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民謡のある風景 - 南国の光に映える叙事詩(沖縄県 安里屋ユンタ)

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北国が冬に神髄を見せるように、南国は夏に真の姿を現します。沖縄も真夏が最も生き生きと輝きます。海も、空も、樹々も光に包まれます。浦島太郎が行った竜宮城は、琉球城ではなかったか、と言われるくらい、南の風土はまぶしさに満ちています。 沖縄の最南端に位置する八重山諸島は、大小19の島々からなり、沖縄本島よりも亜熱帯の趣きが濃くなっています。変幻の妙をたたえる海と白砂、琉球建築独特の赤い瓦屋根、何もかもが鮮やかな光の中にあります。中でも、竹富島は世界中で最も美しい島と言われ、時がゆったりと流れます。 八重山は民俗芸能の宝庫と言われ、多くの民謡が、古い形で保存されています。沖縄民謡の代表と言われている『安里屋ユンタ』も、八重山の竹富島が発祥の地とされています。  ♪サァー 安里屋ぬ クヤマによ(サァ ユイユイ)   あん美らさ 生りばしよ   マタ ハーリヌ ツィンダラ カヌシャマヨー 沖縄の言葉は難解です。日本の古代の言葉が生きているからだという説もあるくらいで、唄の題名になっている「ユンタ」も「ユイ唄」の意と言われ、「ユイ」は、古語。田植えや刈り入れなどの時に、昔は集落ごとに共同労働が行われ、これを「ユイ」と言いました。この唄も、昔はそんな共同労働の際に唄われた作業唄だったのかもしれません。 この一節は「安里という屋号の家に、クヤマという美しい娘が生まれた」という意で、この後、歌詞は、その娘の婚姻をめぐる叙事詩風な展開となっていきます。 太平洋戦争中、八重山出身の音楽家がこの唄を編曲して、『新安里屋ユンタ』というレコードを出し、日本中に知られるようになりましたが、趣きは元唄とかなり違ってしまいました。沖縄の唄は、風土の中でこそ最もまぶしく光ります。

銘菓郷愁 - 王朝食文化の香り「桔餅」 沖縄県那覇

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「桔餅(きっぱん)」は、沖縄産の九年母(くねんぼ)を原料として作ります。九年母は、ミカン科の常緑小高木で、マレー半島からインドシナにかけてが原産地です。実は、温州ミカンよりも酸味が強く、沖縄では「クネンボ」ではなく、「クニブ」と呼びます。『万葉集』で、「アベタチバナ」と呼ばれている果実ではないか、とも言われています。 桔餅は、この九年母の皮と果実を使って作ります。果実は果汁を絞り取って種を除いてしまいます。皮は厚くてむけやすく、テレビン油香があります。桔餅は、この香りを巧みに利用しているのです。 九年母は、沖縄本島北部でしか採れないそうですから、原料そのものも貴重で、この菓子も、もともとは琉球王家への献上品でした。昔は、王朝の高位の人だけが口に出来たといいます。 桔餅は、中国・福州から伝来した菓子だそうで、伝わったのは江戸時代の1661年から73年頃のことでした。当時、沖縄は第二尚氏の王朝の頃で、10代尚質王と11代尚貞王の時代に当たります。ちょうど、琉球王朝の対中国朝貢貿易が盛んな頃でした。 琉球王朝では、早くから宮廷の調理人として「御料理座」というのを設け、包丁人という専門職が置かれていました。それらの人々が宮中の料理・菓子作りを司り、彼らは中国・福州に出かけて、中国菓子も学んだといいます。桔餅は、その伝統ある調理人にも知られていたに違いなく、九年母の香りを生かす独特の作り方などに、そのような沖縄の食文化の奥深さを感じさせてくれます。 桔餅は、九年母の皮などを刻んでから、砂糖を加えて、こね混ぜ、直径5cmほどの円盤形にして、表面を乾かします。それを砂糖の衣でくるみ、4日間天日に干して仕上げます。 天気の具合いや気温、湿度などで、砂糖の加減の仕方も変わると言いますから、細やかな気配りと手間のかかる仕事になるわけです。 桔餅は、食べる時、中心から6等分に切り、一口で食べられる大きさにします。口に含むと、外側の砂糖衣がまず甘さを伝え、やがて、ほろ苦いような柑橘類の味が絡んできます。甘いと思えば、さにあらず、ほろ苦いと言えば、また違い、互いに相手を称えて譲らず、絶妙のバランスを保った銘菓です。

宮古の人々のアララガマ精神が育んだ精緻な上布

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沖縄県宮古島。エメラルド色の海と紺碧の空。太陽の光はあふれんばかりにふり注ぎ、強烈な色彩を生み出します。影の色もまた強烈です。 宮古上布は、その影の色をしています。藍染の涼しげな風合いがそう思わせるのでしょうが、その歴史にも、影の部分が秘められています。 宮古上布の正確な由来は不明です。しかし、島では1583年、夫の栄進のお礼に琉球王へ綾錆布を献上した稲石という女性を、宮古上布の祖としています。綾とは、宮古の言葉で縞を指し、錆は布の色合いで青系の色、すなわち藍のことだろうと推測されています。 その後、稲石の技は、島の人々に広く伝えられ、全島で高品質の上布が生産されるようになったといいます。しかし、それはやがて、人頭税制の下、貢納布として姿を変え、島の人々の上に重くのしかかることになります。 1609年、薩摩の琉球侵攻と共に、宮古上布はその魅力ゆえに貢納品に指定されました。薩摩の重税に苦しんだ琉球王府は、貢納布を人頭に割り当て、島の女性に労苦を強制しました。 各村に機屋が設けられ、織女たちは1年の大半を機に向かって過ごしました。織女たちの肉は落ち、顔は青ざめ、毛髪が抜け落ちたと伝えられます。こうして織り上げられた上布は、琉球王府を経て薩摩に献上され、中央では薩摩上布の名で高価に取り引きされました。 人頭税の廃止は1903(明治36)年のこと。宮古、石垣など先島の人々は、実に300年も、この悪名高い税制に苦しめられたのです。 もともと宮古島は、離島県の離島として、台風や干ばつなど、厳しい自然に痛めつけられてきました。しかし、その中で培われた宮古の人々のアララガマ(堅忍不屈なること)精神と創造性、団結力で、これらを乗り越えてきました。 そのため、薩摩による過酷な圧政にも、宮古の人たちは屈することなく、極めて精緻な上布を育んできました。薄く透けているため、蝉の羽にもたとえられるその風合いの秘密は、非常に細い糸にあります。クモの糸かと見紛がうその糸は、苧麻の繊維を爪の先で極限まで細く裂いたものを使います。また、ロウをひいたようだと称されるその光沢は、木槌で布を強くたたき込むことで生み出されます。 その独特の製法の一つひとつに高い技術が要求されるだけに、簡単な仕事ではありません。宮古上布特有の艶出しの仕上げを洗濯と呼びますが、5kg近い木槌で布をまんべんなく打ち、昔から、1反を

南国沖縄に咲く王朝文化の華、紅型

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紅型は、京都の友禅や加賀の友禅、江戸の小紋と並び称される我が国の伝統的な染め物です。1枚の型紙を使って、多彩に、そして華麗に染め上げます。 沖縄では、本島のあちこち、そして全ての島々で、宮古上布や芭蕉布、ミンサーなど、さまざまな染織が行われています。しかし、沖縄の代表的な染物である紅型は、那覇市の、それも首里を中心とした一部の地域に限られています。それは、かつてここが、琉球王朝の首都だったこと、そして、紅型が支配階級の人たちの公用服に用いられていたことが、その理由です。 紅型の歴史は、琉球王朝にあって、海外貿易が盛んに行われていた14、15世紀にさかのぼると言われます。当時、インドやジャワ更紗の影響を受け、後に、中国の型紙の技法や京都の友禅染めの手法を採リ入れることによって、次第に琉球を代表する染め物に成長していったのです。 紅型の型紙は、木綿豆腐を乾燥させたルクシューと呼ばれる小さな台板の上で、小刀を用いて突彫りによって彫っていきます。突彫りで彫った線は、柔らかで、染め上がった文様に優しさを出し、人の血の通った温かみを感じさせます。 また、18世紀、琉球王朝は尚敬王の時代に、清朝の隆盛を受けて、自らも経済、文化の発展を確立し、琉球ルネッサンスと呼ばれる黄金時代をつくリ出していきました。この時代は、音楽や舞踊など琉球独自の古典芸能が花開いた時でもあリ、これらに華麗さを与えたのが、紅型の踊り衣装でした。これが、後に首里王宮における貴族婦女子の衣装に影響を及ぼし、紅型発展の契機になったと言われます。 こうした王朝時代には、紅型は階級によって、色や生地に区別があったようです。また、階級が下がるにつれ、全体に柄が細かく複雑になリ、身分が高いほど、模様は単純で大柄なものが用いられました。一見、逆のようですが、これが、琉球ならではの美意識ということになるのでしょうか。 紅型の特色は、これはもう見ての通り、その強烈な色彩にあります。それは、色彩が顔料を主とし、顔料の上に植物染料を塗るからです。光線が強い沖縄では、植物染料だけでは、すぐ褪色してしまいます。一方、顔料は日光や熱に強く、褪色することがありません。このように、不透明色の上に透明色を塗る染め方が、紅型の特色であり、かつ、沖縄のオリジナルな色調が生まれるゆえんです。 そして、この紅型の強烈な色彩は、なんと言っても、沖縄の明る

初対面の方のお宅で家飲み、朝帰りをした石垣島の一日

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初めて石垣島へ行ったのは、今から35年前の1986年でした。与那国島に住む方の取材でしたが、与那国へは石垣から飛行機で渡るのが最適なので、当然のことながら石垣島経由となりました( 日本最東端と最西端 - 納沙布岬と与那国島 )。 一連の取材が無事終わった後、取材対象の方の知人であるOYさんが、石垣島を案内してくださることになりました。車で一周しても大したことはないからと言われましたが、正直、観光のことは考えていなかったので、完全お任せ状態でした。最初に行った白保では、OYさんの知人のお宅にお邪魔しました。白保は、サンゴの石垣が続く、とても美しい町並みで、訪問させて頂いたのは、赤瓦の屋根を持った伝統的な平屋建てのお宅でした。 その際、この近くで新空港を建設する計画があり、それが白保沖合いのサンゴ礁を埋め立てる案となっているため、地元で反対運動が起きているとのことでした。結局、白保埋立案は1989年に撤回されましたが、当時の石垣空港は滑走路が短く、小型ジェットが暫定的に運航している状態で、新空港建設自体は、賛成の島民が多かったようです。そのため、最終的には2000年になって現在地での建設計画が決まり、2013年から新石垣空港(南ぬ島 石垣空港)が供用を開始しました。 白保の後も、いろいろ行ったと思うんですが、覚えているのは、米原ヤエヤマヤシ群落と川平湾、それにどこかプライベートビーチ的な砂浜です。 ヤエヤマヤシは、石垣島と西表島だけに自生するヤシで、国の天然記念物に指定されています。幹が真っ直ぐ伸び、20m以上もの高さになるヤエヤマヤシは、「世界で最も美しいヤシ」とも言われます。米原には、そんなヤエヤマヤシが150本ほど群生しており、かなりのジャングル感があります。 そのジャングルを歩いている時、OYさんから「上からヒルが降ってくるからね」と、注意がありました。げっ! マジか・・・。それを聞いた私、上が気になって仕方がありません。ヒルって、下から登ってくるだけじゃないのか・・・。 本州のヤマビルとは違うのかもしれませんが、雨の後など、本当に樹上から落ちてくることがあるらしいです。そんなわけで、世界で最も美しいヤシの中で、最も印象に残ったのが、樹上のヒルという顛末でした。 米原のヤエヤマヤシ群落から川平湾までは距離にして10km弱、車で15分ほどでした。日本百景の一つに数

琉球王朝時代の軍用道路「真珠道」

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首里城は500年ほど前、琉球王朝時代に建設された木造建築で、正殿は1925年に国宝に指定されました。実は第二次世界大戦前の首里には、首里城を中心に国宝指定の建造物が27もありました。これは京都、奈良に次ぐ数でした。 しかし、これら国宝の多くは、第二次世界大戦の沖縄戦で、すっかり失われてしまいました。1992年に、正殿を始めとした首里城が復元されるまでは、那覇で最も有名な観光スポットと言えば守礼門でしたが、これも戦争で破壊され、1958年に復元されたものでした。 2000年には、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一部として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録されました。世界遺産に指定されている史跡は、首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園(以上那覇市)、斎場御嶽(知念村)、中城城跡(中城村)、勝連城(うるま市)、今帰仁城(今帰仁村)の9史跡です。中でも、いちばんの定番スポットは首里城ですが、2019年10月31日、その首里城の正殿など8棟が、火災により全焼してしまいました。 首里城は現在、国を挙げて復興事業が進んでいますが、完全な姿に戻るのは、まだまだ先のようです。それでも、火災があった年の暮れから、園内の約8割が散策可能となり、首里城復興モデルコースも設定されました。これは、多くの来園者に、今まで気づけなかった新しい首里城、首里のまちの魅力により多く触れてもらおうとの趣旨で企画されたもので、A「守礼門・京の内早回り(2コース)」「B首里城一周/首里まちまーい(2コース)」「C首里城公園ビュースポット(1コース)」「D見せる復興見学(1コース)」の6コースが設けられています。 最も短いA-1の30分から、最も長いB-4の150分まで、30分刻みでコースが設営されていますが、この記事では、せっかくなので、最も長い150分のコース4について、ハイライトをご紹介します。首里城公園管理センターが提供しているコースガイドによると、「首里杜館芝生広場」→「守礼門」→「歓会門」→「久慶門」→「銭蔵」→「北城郭」→「東のアザナ外周」→「継世門」→「金城町石畳入口」→「真珠道」→「首里杜館前売店」となっています。 このうち「歓会門」は、首里城へ入る第一の正門で、別名「あまえ御門(うじょう)」と言います。「あまえ」は、琉球の古語で「喜んで迎える」を意味していて、「歓会」

ディープな街にある沖縄おでんの名店「悦ちゃん」と「東大」

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少し前まで、寒くなると「おでんの季節になりましたねえ」なんて言っていたのに、今や1年中おでんを売っているコンビニもあります。日本人って、いつからこんなにおでん好きになったんでしょう。しかも、南国・沖縄でも、おでんはしっかりと根付いています。 以前のブログで、うるま取材の際、 ホテル選択の決め手が、近くにおでん屋があったから、と書きました。ちょっとだけ再掲してみます。 「ホテルは、旧具志川市にあるホテルハーバーで、なぜここを選んだかと言うと、近くに『いこい』というおでん屋さんがあったからです。 知らない人は、『わざわざ沖縄でおでん?』と思うかもしれませんが、実は沖縄の人は、おでんが大好きらしいのです。私はこれまで、那覇市の有名店『悦ちゃん』と『東大』に行っていますが、どちらもとてもおいしかったので、カメラマンの田中さんにもぜひ沖縄おでんを味わってもらいたいと思ったのです。 沖縄おでんには、テビチ(豚足の煮込み)やウィンナー、夏ならウンチェー(空心菜)、冬なら小松菜、レタスなど季節ごとの青物が入ります。もちろん大根、玉子、昆布など、定番のおでんだねもありますが、やはり郷に入っては何とやら、いこいでは、迷わずテビチと野菜とソーセージを注文しました」(「 沖縄の定番グルメ『いなりチキン』と『沖縄おでん』 」から) そうなんです。沖縄で飲む時、私は結構、おでん屋さんを選択しがちなのです。沖縄おでんは、泡盛にも合うんですよねえ。 沖縄おでんの詳しいルーツは知らないんですが、一つの説として言われている「飲み屋発祥説」には、結構納得してしまう私です。実際、沖縄の飲み屋街には必ず、おでん屋さんがあるみたいで、うるま市の「いこい」の周囲にも居酒屋さんが何軒かありましたし、有名店の「悦ちゃん」は、戦後沖縄の繁華街として最も栄えた「桜坂社交街」の入り口に、また「東大」は、ディープな飲み屋街「栄町市場」の場外にありました。 そんなわけで、今回は、沖縄おでんの名店「悦ちゃん」と「東大」、そしてその周辺の記事になります。 「おでん 悦ちゃん」は、私にとっては、沖縄おでんに興味を持つきっかけとなった店です。というか、最初は、おでんではなく、「悦ちゃん」そのものに興味を持ったのですが・・・。 というのも「悦ちゃん」、営業中でもドアに鍵を掛けているというのです。で、客は外からトントンとノックをして入れ

沖縄の定番グルメ「いなりチキン」と「沖縄おでん」

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  沖縄県のうるま市は、具志川市、石川市、勝連町、与那城町の2市2町が合併して、2005年に誕生しました。市名は「サンゴの島」を意味する古い沖縄方言(ウル=サンゴ、マ=島)に由来しています。 うるま市には、金武湾と中城湾に面して八つの島があり、このうち平安座島(へんざじま)、浜比嘉島(はまひがしま)、宮城島(みやぎじま)、伊計島(いけいじま)は東洋一の長さを誇る海中道路で勝連半島と結ばれています。全長4.75kmの海中道路は、その名の通り、まるで海の中を走っているような錯覚を起こします。道路が低い上、道の両側に海が広がっているからです。 取材は、平安座島の越來(ごえく)造船と、浜比嘉島の高江洲製塩所、それに本島側の神村酒造、世界遺産の勝連城などが対象でした。 高江洲製塩所の流下式塩田 越來造船は、沖縄で唯一、琉球王朝時代の「マーラン船」の造船技術を継承しています。マーラン船というのは木造帆船で、古くから琉球の島々を結ぶ交易船として使われてきました。しかし、戦後は、輸送方法が海上から陸上交通に転換、1959年を最後にマーラン船は姿を消し、実際に運航されている船はありません。そんな中、うるま市無形民俗文化財となっている越來造船3代目の越來治喜さんと4代目の勇喜さん親子が、琉球王朝時代からの造船技術を後世に伝えるべく活動しています。 また、高江洲製塩所は、昔ながらの流下式塩田で塩作りをしています。流下式塩田は、ゆるい傾斜をつけた流下盤の上に海水を流し、太陽光で水分を蒸発させ、更に竹の枝を組んだ枝条架の上から滴下させて風で水分を飛ばし塩分濃度を高めます。塩の専売制が廃止されて以降、味が良く、塩辛さの中にほのかな甘味や苦味を感じさせる、塩田による塩が再び脚光を浴びるようになり、高江洲製塩所の塩も、ミネラルバランスが整い、コクと旨みが詰まった粗塩として人気を博しています。 神村酒造は、戦後の米軍統治下で、「官営泡盛製造廠」として復活した五つの酒造廠の一つで、バーボンウイスキーの貯蔵に使ったオーク樽を使って熟成させた泡盛「暖流」などで知られます。「暖流」は、オーク樽で3年以上熟成させた琥珀色の古酒と、タンク貯蔵の透明な泡盛を、神村酒造独自のレシピでブレンドし、甘いオーク樽の風味と古酒特有の豊かなコクを併せ持つ泡盛に仕上げています。 那覇到着後、空港でレンタカーを借り、まず高江洲製

悲しい歴史を秘めた南の島の麻織物 - 宮古上布

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「ゲッ、コンブだ!」 テスト撮影を終えたカメラマンのI氏から、悲痛な叫び声が上がりました。 「コンブ? なんじゃ、そりゃ」 I氏が呆然と見つめるポラロイドを覗くと、なるほどコンブです。 麻の織物を撮ったはずなのに、どうして? 宮古上布は、ロウをひいたような艶が特徴とは聞いていましたが、それにしても光沢がすごいのです。二人の悪戦苦闘が始まりました。  ◆ エメラルド色の海と紺碧の空。太陽の光はあふれんばかりにふり注ぎ、強烈な色彩を生み出します。影の色もまた強烈です。沖縄県 宮古島 の伝統工芸・宮古上布は、その影の色をしています。藍染の涼しげな風合いがそう思わせるのでしょうが、その歴史にも、影の部分が秘められています。 宮古上布の正確な由来は不明です。が、島では1583年、夫の栄進のお礼に琉球王へ綾錆布(あやさびふ)を献上した稲石という女性を、宮古上布の祖としています。 綾とは宮古の言葉で縞を指し、錆は布の色合いで青系の色、すなわち藍のことだろうと推測されています。その後、稲石の技は島の人々に広く伝えられ、全島で高品質の上布が生産されるようになったといいます。が、それはやがて、人頭税制の下、貢納布として姿を変え、島の人々の上に重くのしかかることになります。 1609年、薩摩の琉球侵攻と共に、宮古上布はその魅力ゆえに貢納品に指定されました。薩摩の重税に苦しんだ琉球王府は、貢納布を人頭に割り当て、島の女に労苦を強制しました。各村に機屋が設けられ、織女たちは1年の大半を機に向かって過ごしました。織女たちの肉は落ち、顔は青ざめ毛髪が抜け落ちたと伝えられます。こうして織り上げられた上布は琉球王府を経て薩摩に献上され、中央では薩摩上布の名で高価に取り引きされました。人頭税の廃止は1903(明治36)年のこと。宮古、石垣など先島の人々は実に300年も、この悪名高い税制に苦しめられたのです。 過酷な圧制は極めて精緻な上布を育みました。薄く透けているためセミの羽にもたとえられるその風合いの秘密は、非常に細い糸にあります。クモの糸かと見紛がうその糸は、苧麻(ちょま)の繊維を爪の先で極限まで細く裂いたものを使います。またロウをひいたようだと称されるその光沢は、木槌で布を強くたたき込むことで生み出されます。

日本最東端と最西端 - 納沙布岬と与那国島

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この間、日本最北端の地・宗谷岬のことを、稚内の記事で書きましたが、私、最東端と最西端にも行ったことがあります。 国土地理院は、日本の最東端を東京都の南鳥島、最西端を沖縄県与那国島、最南端・東京都沖ノ鳥島、最北端は北海道択捉島と発表しています。ただ、宗谷岬の時に書いた通り、択捉島は現在、ロシアが実効支配しており、自由に往来は出来ません。また、南鳥島と沖ノ鳥島は無人島で、通常の交通機関で行ける島ではありません。そのため、最西端の与那国島以外は、一般的には最東端が北海道根室市の納沙布岬、最南端が沖縄県の波照間島、最北端が宗谷岬ということになっています。 このうち、東西の納沙布岬と与那国島は、だいぶ前のことですが、それぞれ取材で訪問しています。 与那国島に行ったのは、今から34年も前の1986年でした。日本トランスオーシャン航空がまだ南西航空と言っていた時代で、飛行機はDHC-6という19席の超小型プロペラ機でした。当時は、石垣島との間を1日4往復していました。取材は与那国島に住む方の追跡取材だったのですが、与那国での取材ではなく、朝一番の飛行機で与那国を出て、石垣で1時間程度の会議をこなした後、与那国島へトンボ帰りするというパワフルな行動を取材するためでした。そのため、前日に与那国入りすることに。 石垣島から与那国島までのフライトは30分ほどでした。石垣の空港を飛び立った機は竹富島、小浜島、西表島の上空を通過し、与那国島へ向けて順調に飛行。窓から下を覗くと、島や海が間近に見えました。 座席前のポケットに目をやると、団扇が差し込まれています。乗客はこの団扇を仰いで涼を取るという、南国情緒あふれるシステムなんでしょうか。そこで私は、団扇を取り出し、優雅に仰ぎ始めました(実はその団扇、この間、片付けをしていたら出て来ました)。 与那国空港にはほぼ定刻通りに到着。取材対象の方が出迎えてくださり、その後、車で島を一通り案内してくれました。与那国島は面積28.5平方km、周囲27.5kmの小さな島ですが、車窓から見る限り、とてもそうは思えず、本州にはない大陸的な風景が展開していました。 与那国島は那覇から約520km、石垣島から約127kmの離島です。が、台湾までは約111kmで、与那国島の最西端からは年に数回、台湾