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民謡のある風景 - 農兵の士気を鼓舞した流行歌(静岡県 農兵節)

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標高3776mの富士山は、いわずと知れた日本最高の名山。一富士、二鷹、三茄子(なすび)と、めでたい夢のトップに挙げられています。 富士山には、夏でも雪が降ります。その積雪が融け、数百年の時をかけて地底を潜り、三島の池に湧出します。昔、三島には、豆州の水を駿州へ流すための大樋がありました。水の清らかさは、往時から広く知られていたわけです。静岡の代表的民謡『農兵節』は、この辺のところを、こう唄い出します。  ♪富士の白雪ァ ノー工   富士の白雪ァ ノー工   富士のサイサイ 白雪ァ 朝日でとける 『農兵節』は、伊豆韮山の代官だった江川太郎左衛門に関わる唄だと言われます。江川は、1850(嘉永3)年正月、近郷の青年を三島に集め、初めて洋式の調練を行いました。その際、長崎帰りの家臣から聴いた音律をもとに、三絃音曲の行進曲を唄わせ、士気を鼓舞したといいます。 これが、地元で言われている『農兵節』の発祥説ですが、同じ曲調の『ノー工節』が横浜にもあり、こちらでは、横浜の唄が三島に広まったという説をとっています。この元唄は、静岡から神奈川にかけて広く唄われていた、当時の流行歌(はやりうた)だったようで、『遠州浜松踊り』という盆唄などでも、「遠州浜松ノーエ、遠州浜松ノーエ、ソラ遠州サイサイ、浜松三方が原」などと唄われているといいます。 どちらにしても、幕末の流行歌が三島と横浜に根付き、土地の唄と言われるようになったわけです。賑やかな唄にふさわしく、酒席の騒ぎ唄として広まり、昔は、学生たちもよく唄い、知名度は抜群でした。 『農兵節』は、唄うほどに気宇壮大といった趣になります。富士の見える土地でこの唄を唄っていた農兵も、さぞかし士気旺盛だったことでしょう。富士を見ながら、唄ってみたい唄です。    

養鰻業者のまかない飯「ぼくめし」に注目!

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3年ほど前、浜松で取材があって1泊した際、ホテルの近くにあったうなぎ屋に入りました。オーダーしたのは「ぼくめし」。 マルマ養魚のぼくめし だいぶ前、浜名湖ウナギの産地・新居町(現湖西市)で、養鰻家を取材した際に教えてもらった料理です。今では、ウナギの養殖はハウスで行いますが、以前は露地の養殖池を使い、ウナギを捕るのに人夫を雇って網を引いていました。その養鰻業者のまかない飯が、「ぼくめし」です。 「ぼく」とは、太いウナギのことです。泥に潜って網を逃れ続け、池の主のようになった大ウナギを大木になぞらえて「ぼく」と呼びました。お重からはみ出してしまうようなウナギで、商品価値はありませんが、脂がたっぷりのって味は全く問題がありません。 「ぼくめし」は、そんな大ウナギを使ったまぜご飯で、名古屋の「ひつまぶし」に似ています。しかし、新居町の「ぼくめし」には、ゴボウが入ります。一口大のウナギと、ささがきにして油で炒めたゴボウのまぜご飯です。 で、このゴボウが侮れないのです。非常にいいアクセントになっていました。 なので実は、浜松のうなぎ屋で食べた「ぼくめし」は、おいしかったのはおいしかったんですが、ゴボウのささがきがイマイチな印象。新居町でご馳走になった、本場「ぼくめし」がうますぎたのか、あるいはその時の思い出が、「ぼくめし」を美化させていたのか・・・。少し前の記事( 函館本線長万部駅の名物駅弁「かにめし」 )でも、同様の体験を書きましたが、今回の場合は店が違うので、やはりもう一度、本場新居町の「ぼくめし」を食べてみたいと思ったものです。 ちなみに、取材させて頂いた養鰻家の会社(マルマ養魚)では、「ぼくめし」が簡単に作れるパックを直売所で販売していました。これのおかげで、「ぼくめし」は一般家庭にも広がり、またマスコミでも取り上げられるようになり、「ぼくめし」をメニューにのせる料理店も出来たと聞きました。 取材をしたのは、そんな「ぼくめし」が、養鰻業者のまかない飯から、新居町の郷土料理へと変貌を遂げつつある時期でしたが、今ではもっとポピュラーになっているに違いありません。

富士山の湧き水が断崖から流れ落ちる白糸の滝

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昨日の小山町とは反対の富士山西麓、山梨県富士河口湖町の南にある富士宮市は、B級グルメの代表格「富士宮やきそば」で有名です。ご当地グルメで町おこしを目指すイベント「B-1グランプリ」の第1回が開催されたのは、2006年2月でした。富士宮やきそばは、ここでグランプリを獲得。一躍、その名が全国区になりました。 第1回B-1グランプリには、全国から10団体が参加。第2位は横手焼きそば( 雪国の叙情あふれる小正月行事 - 横手のかまくら )、第3位は室蘭やきとり( 鶏肉じゃない「やきとり」で室蘭の町を元気に )で、私はこの二つに加え、青森生姜味噌おでん( インパクト大の青森二大B級グルメ - 生姜味噌だれおでんと味噌カレー牛乳ラーメン )と久留米やきとり( B級グルメの聖地・久留米で焼き鳥のはしご )も食べており、かなりのB級グルメ好きと、今更ながら思うわけです。しかし、第1回に続き、第2回大会でもグランプリを獲得し、殿堂入りを果たしている富士宮やきそばは、いまだかつて食べたことがありません。 富士宮でやきそばによる町おこしが始まったのは2000年。私が富士宮に行ったのは、その前だったので、もちろん焼きそばはあったでしょうが、まだ「富士宮やきそば」と呼ばれる焼きそばはなかったのです。 そんなわけで、私の中の富士宮のイメージは、富士山と朝霧高原、そして白糸の滝です。 一昨日の記事( 世界遺産構成資産となっている富士山麓の忍野八海 )に書いた、富士五湖を東からぐるっと回ると、最も西にある本栖湖から5kmほどで、富士宮市に入ります。そこはもう朝霧高原で、牛たちが草をはむ緑豊かな高原の向こうには、遮るものなく富士山を望むことが出来ます。 朝霧高原から10kmほど南下すると、白糸の滝があります。本滝の一部は、朝霧高原の更に奥にある毛無山の中腹に湧き出た芝川の支流が流れ落ちていますが、それ以外は全て、崖から直接湧き水が流れ出ています。これらの湧き水は、富士山の雪解け水で、大小数百もの細い滝となって、垂直に落下しています。そのため、高さ20m、幅150mというスケールを誇りながら、優しい印象の滝となっています。 白糸の滝は、古くから知られていて、源頼朝が、1193(建久4)年に富士の裾野で数十万人の兵を集めて盛大な巻狩りを催した際、ここに寄っています。そして白糸の滝を前に、「この上にいかな

日本一の献眼の町・静岡県小山町を訪ねて

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昨日の記事( 世界遺産構成資産となっている富士山麓の忍野八海 )の忍野八海から南へ約20km、富士山東麓、山中湖のすぐ南にあるのが、静岡県小山町です。ここは、「献眼の町」として知られていて、2009年には、町で献眼運動を推進してきた小山ライオンズクラブが、日本アイバンク協会の第1回今泉賞を受賞しました。 この賞は、日本で最初の角膜移植手術を行った今泉亀撤さんに因んだものです。最初の角膜移植手術が行われてから50周年に当たる08年に、今泉さんが保健文化賞を受賞。今泉さんは、その賞金の大部分を日本アイバンク協会に寄付され、同協会はそれを基に、角膜移植医療及びアイバンク活動に貢献した方々を顕彰するため今泉賞を設定しました。第1回の受賞者は、今泉さんが手術を実施した岩手医科大学の眼球銀行と小山ライオンズクラブの2団体、それに個人が2人でした。 その小山ライオンズクラブを、以前に取材させてもらったことがあります。 小山ライオンズクラブが、献眼運動に取り組み出したのは1970年のことです。まず、クラブ会員全員が献眼登録し、翌年には町民へのPRのために「アイバンクの夕べ」を開催。また小山町の区長会でアイバンク運動についての協力を呼び掛け、小学校校区の会合でもPRを行いました。 更には会員が手分けをして、1軒1軒、献眼について説明して回るというローラー作戦を展開。その甲斐あって、老人会を中心にライオンズ友の会まで出来ました。こうした組織を通して、献眼運動の啓発が進んでいったのです。 72年5月、クラブの最長老だった小山彦平さんが、小山町初の献眼者となりました。その後、毎月会員か、会員の親類の人たちが献眼者となりました。町で亡くなった方があれば、会員たちは必ずお悔やみに上がって遺族を慰め、その上で献眼の意義も説きました。 小山では、不幸があった時、集落の人が総出で通夜や葬儀を手伝います。クラブでは、献眼者の葬儀に生花を贈り、アイバンクからの感謝状を捧げてきました。 こうして、運動を始めてから8年目には物故者の10%を超える方が、献眼をするまでになりました。その年、クラブでは献眼者合同慰霊祭を行って、改めて故人の尊い意志に感謝を捧げ、ねんごろに弔いました。心を尽くす、ということが、この活動ではとても大事なことなのです。 この手厚さが、町の人たちに感銘を与えたのでしょう。初の献眼者から数

銘菓郷愁 - 羊羹の源流をしのぶ「いでゆむし羊羹」 静岡県伊東

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羊羹といえば、まずは練羊羹のことを思い浮かべるようになったのは、いつ頃からだったのでしょう。練羊羹が作られるようになったのは、寒天が作られ出した1658(万治元)年から後のことだと言われていますが、もっと早く、1589(天正17)年に初めて作られ、1626(寛永3)年には、今のいわゆる羊羹色をした羊羹があった、という説もあります。 どちらにしても、19世紀になると、練羊羹が高級な味わいの上等品として、珍重され出したようです。 けれども、もともと羊羹といえば蒸した羊羹を指すのが普通のことでした。蒸し羊羹は、赤小豆の餡に小麦粉を加え、甘味の汁で練ってから、せいろで蒸したものでした。練羊羹は、これとは違い、輸入品の砂糖を使って煮詰め、それと赤小豆や寒天を練り混ぜたのですから、甘さがまず違います。砂糖は、江戸後期になっても、貴重品だったことには変わりなく、600gの値段が200文から300文はしました。職人の日当が、300文から400文という時代ですから、砂糖入り練羊羹の高級感も想像出来ようというものです。 しかし、練羊羹が登場してからは、蒸し羊羹もまた高級化して、小豆に、葛や砂糖を加えて作るようになります。味は甘くて、淡白、しかも値段は練羊羹よりも安かったそうです。このため多くの人に好まれ、奉公に出た店員さんでも喜んで買えた、というところから「丁稚羊羹」と言われたそうです。 「いでゆむし羊羹」は、古くからの蒸し羊羹の味覚を今に伝える逸品で、この蒸し羊羹は、伊東の温泉の水蒸気を使って蒸しています。伊東の温泉は、27度から57度と言われ、湧出量も膨大なものです。 「いでゆむし羊羹」はこの天然の熱を利用して作ったもので、小倉餡に甘露煮の栗を入れ、殺菌作用のある竹の皮で包んであります。 水蒸気を使って食品を蒸す、という製法は古くから行われていたもので、各地の神社に伝わる神饌の中にも、米の粉をこねて、せいろで蒸すという製法のものがたくさんあって、日本の菓子の原型を伝えています。蒸し羊羹も、伝統をしのばせてくれるもので、この「いでゆむし羊羹」も餡の甘さを極力抑え、栗のうまさを引き出して、しかも、餡の余韻を残すという、葛も使ったさらりとした銘菓です。

町おこしの中から生まれた竹の里の新しい工芸

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以前、全国商工会連合会の主催で「ニッポン全国むらおこし展」という企画展が毎年開かれていました。全国の商工会地区で、むらおこし事業から開発された特産品を展示し、情報交換やPRをするのが目的で、その一環として「むらおこし特産品コンテスト」も実施され、こちらは現在も続いています。 コンテストは、食品と非食品の2部門に分かれ、全国約1000の商工会から最盛期には約5000品目が出品され、競い合っていました(最近は100品目を切っているようです)。1992(平成4)年、そのコンテストで芝川町(現・富士宮市芝川町)の竹細工が非食品部門の最高賞を獲得しました。受賞したのは、「ゆらりとんぼと沢のかに」。トンボはやじろべえのようにバランスをとって、その名の通りゆらりゆらりと揺れるのが特徴です。 この竹細工、商工会と町が中心となった活性化事業の中で生み出されました。芝川の特産品の一つにタケノコがあります。町内のあちこちに竹林が点在し、美しい景観を見せています。「この竹を利用して町おこしが出来ないか」。アイデアは、そこから出発しました。 竹細工製作者グループの中心・佐野昭一さんは、もともとはダンプの運転手をしていました。肝臓をこわし、医師の勧めで半日勤務に切り替えました。出来た時間で始めたのが、竹細工の趣昧。これが、ちょうど竹を使った町おこしを模索していた町に認められ、この事業がスタートしました。1991(平成3)年度には半年間の竹細工教室を開き、規格品製作技術を持つ町民18人を認定。販売は商工会が担当することになり、県と町の補助を受けて販路開拓を進めることになりました。 「タケノコを作っている人たちも高齢化して、冬に切った竹を処分するのに困っていたんです。だから、竹をもらいたいと言うと、あちらも大喜び。こちらも材料費はかからないということで、一石二鳥の効果があるんです」と、佐野さん。 一つひとつが手作りだけに、量産は出来ませんが、取材当時は、佐野さんや渡辺義男さん、佐藤雅美さんらを中心に、二十数人の認定町民が規格品である「ゆらりとんぼと沢のかに」を月平均100セット製作していました。この他、それぞれの工夫で、昆虫を題材とした作品なども登場。伝統がないぶん、逆に制約を受けずに自由な作品を生み出すことが出来るようでした。 旧芝川町は、静岡、山梨両県境にあり、日本三大急流の一つ富士川沿いに開

奈良・平安時代の古道、日本坂峠道の美しい隠れ里

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静岡県のほぼ中央、洋々たる駿河湾を望む焼津市は南北に10km余りの海岸線が続く風光明媚な街で、焼津港はカツオ、マグロを主とする日本有数の遠洋漁業の根拠地となっています。当然、焼津には海の町のイメージがあります。 市のキャッチフレーズは、「日本一の国際水産観光都市」。自慢の風景は、大崩海岸に和田浜海岸。自慢の音は、出船の音と魚市場の競り声。郷土料理も、マグロのかぶと焼きにカツオめしときています。焼津港は、カツオの水揚げ日本一、全国屈指の漁獲量を誇ります。 そんな海の町・焼津に、静かな山間の隠れ里があります。中心部から北へ約3km、高草山のふもとにある花沢の里です。 焼津の地名は、日本武尊の草薙の剣の神話によって「やきつ」と名付けたと記紀に記されています。その日本武尊の伝説にちなむ日本坂の峠道は、奈良時代から平安時代中頃までの東海道の古道で、花沢集落はその道沿いにあります。 花沢は、茶とみかんを主体とした農村集落ですが、独特の美しい家並を持っています。その特徴は重厚で格調高い長屋門造りにあります。 長屋門とは、門と長屋を組み合わせた建築で、建物の中央に通路を設け、両開きの扉をつけて門とし、左右の部分は門番小屋や物置、倉庫などに利用しました。もともとは江戸時代の武家屋敷で用いられましたが、江戸末期には名主などの上級農民も用い、明治維新後は、一般農家にも普及しました。 花沢は明治後期、輸出用のみかん産地として大いに栄えました。そして、みかん収穫に雇った人々を宿泊させるため、長屋門が造られ、独特の美しい家並が形成されました。現在、花沢にはそうした旧家が、かつての日本坂峠道に沿って約500mにわたり続いています。脇には花沢川のせせらぎが流れ、静かな山家のたたずまいを一層引き立てます。 活気あふれる海の町・焼津にあって、花沢の里は素朴な山里の香りに包まれ、昔町にタイムスリップしたような懐かしさを感じさせてくれます。『万葉集」にもうたわれたこの古道は、今は「やきつべの小径」と呼ばれ、市民の憩いの場所となっています。 ちなみに焼津は、小泉八雲が愛した町であり、八雲は焼津の海と焼津っ子の気っ風が気に入り、夏は毎年焼津に滞在しました。そして、焼津の人を「子どものように淡泊で親切であり、正直すぎるほど正直」と評していたそうです。焼津に大学時代の友人がいますが、確かに、淡泊で親切だし、正直な

取材のために登った日本一の富士山

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かつて一度だけ、富士登山をしたことがあります。ちょうど30歳の時でした。富士山に登ることになったのは、還暦を記念して富士山山頂からハンググライダーで飛ぶ方を取材するためでした。 還暦と言えば60歳。当時はちょうど私の倍に当たる年齢です。正直、どんだけ酔狂な・・・と思わないでもありませんでしたが、私、かなりのミーハーなので、仕事抜きで、富士山滑空に興味津々でした。 その方、河辺忠重さんが、ハンググライダーを始めたのは、53歳の時でした。始めた年齢も年齢ですが、そのきっかけがまた変わっていました。 富士山飛行からさかのぼること7年前、河辺さんはちょっとしたはずみで道でころび、肩を痛めてとある大学病院に入院しました。ところが、どこでどう間違ったのか、内科に放り込まれ、いろいろな検査を受けるはめに。それまで入院はおろか、病気と名のつくものとは無縁だった河辺さんですが、ここでやれ血圧が高い、尿酸値が高い、肝臓が悪いと、次々に悪いところが発見され、医者からは、あと半年気づかずにいたら命がもたなかったかもしれない、と言われてしまいます。文字通り、けがの巧妙です。 で、驚いた河辺さんが、まず考えたのは、自殺的に死ねる方法だったそうです。そして見つけたのが、ハンググライダー。戦時中から飛行機に乗り、空で育った河辺さんの目には、操縦桿も何もないハンググライダーは、とても頼りなげに映ったようです。 「こんな危ないものならすぐ死ねるだろうと思った」。富士山頂でお会いしした時、河辺さんは、笑ってそう話していました。 ところがやってみると、これが何にもましてすばらしいものであることに気づきました。次第しだいに熱中し、仕事を退いてからは、まさにハンググライダーひと筋の人生へばく進。 そしてあの事件から7年、健康と共に青春をも取り戻した河辺さんは、ついに富士山から飛行するまでになったのです。事実は小説より奇なり。これ本当の話です。 なお、富士山からの飛行の模様はNHK福岡局が密着取材、「お達者くらぷ」で全国放映されましたが、この時のNHKと私の取材格差は、かなりのもの。当時、やれロケ弁が二段重ねだとか、霧が出なけりゃスモーク焚いちゃうとか、フリーのカメラマンや編集者からはやっかみの対象となっていたNHKだけあって、それはもう大名取材だったわけです。 貧乏雑誌の編集者である私は、当然のことながら新宿

熱海に見る日本古来の「おもてなしの心」

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今から15年ほど前のお盆休みに、娘と2人の姪を連れて、熱海に行きました。 初日は、足湯&足裏マッサージを体験。娘たちは初めてのマッサージながら、結構、平気な顔をして、気持ち良さそうにしていました。最後に私もやってもらったのですが、足裏の時は内臓は健康ですね、と太鼓判。ところが、指への刺激に移ってからが、さあ大変。指によっては、強烈な痛みを伴いました。どうやら、腰、肩、目に関わるツボのようでした。 「でも、お嬢さんたちの方が、ひどかったですよ」と、店の人。いちばん上の姪は肩に鉛が入っているよう。下の姪は、目がかなりひどい状態。我が家の娘も、足が相当、凝っていた模様。後から聞いたら、みんな飛び上がらんばかりの痛さを堪えていたとか。かわいいもんです。 ところで、この店で、我々一行はゼミ旅行と間違われました。私が教授で、学生をマッサージに連れてきてあげた、という想像だったようです。当時、上の姪と娘は大学生、下の姪は高校生でしたが、この子は身長が高く、また3人とも同じ中高一貫の女子校に行っていたので、姉妹と従姉妹ということもあって、雰囲気がそもそも似ていたのでしょう。 明けて2日目は、朝から 岩盤浴 。「これが本当の岩盤浴!」のキャッチ・コピーと、「うわさ以上の本物だ!」のサブ・キャッチ・・・。これを見る限り、かなり怪しい感じでしたが、とりあえず3人娘に付き合って、私も岩盤浴初体験。 で、どうだったかと言うと、あづい! の一言。10分入って5分休憩を3回繰り返すのですが、かなり体力を消耗するようで、昼食後はあくびが出て仕方がありませんでした。その上、上の姪は、なぜか熱発。当たっちゃったんですかね。 それにしても3人娘、昼食で ビーフシチューを食べた後(私は、「阿藤快お勧めの」という冠がつく、あじ丼でした) 、熱海銀座で目を付けていた レトロな喫茶店 で、特大のバナナパフェやクリームあんみつ、パンケーキを平らげるという食欲を開示。あれだけ汗をかいても、結局、太ったんじゃないか、という珍道中でした。  ◆ さて、そんな熱海に、日本開国後の初代駐日総領事として着任したオールコック卿にまつわる、ちょっといい話があります。 ラザフォード・オールコック卿(1809-1897)が、駐日イギリス総領事として着任たのは1859(安政6)年、日本は攘夷運動で騒然としている最中でした。翌年3月、桜

霧が生み出すまろやかな味と香り - お茶の里・川根本町

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駿河路や花橘も茶の匂ひ(芭蕉) 元禄7(1694)年、芭蕉は江戸を発って東海道を京へ向かいます。その途中、「越すに越されぬ」と馬子唄に歌われた東海道随一の難所・大井川で、増水のため川留めにあってしまいます。結局、芭蕉は島田に4日間逗留し、その折に詠んだのがこの句でした。 芭蕉が旅をしたのは旧暦の5月中旬、現在の暦だと6月初め頃で、ちょうど白いタチバナの花が咲いていたのでしょう。タチバナはミカン科の常緑樹で、花は柑橘系の爽やかな香りがします。そのタチバナの香りでさえ、静岡の茶の匂いにはかなわないというような意味の句です。江戸期には、既に静岡が茶どころだということは広く知られていたことが分かります。 ちなみに、「旅行けば駿河の国に茶のかおり」は、広沢虎造の浪曲「清水次郎長伝」の出だしですが、これは芭蕉のこの句を下敷きにしたものです。ついでに、虎造の「石松代参」は「秋葉路や花橘も茶のかおり」で始まりますが、秋葉路は島田のお隣・掛川のことで、更に芭蕉の句に近い一節になっています。 このように、静岡と言えば、富士山と共にお茶を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。実際、畑から摘んだ葉を一次加工した荒茶の生産量では、静岡県が日本一で、最近落ちてきてはいるものの40%以上のシェアを持っています。 茶畑は県内の至る所に見られますが、中でも有名なのが大井川流域一帯で、量的には下流の牧の原周辺、質的には上流の川根周辺が有名です。茶樹の栽培は、平均気温が13度以上、年間雨量1400mm以上の温暖多雨の地が良いとされています。特に、川に面した排水の良い山間の傾斜地で、霧の巻く土地が最上と言われます。 大井川を上流に向かって旧川根町(現・島田市川根)、旧中川根町、旧本川根町(現在は2町合併により川根本町)と続く旧川根三町は、川沿いのため空気が湿気を含み、山脈に触れてしばしば霧が発生します。茶の葉に霧がかかると、日光がさえぎられ、甘みのもとタンニンがたくわえられ、葉にはしっとりとした柔らかみが出ます。こうした土地で作られたお茶は、鮮やかな濃緑色で香りが高く、味は甘くまろやかで、ほど良い苦みと渋みが爽快な感じを与えます。 旧川根三町でとれたお茶は、総称して川根茶と呼ばれ、天皇杯や農林大臣賞などを数多く受賞、日本