民謡のある風景 - 悠久の歴史つなぐ日本民謡(長野県 小諸節)
長野、群馬両県にまたがる浅間山は、標高2542m、基底面積はおよそ450平方kmに及びます。雄大な裾野には草地、針葉樹林が広がり、南東に軽井沢、沓掛(中軽井沢)、追分、南西に小諸の旧宿場町がつながります。 この宿場町をつなぐ旧中山道、北国街道を行き来した馬子たちが、追分節の元祖と言われる『小諸節ー小諸馬子唄』を唄い広めました。 ♪小諸出てみよ 浅間の山にヨー けさも三筋の 煙立つ この唄は、地元の研究家の調査によると、遠く海を越えたモンゴルが発祥地だといいます。小諸を中心とした地域には、奈良時代、朝廷の牧場があり、帰化したモンゴルの人々が、そこで働いていたと言われます。彼らが、遠い故国を偲んで唄った唄が、浅間神社の神事の唄ととけ合い、やがて新しい曲調の唄が生まれ、それが 『小諸節』の源流になったされます。 以前、モンゴルの人々が来日し、民族音楽を披露したことがありました。その中には、確かに曲調のそっくりなものがあり、聴衆を驚かせました。この説は、民謡の囃し言葉「エンヤトット」が、朝鮮半島から伝わったという説に似て、日本民謡の起源の深淵さを思わせて興味深いものがあります。 その後、『小諸節』は、街道に沿って全国に広がりました。北国街道をたどった唄声は『越後追分』を生み、海上を舟で運ばれ『酒田追分』『本荘追分』『最上川追分』となり、『江差追分』へと変貌します。一方、南下した唄は『出雲追分』などに生まれ変わっていきます。更に、追分で『信濃追分』と姿を変え、箱根、鈴鹿の馬子唄に育ち、全国の追分系民謡の生母となりました。その母の古里が、はるかモンゴルの地ということになるらしいのです。 民謡にはそれぞれ独自の起源説がありますが、どれもが歴史のひだの合間でつながっています。『小諸節』は、そんな民謡の典型だと言えましょう。