外観・・・目黒エンペラーではありませんよ。「味のお城」、パリ丼キャッスルです。で、たぶん砂山さんが行った店と同じ暖簾を

ソースカツ丼発祥の店ヨーロッパ軒総本店を訪問

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ある時、シカゴの知人から、イリノイ州にある財団が、福井市の施設にスヌーズレンを導入する支援をしたので、実際に使っているところを見て、リポートしてくれと依頼がありました。 スヌーズレンというのは、重い知的障害がある人たちのためにオランダで考え出された活動と理念です。そして、その実践のために作られたのがスヌーズレンルームで、室内は障害を持つ人が楽しめるよう、光、音、匂い、振動など、感覚に直接訴えるものを組み合わせたトータルリラクセーション空間となっています。 多くの人は、音楽で癒やされたり、スポーツや習い事を楽しんだりと、さまざまな形で余暇を過ごしますが、重度の知的障害を持つ人たちの中には、自分からそうした刺激を求めることが難しい人がいます。スヌーズレンルームは、それらの代わりとなる娯楽だと考えれば分かりやすいかもしれません。 取材で部屋を見学させて頂いた時、スヌーズレンを利用していたのは知的障害を持つ児童一人と、自閉症の少年二人でした。自閉症の二人は社会への適応や他人とのコミュニケーションが苦手で、普段は施設の職員さんたちも対処に困るほどだと聞きました。しかし、それぞれお気に入りのウォーターベッドとボールプールを使う二人を見ていると、本当に重度の自閉症なのかと疑いたくなるほどでした。 ただ、人によっては装置の得手不得手があるようです。例えば匂いに敏感な人は部屋に漂うアロマを嫌ったり、光に過剰反応する人は視覚を刺激するバブルユニットがだめだったり、スヌーズレンによって苦手分野が分かることもあります。その場合、苦手なものを自分や家族が理解して、それを回避するよう対処することも出来ます。また、部屋では職員も一緒に楽しむため、子どもたちとより一層良い関係が構築出来るようになったという話を聞きました。 欧米ではスヌーズレンが、コミュニティーセンターや保育施設にまで広がっています。日本ではまだ一般の認知度は低いものの、知的障害者施設を中心に導入が進んでおり、私がインスタグラムでフォローしている春日部市の障がい者生活介護事業所でも導入されています。今後、更に広がっていくといいですね。  ◆ ところで、福井を訪問したのは4月3日でした。ちょうど、日本さくら名所百選の一つになっている足羽川の桜が満開を迎えており、施設見学の合間を縫って桜も撮影してきました。また、夜はライトアップをして

福井の伝統食・米糠(こんか)さば=へしこ

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福井県の伝統食に「へしこ」があります。 東西に長い若狭からは、古来、いくつもの道が畿内に向かって延びていました。昔、若狭の行商たちが、若狭湾でとれた鯖に一塩し、一昼夜かけて都へ運搬。京に着く頃に、ちょうどいい塩加減になり、都で珍重されたということで、これらの道は総称して鯖街道とも呼ばれます(以前のブログ「 周山街道沿いに林立する北山杉の美林 」より)。 そして、そうした鯖の保存方法の一つが、魚を塩と糠で漬け込む「へしこ」です。もともとは、漁のために長い航海を行う若狭の漁師たちが、長期間腐敗せずに食べられる保存食として生み出したものだそうです。 私は、敦賀の知人に教えてもらって、初めて食べました。酒の肴としてそのまま食べてもいけましたが、ご飯と一緒に食べてもおいしく、またお茶漬けにしてもいいという万能食です。そして、その初対面以来、福井県へ取材に行くと、ついつい帰りにへしこを探してしまうようになりました。 そんな中、坂井市の丸岡で取材をした際、地元の方が、読者プレゼントとして「米糠(こんか)さば」を提供してくださることになりました。 いわゆる「へしこ」なんですが、普通のへしこと違って、生の鯖をそのまま米糠に漬け込んでいるため塩分は少なめ。また、漬け方も独自の工夫があるらしく、焼くと脂がのっていてふっくらジューシー。へしこと言うより焼き鯖に近い味でした。 とてもおいしかったので、読者プレゼントのページとは別に、記事でも写真とキャプションで次のように紹介しました。 「米糠(こんか)さば:福井の郷土料理に『へしこ』があります。サバに塩を振って糠に漬け込んだもの。若狭地方の伝統料理で、漁師が魚を樽に漬け込むことを『へしこむ』と言うことからその名が付きました。同じ福井でも坂井地区では米糠を『こんか』と呼ぶことから『こんかさば』とも言います。丸岡の料理旅館大すぎでは、塩を使わず生のサバを糠に漬け込んでいます。塩分が少ない分、日持ちはしませんが、とてもやさしい味で地元では大人気。中には、ご飯を食べ過ぎると禁止令が出るお宅もあるそうです」 取材した丸岡は、江戸時代には丸岡藩の城下町として栄えました。そのシンボル丸岡城は、最古級の現存天守閣を持っています。江戸時代以前に築城され、現代まで残っている天守を現存天守と呼びますが、全国に12ある現存天守のほとんどは江戸時代に建てられたもので、

北の比叡山・杣山のふもとに広がる花ハスの里 - 南条

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南越前町は、2005(平成17)年に、今庄町、南条町、河野村が合併し発足しました。福井県のほぼ中央にあり、近畿から同町以北の北陸地方へ入る際、必ず通らなければならない交通の要衝となっています。 このうち旧南条町は、東西を山に挾まれ、町の中央を日野川が流れています。町の東北には越前富士と呼ばれる日野山が、南東には南朝の忠臣瓜生保が居城した杣山があります。杣山は、古くは北の比叡山とも呼ばれ、平安時代には山麓から山頂にかけて多くの僧坊が並び、杣山三千坊とうたわれました。 その杣山のふもとに、今、ハスの畑が広がり、夏になると淡いピンクの花が咲き誇ります。この畑は、よくある蓮根用ではなく、花をとるために作られたものです。 南条で花ハスの生産が始まったのは1973年。減反で空いた田圃を活用することを目的にスタートしました。最盛期には、栽培面積15ha、全国の約7割となる12万本の花ハスを出荷していました。 近年は、生産者の高齢化もあり、若干規模を縮小していますが、それでも7戸の農家が南条蓮生産組合に加入し、栽培を継承。7、8月のお盆には、全国の約6割、7万本の花ハスを全国各地へ出荷しています。 ハスと言えば、一般に仏花として扱われます。『枕草子』には、「はちすは、ようつの草よりもすぐれてめでたし。妙法蓮華のたとひにも、花は仏に奉り実は数珠に貫き、念仏して往生極楽の縁とすればよ。また花なきころ、緑なる池の水に咲きたるもいとをかし」 とあります。「はちす」は、ハスの古名。既に平安時代、ハスが仏教と深く結びついていたことが分かります。 インドの仏典などを見ても、ハスの花がよく出てきます。母親マーヤがブッダを身籠もった時、地中から一本のハスが出て、花が咲き出す。あるいは母親の右腹から生まれたブッダが歩くと、大地が割れてハスの花が咲き出す、といった記述があります。 また、「水中に生まれて、良い香りがあり、愛すべき白いハスが、水のために汚されず成長するように、ブッダが世間に生まれ住み、世間に汚されないのは、赤いハスが、水に汚されないようなものである」という意味の弟子の詩もあります。 つまり、ブッダをたたえる本質がハスにあるということで、更にブッダの入滅後、ハスはますます出世します。ガンダーラで生まれ、仏教の教