投稿

ラベル(長野県)が付いた投稿を表示しています

民謡のある風景 - 悠久の歴史つなぐ日本民謡(長野県 小諸節)

イメージ
長野、群馬両県にまたがる浅間山は、標高2542m、基底面積はおよそ450平方kmに及びます。雄大な裾野には草地、針葉樹林が広がり、南東に軽井沢、沓掛(中軽井沢)、追分、南西に小諸の旧宿場町がつながります。 この宿場町をつなぐ旧中山道、北国街道を行き来した馬子たちが、追分節の元祖と言われる『小諸節ー小諸馬子唄』を唄い広めました。  ♪小諸出てみよ 浅間の山にヨー   けさも三筋の 煙立つ この唄は、地元の研究家の調査によると、遠く海を越えたモンゴルが発祥地だといいます。小諸を中心とした地域には、奈良時代、朝廷の牧場があり、帰化したモンゴルの人々が、そこで働いていたと言われます。彼らが、遠い故国を偲んで唄った唄が、浅間神社の神事の唄ととけ合い、やがて新しい曲調の唄が生まれ、それが 『小諸節』の源流になったされます。 以前、モンゴルの人々が来日し、民族音楽を披露したことがありました。その中には、確かに曲調のそっくりなものがあり、聴衆を驚かせました。この説は、民謡の囃し言葉「エンヤトット」が、朝鮮半島から伝わったという説に似て、日本民謡の起源の深淵さを思わせて興味深いものがあります。 その後、『小諸節』は、街道に沿って全国に広がりました。北国街道をたどった唄声は『越後追分』を生み、海上を舟で運ばれ『酒田追分』『本荘追分』『最上川追分』となり、『江差追分』へと変貌します。一方、南下した唄は『出雲追分』などに生まれ変わっていきます。更に、追分で『信濃追分』と姿を変え、箱根、鈴鹿の馬子唄に育ち、全国の追分系民謡の生母となりました。その母の古里が、はるかモンゴルの地ということになるらしいのです。 民謡にはそれぞれ独自の起源説がありますが、どれもが歴史のひだの合間でつながっています。『小諸節』は、そんな民謡の典型だと言えましょう。 

武田、織田、上杉、豊臣を経て成立した真田10万石の城下町

イメージ
昨日の記事( 戦国武将・真田家の本拠地 )では、武田二十四将の一人として活躍した真田幸隆から昌幸、信之・信繁と続く、真田郷から上田城時代の真田氏について書きました。今日は、残った信之が、移封された松代藩についての記事です。 長野市松代町は千曲川東岸、古くは河東と呼ばれた地域で、信之が上田から移されるまで、さまざまな変遷がありました。この地は、武田信玄と上杉謙信が争った川中島に当たり、信玄が、山本勘助に命じて築城させたのが、松代城の元となる海津城でした。以来、海津城は対上杉戦に備えた武田氏の最前線基地となり、川中島の合戦では、ここを本陣として、上杉軍と対峙しました。 武田氏滅亡後は、武田攻めで先鋒を務め、「鬼武蔵」の異名をとった森長可が、海津城に入ります。しかし、間もなく本能寺の変が起こり、森長可は美濃へ逃げ帰り、その後に春日山城から上杉景勝が侵攻して、海津城を奪います。 しかし、一気に天下人へと駆け上がった秀吉によって、上杉景勝は会津に移封され、替わって田丸直昌が入封し、松代藩がスタート。1598(慶長3)年のことですが、秀吉の死により、1600(慶長5)年には、徳川家康が森忠政を入れ、上杉、真田に備えさせます。更に関ケ原の戦いを経て、03(慶長8)年、家康の六男松平忠輝が入封。忠輝の改易後、松平忠昌、酒井忠勝を経て、22(元和8)年、真田信之が移封されてきたことになります。 昨日の記事にも書きましたが、信之は、真田松代藩の基礎を固め、1658(明歴4)年、93歳で天寿を全うしました。信之の後は、次子信政が継ぎ、更に幸道、信弘、信安、幸弘、幸専、幸貫、幸教、幸民と、廃藩まで10代にわたって約250年続き、家名を守り抜きました。 8代の幸貫は、老中松平定信の次子で、徳川吉宗の曾孫に当たります。7代藩主の幸専に実子がなかったため乞われて養子となり、1823(文政6)年に家督を継ぎます。実父定信の影響を受けて文武奨励、殖産興業に努め、幕政においては、水戸藩主徳川斉昭の推薦もあって、1841(天保12)年、老中に就任しました。その際、佐久間象山を顧問に抜擢、水野忠邦の天保改革に協力しました。 その佐久間象山は、幸貫が、病気で老中の職を辞した後、オランダ語を学び始め、2年ほどで修得。オランダの自然科学書や医書、兵書などから洋学の知識を吸収し、1851(嘉永4)年には江戸に移住

戦国武将・真田家の本拠地

イメージ
上田市は、長野県東部、北は上信越高原国立公園の菅平高原、南は八ケ岳中信高原国定公園の美ケ原高原など2000m級の山々に囲まれ、中央部を千曲川が流れています。奈良時代に国分寺、国分尼寺が建てられ、鎌倉時代には、鎌倉の仏教文化が花開き、「信州の鎌倉」と称されています。 戦国時代に入ると、真田氏の本拠地として、その名を知られるようになります。真田氏は、信濃国海野荘(現・長野県東御市)を本拠とする海野氏の分家とされ、戦国時代初期の武将・海野棟綱の子(孫とも言われる)幸隆が、真田郷に住み、真田を名乗ったのが、昌幸や幸村ら、今の我々が知る真田氏のルーツです。 幸隆は、武田信玄に仕え、武田二十四将の一人として活躍します。次の昌幸は、幸隆の三男でしたが、長兄、次兄が長篠の合戦で戦死したため、家督を継ぐことになります。そして、武田家が織田信長によって滅ぼされると、織田家に付くも、間もなく信長が本能寺の変で暗殺されると、上杉から北条、北条から徳川と、主家をめまぐるしく替えながら領地を守ります。 なので、本能寺の変の翌年に完成した上田城が、誰の指図あるいは許可を受けて築城したのかは不明です。ただ、1583(天正11)年、上田盆地のほぼ中央、千曲川とその分流を引いた尼ケ淵を臨む崖の上に、上田城が築かれたのは確かです。 で、変わり身の早さで定評のあった昌幸ですが、家康が北条氏との取り決めで、上州の沼田城を北条氏に譲るよう命じると、昌幸は家康から離れ、再度上杉の元へ走ります。本領発揮ですね。しかし、ここからが、ただの日和見さんとは違います。 これに激怒した家康が、大軍を率いて上田に押し寄せますが、昌幸は巧みな戦略でこれを撃退。しかも、二度にわたり徳川軍を退けたことで、真田の名は、全国に轟きます。 その後、豊臣秀吉の裁定により、家康の元へ戻り、信之は、徳川四天王の一人・本多忠勝の娘を嫁に迎えます。1600年の関ケ原の戦いでは、昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、信之は東軍に付き、家名の存続を図ります。 関ケ原の戦いで、一族が東西に分かれたのは、あちこちであったことですが、これにより昌幸と信繁は、紀州九度山へ配流となり、上田城も破却されてしまいます。徳川に付いた信之は、昌幸に代わって上田藩主となりましたが、上田城の再建は許されませんでした。 関ケ原の戦いから14年、既に昌幸は生涯を閉じていましたが、信

数ある「白糸の滝」の中でも、群を抜く美しさ - 軽井沢・白糸の滝

イメージ
昨日、静岡県富士宮市の白糸の滝( 富士山の湧き水が断崖から流れ落ちる白糸の滝 )について書きましたが、実は「白糸の滝」という名前の滝は、全国にあります。その数、優に100を超えるようで、ざっと拾い上げただけでも、 青森県十和田市(奥入瀬渓流) 、 秋田県男鹿市 、 秋田県大仙市 、 山形県戸沢村 、 岩手県西和賀町 、 宮城県栗原市 、 福島県猪苗代町 、 栃木県日光市 、 山梨県富士吉田市 、 山梨県小菅村 、 長野県軽井沢町 、 兵庫県出石町 、 岡山県井原市 、 愛媛県東温市 、 福岡県糸島市 、 福岡県福智町 、 熊本県西原村 などがあります。 このうち、富士宮の白糸の滝同様、日本の滝百選に選ばれているのは、山形県戸沢村の白糸の滝で、最上峡にかかる最上四十八滝の中で最大の滝となっています。また、山梨県富士吉田市にある白糸の滝は、落差約150mの滝で、富士山系の中でも湧き水が豊富なことから「水峠」とも言われる三ツ峠の湧水を水源としています。 そんな中、富士宮の白糸の滝に匹敵する知名度を誇るのが、軽井沢の白糸の滝です。そもそも、日本屈指の避暑地である軽井沢にあって、その中でも随一の景勝地とされているわけですから、有名なのも、あたり前田のクラッカーってやつです。 以前の記事( 浅間山北麓、嬬恋高原キャベツ村物語 - 冬編 )でも、ちょこっと触れていますが、そこに書いた通り、日本の代表的活火山の一つ浅間山の雪が伏流水となって湧き出るのが、白糸の滝です。高さは3mほどしかありませんが、細い筋になったいく条もの滝が、70mにもわたって広がっています。よくよく見ると、苔むした岩肌から水が湧き出し、それが数千もの流れとなって、滝を形成していることが分かります。水温は1年中一定しており、冬でも凍ることはなく、鮮やかな緑のこけに覆われた岩肌を清洌な水が白い帯となって流れ落ちています。 軽井沢と嬬恋村を結ぶ白糸ハイランドウェイ沿いにあり、軽井沢からだと小瀬温泉を過ぎた頃から、道路の左手に湯川が見えてきます。ここから白糸の滝までは6kmほど。滝の入口には売店が1軒あり(ただし冬季休業です)、その左右に駐車スペースがあります。 駐車場から滝までは、遊歩道が整備されています。ただ、冬場は雪や霜で、日なたはぬかるみ、日陰は凍った状態になっています。滝までは、緩やかな坂道になっているので、

江戸の面影を今に伝える中山道、木曽路の宿場町

イメージ
中山道69宿は江戸幕府が整備した5街道の一つで、日本橋から武蔵、上野、信濃、美濃の国々を通り近江の草津で東海道と合流して、京都の三条大橋へ至ります。中部山岳地帯を通る中山道は太平洋岸の東海道に比べて難所が多く、中でも木曽路は難所続きの厳しい道のりでした。 木曽路は、現在の長野県塩尻市桜沢から岐阜県中津川市馬籠までの約90kmで、その間に宿場は11あります。駒ケ岳を主峰とする中央アルプスと御岳山を主峰とする北アルプスの間に深く刻まれた谷間を縫い、幾度も険しい峠を越えます。江戸時代の旅人は、だいたいが2泊3日で歩きました。中山道が国道19号になった現在でも、木曽路には往時の街道の雰囲気が残ります。中でも宿場の景観をよくとどめているのが奈良井(塩尻市)と妻籠(南木曽町)。いずれも国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。 江戸から数えて34番目、木曽路に入って2番目の奈良井宿は、標高が940mと木曽11宿で最も高い宿場です。両側に山が迫り、行く手には道中きっての難所、鳥居峠が控えています。木曽路最大の宿場町で、「奈良井千軒」とうたわれるほど賑わいました。 奈良井川沿いの旧街道にはおよそ1kmにわたって、2階のひさしがせり出した出梁造の商家や旅籠が連なります。現在の家並みは1837(天保8)年の大火後のもので、本陣や上問屋、道が直角に折れ曲がる鍵の手など宿場の姿をそのまま残しています。 「木曽路はすべて山の中である」。島崎藤村『夜明け前』の書き出しです。 ちきりや7代目手塚万右衛門の手塚英明氏 山に囲まれた木曽の産業の中心は、ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキの木曽五木に代表される木材です。木曽漆器は600年余り前に木曽福島の八沢で作られたのが起源とされます。400年ほど前からは奈良井の北側にある平沢集落(塩尻市木曽平沢)でも漆塗りが行われ、やがては主産地となりました。江戸時代には奈良井宿を往来する旅人の土産物として人気を集めます。木曽漆器は、ヒノキやサワラなどの材を使い、主に木肌の美しさが引き立つ木曽春慶塗の手法が用いられます。 明治初めには、下地の材料となる「錆土」と呼ばれる粘土が奈良井で発見され、他の産地よりも堅牢な器が作られるようになり、飛躍的な発展を遂げました。旅館や料理屋などの業務用として需要が高まり、輪島や会津若松と並ぶ漆器産地としての地位を

牛に引かれなくても善光寺参り

イメージ
昔から、「遠くとも一度は参れ善光寺」「一生に一度は参る善光寺」と言われるほど、全国各地から老若男女が参詣に訪れる善光寺。創建以来約1400年の歴史を持ち、日本最古の仏像と言われる一光三尊阿弥陀如来を御本尊とし、本堂が国宝、山門と経蔵が重要文化財に指定されています。 善光寺の場合、お寺の集団を一山(いっさん)と言いますが、大勧進を本坊とする25力寺の天台宗一山と、大本願を本坊とする14力寺の浄土宗一山、計39の宿坊を兼ねた一山があります。護持に当たる一山は、天台宗と浄土宗の寺々ですが、善光寺そのものは無宗派となっています。そのため、天台とか浄土と言った教団の枠を大きく超えた、庶民信仰の寺として、全ての人に開かれており、毎年、全国から600万人の参拝者が訪れます。 その善光寺の護持と運営の責任者となっていた若麻績倍雄さん(善光寺事務局長・正智坊住職=当時)のインタビューを雑誌に掲載したことがありました。1984(昭和59)年から89(平成元)年にかけて行われた「国宝善光寺本堂昭和大修理」では、善光寺代表役員として着工を手掛けられました。 インタビューの中で若麻績さんは、例の「牛に引かれて善光寺参り」についても、話してくださいました。そこを抜粋してみます。 「今から1000年ほど前、平安時代の中頃から鎌倉時代にかけて、仏教説話文学が盛んになりましたが、『牛に引かれて善光寺参り』も、その物語の一つなんですね。大筋は皆さんご存じのように、欲深のおばあさんが河原で洗濯物を干していた。そこへ、どこからともなく牛が現れて、角に洗濯物を引っ掛けて走り出した。それを取り返すべく追っているうちに、おばあさんは善光寺に来てしまった。 ここまでは、多くの方がご存じだと思いますが、これから先は、あまりご存じない方もいらっしゃるようです。ちょっと触れておくと・・・。 おばあさんは初め、善光寺かどうか分からなくて、大きな寺に来たなと考えているうちに、疲れが出て本堂の内陣でうたた寝をしてしまうんですね。その時、観音様が夢枕にお立ちになって、『今日は牛に化身をして、おばあさんを善光寺へ導きました』と、言われた。そして、おばあさんの自分本位で利己的な日暮らしを一つひとつ戒められたんです。その戒めを受けて、おばあさんは自分を反省し、夜が明けると、朝の善光寺の勤行、お参りをして、自分の家へ帰る道すがらも、今

天の岩戸が飛来し修験道の聖地を形成した戸隠

イメージ
戸隠神社随神門 北陸新幹線長野駅から20km余り、2005年に長野市に編入された戸隠地区は、戸隠神社の門前町として発展してきました。この辺りは、戸隠信仰の下、戸隠講の参詣者を受け入れるため大規模化した宿坊が、在家と呼ばれる農家や職人などの一般住宅と一体となって町並みを形成しています。 このように、山岳修験道の聖地としての一面の他、宗教者以外の生活の場としての集落も一体となっているのは、全国的に見ても希有な存在だそうです。そうしたことが認められ、2017年、中社・宝光社地区が、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。 選定されたのは、戸隠宝光社の全域と中社、宝光社東、宝光社西、堂前林、向林(むけべし)、東谷、上泡原(かみあわら)の一部で、対象面積は約73.3ヘクタール。戸隠地区は、標高1100m以上の高地にあり、「高距(標高が高い)信仰集落」として選定され、宿坊群としては全国初となりました。 宝光社 中心となる戸隠神社は、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の5社からなります。奥社は、紀元前210(孝元天皇5)年と伝えられますが、九頭龍社の創建はそれよりも古いと言われ、ひとまず大ざっぱに2000年余りの歴史とされます。 そもそもの起こりは、神話の「天の岩戸」に由来します。この神話は、皆さんご存じだと思いますが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、弟である須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴に困り、岩屋に隠れたことが発端です。大御神は太陽神だったので、世界は暗闇に包まれ、困った神々は一計を案じて宴を開催。天宇受売女命(あまのうずめのみこと)が裸で踊って座が盛り上がると、気になった大御神が岩戸を少し開けて覗いた瞬間を逃さず、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が怪力で岩戸をこじ開け、はるか遠くへ放り投げ、再び世の中に光をもたらしました。投げられた岩戸は、なんと信濃国まで飛んで行き、落下地点で山になったことから、その山を戸隠山と称するようになったという話です。 この神話から、戸隠山は古くから御神体として、厚く信仰されてきました。平安時代には、「戸隠三千坊」と言われ、比叡山、高野山と共に修験道の道場として栄え、全国各地から修験者が集まったといいます。 また、江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、山中は門前町として整備されました。この時、奥社参道に植えられた杉

城のある風景 - 歴史尊ぶ土地の堅牢な浮城

イメージ
諏訪市は、諏訪3万石の城下町で、城主の居城・高島城は「諏訪の殿様よい城持ちやる、うしろ松原前は湖」と歌われ、小藩には過ぎた名城と言われました。 高島城は、日根野高吉が築いたと言われ、1598(慶長3)年に完成しました。城は、諏訪湖の南岸に出来た中州のような地に、6年の歳月をかけて造られ、石垣などの石材は、舟で湖上を運ばれたといいます。 築城当時、城は湖に突き出た形になっていて、湖水が石垣を洗い、城へは人工の道を渡るしかなく、浮城と呼ばれていました。平城ながら攻めにくく、小ぶりの名城と言われていました。 城が出来て4年後、日根野氏は関ケ原合戦の戦後処理で、今の栃木県壬生町に移り、高島城には諏訪氏が入りました。 諏訪氏は、その名でも分かるように、もともとこの地の領主で、高島城の原型も諏訪氏が造った出城だったと言われます。この後、3万石余の藩として続きましたが、明治になって、佐幕派と見られたため、城は石垣と堀を残して取り壊されてしまいました。 1864(元治元)年3月、水戸の尊皇攘夷派天狗党が挙兵し、中仙道を通って大挙上洛するという騒ぎになりました。危険分子を通すわけにはいかないということで、諏訪藩は藩兵を出して迎え撃ちましたが、負けてしまいます。藩兵は城に籠もって門を閉ざし、襲撃に備えましたが、何事もなく、水戸の急進派は立ち去ってしまいました。それでもこのことが禍いして、諏訪藩は幕府側と見られてしまったといいます。 その後、城は川砂で埋まり、湖の趣きも変わって浮城の面影はなくなりましたが、1970(昭和45)年春、城跡に3層の天守と2層の隅櫓が再興され、城跡は公園となりました。 冬の諏訪湖は、湖面の結氷に亀裂が走る御神渡り神事で有名で、その記録が1443(嘉吉3)年以来保存されてきました。城跡は、そんな歴史を尊ぶ土地柄をも伝えているかのようです。

城のある風景 - 天守を傾けた農民の睨み

イメージ
遠くに北アルプスを望む松本は、その昔、深志と呼ばれていました。鳥羽川を挟んで、北側が北深志、南は南深志といい、この川を外掘にして松本城が造られました。そして、南に武家屋敷、北には町家が配置されました。 深志を松本と呼び改めたのは、1582(天正10)年にここへ入った小笠原貞慶で、小笠原氏は、室町時代の初めから信濃守護でしたから、いわば旧領を回復したわけです。その8年後、小笠原氏は下総古河3万石に移封され、松本へは石川氏が入って来ました。 今の松本城を築いたのは、その石川氏で、5重6階の大天守の北側に3重4階の小天守を配し、連結複合式の天守閣が完成したのは、1597(慶長2)年頃ではなかったか、と言われます。 その後、徳川将軍家と縁の深い者たちが松本城の主となり、3代将軍家光の頃には、堀田氏の後を受けて、水野氏が松本藩7万石の領主となりました。松本藩の年貢は、ほぼ五公五民で、収量の5割を上納するようになっていましたが、水野忠直の代になると財政が苦しくなり、徴税を強化しました。 1686(貞享3)年10月、厳しい年貢に耐えきれなくなって、農民たちがなんとかしてほしいと願い出ました。領内ほぼ全村の代表者たちが参加して、総勢1700人の農民が松本城へ押し寄せました。一部の者は城下の御用商人を襲撃し、幕府にも訴えると気勢をあげました。 藩は、家老連名で、要求を認める文書を出しましたが、農民たちが引き上げると態度をひるがえしました。11月になると一揆の中心となっていた中萱村(現・安曇野市三郷中萱)の多田嘉助ら36人を逮捕しました。8人は磔刑、20人が獄門、8人は追放という刑でした。 磔刑に処された嘉助は、磔台上で恨みの城をはったと睨みつけ、その睨みの力で、城の天守はやや傾いた、という伝承が残りました。磔刑の時に地震が起きたのだともいいます。北アルプスが雪に覆われていた季節の出来事でした。

形から心へ、それが伝統となり、今に継承される農民美術

イメージ
上田には奈良時代、信濃国府が置かれ、国分寺・国分尼寺も建立されました。以後、仏教文化が花開き、「信州の鎌倉」と呼ばれる塩田平を始め、市内には多くの文化財が残っています。 近世には、真田昌幸が上田城を築き、町屋を形成。以来、幕末まで上田藩5万3000石の城下町として栄えました。 明治から大正にかけては、全国有数の蚕都として発展。その頃、農民自らの手による農民美術が生まれています。 農民美術の提唱者は、洋画家の山本鼎氏でした。山本氏は、フランス留学からの帰途、ロシアに半年ほど滞在していました。その間、農民たちが、冬の副業として木彫人形や白樺巻の小物入れなどを作っているのに着眼。両親が住む信州の農村でも、応用出来ると考えました。 そして帰国後、作る喜びと、農家の副収入を狙った一石二鳥の産業美術運動を提唱し、現在の上田市神川に練習所を開設しました。その後、全国各地で講習会を開催、上田に農民美術研究所も設立しました。 一時、日本農民美術生産組合連合会の加盟団体は50を数え、約600人の人たちがこの仕事に就いていたといいます。しかし、関東大震災、昭和恐慌、満州事変以来の戦時体制の強化によって、研究所は閉鎖。更には戦争の激化と共に、農民美術は壊滅に瀕しました。 戦後、練習所の第1号生徒であった中村実氏らが中心となり、再び農民美術の製作が開始され、神川を中心に徐々に復活を果たしました。当初は、山本氏が持ち帰った見本の模倣から始まった農民美術ですが、技術の向上に伴い心も宿り、芸術として昇華されてきました。 その第一人者である中村実さんは、父の跡を継ぎ、1977年に2代目を襲名。その時、時流に流されまいと、安易な道を避ける不器用な生き方を選びました。と同時に、それが独りよがりにならないよう、絶えず自分を戒めていると話していました。 現在は、3代目が後を継承。中村さんを含め16人の作家が、山本鼎氏が灯し、先達から伝えられた農民美術の灯を、伝統工芸として継承していくために努力を重ねています。 農民美術のモチーフには郷土芸能上田獅子などがよく使われます

養蚕が育てた見事な町並みを今に伝える海野宿

イメージ
東御市(旧東部町)は浅間連山の西のはずれ、湯ノ丸、篭ノ登、烏帽子など諸火山の南麓にあり、町の南を流れる千曲川に向かって緩やかに傾斜しています。千曲川に沿って、信越本線と国道18号が走ります。中心地の田中は、周辺農村の買い物町をなし、第二次世界大戦前は製糸工場でにぎわいました。 田中の駅から、信越本線に沿って東へ15分ほど歩くと、かつて北国街道の宿場として栄えた海野宿に出ます。1625(寛永2)年に設けられた宿駅で、今なお東西600mにわたって、昔日の面影を残す家並が続いています。 北国街道は北陸から江戸に至る主街道で、また佐渡の金を江戸へ運ぶ道でもありました。その宿場だった海野の繁栄は想像に難くありません。しかし、どの宿場でもそうですが、幕府が崩壊し、1888(明治21)年に信越本線が開通すると、海野も宿場としての役割を失い、火が消えたようになってしまいました。 多くの宿場は、そのままごく普通の農村に戻ってしまいました。が、海野の場合は違いました。旅籠屋を営んでいた矢嶋行康氏が、欧米視察から帰った旧知の岩倉具視の勧めに従い、養蚕を始めたのが幸いしました。矢嶋氏の成功で、宿場の人たちも次々と転業。旅籠の広い間取りをそのまま蚕室に生かし、最盛期には海野90数軒のうち、半数が「タネ屋」だったといいます。こうして一大変革期をうまく乗り切ったことで、海野は当時の宿駅の姿を今日まで残すことになりました。 しかも、この時、海野の家々は、宿場時代よりもはるかに本格的な家に変わっていきました。確かに、人まかせの旅籠稼業より、養蚕という産業を基盤としたことで生活は安定します。また、その頃は各地で、立派な民家が続々と建てられた時期でもありました。そのため、海野は町並みの長さもさることながら、それぞれの家も古格をとどめて見応えがします。 養蚕をしていた家の最も分かりやすい特徴である越屋根や、卯建、海野格子など、一定のリズムのある美しい家並が続きます。また街道の中央を流れる用水路も、昔のまま残っています。かつての宿場は、たいてい道の中央に用水路がありました。それが、車社会になって道路の狭さからつぶされたり、片隅に寄せられたりして、いつの間にか消えてしまい、全国でも残っているのはここだけだそうです。こうした点からか、海野は文部省の調査ランクでは木曽の馬籠宿より上だといいます。 他にも、東部町に

小布施取材で出会ったもの、出会えなかったもの

イメージ
  小布施と言うと、普通は栗なんですが、私の場合、以前のブログ「 日本ワインの革命児・ウスケボーイズを探して 」に書いた、小布施ワイナリーのある町としても認識していました。「ウスケボーイズ」は、岡本英史さん(ボー・ペイサージュ/山梨県須玉町)、城戸亜紀人さん(Kidoワイナリー/長野県塩尻市)、曽我彰彦さん(小布施ワイナリー/長野県小布施町)の3人で、ボー・ペイサージュの津金ワイン、Kidoワイナリーの城戸ワインは飲む機会があったのですが、小布施ワイナリーのドメイヌソガだけは、出会いがありませんでした。 しかし、2016年秋、取材で小布施に行く機会があり、せっかくなので小布施ワイナリーにもお邪魔しようか迷ったものです。しかし、小布施の町はとてもコンパクトで、取材は徒歩で行っていたため、駅から約1.5kmの小布施ワイナリーを訪問すると、試飲時間や往復の時間などを考えると、取材に支障を来すことになりそうで、諦めました。 さて、その時の取材対象は、王道の栗と北斎、そしてオープンガーデンでした。 小布施の栗は超有名ですし、義母、義姉と旅行をしてきた家内からも話を聞いていたので、情報はばっちりでした。しかも、神戸の友人・Dさんが、小布施のTwitterアカウント「おぶせくりちゃん」のツイートにいいねをしたり、リツイートをしていたので、Twitterからの情報も得ていました。ちなみに、「おぶせくりちゃん」については、私もついつい出来心でフォローしてしまい、時々、タイムラインに「何々クリ〜♪」というツイートがあふれかえる事態に陥ったりしていました。 で、栗に関しては、小布施で最初の栗菓子である栗落雁を創製し、200年以上の歴史がある桜井甘精堂さんの協力で取材を進めました。桜井さんによると、「現代は菓子店には生きにくい時代なんです。競争相手はコンビニスイーツで、大手の会社が開発しただけあって確かにおいしい。そんな中、小布施は栗に特化したことで、分かりやすい町づくりに結び付いたんじゃないかと思います」とのこと。 小布施町は、半径2kmの円にほとんどの集落が入る小さな町で、その中に栗菓子の名店が軒を連ね、側には栗農園もあって、小布施の町全体が栗のテーマパークのようになっています。更に主な栗菓子店は全て自前の美術館や博物館を持っていて、それもまた小布施巡りの楽しみの一つになっているようで

山国・信州の水産加工 - 八ケ岳山麓寒天物語

イメージ
大学時代、ホテル研究会というサークルに入っていました。サークルに入ったのは、完全に魔が差したというか、まんまと釣られたというか、とにかく、何かの志があって入部したわけではありませんでした。 ただ、仲の良かったクラスメイト2人が一緒だったことと、同期入部の13人が全員男で、男子校的ノリが心地良かったこともあり、そのまま居続けました。そして、自分たちが幹事団を結成する3年の時、何がきっかけか思い出せませんが、「学生ロッジ」建設プロジェクトに取り組むことになりました。 建設候補地は、長野県の原村。八ケ岳山麓にある高原の村で、その頃、ペンションビレッジなども出来、夏の避暑地として、少しずつ注目を集めていました。 私たちは、現地調査のため、よく原村のペンションに泊まって、聴き取り調査をしたり、ロッジの候補地や周辺環境を調べて回りました。また、法学部の部員を中心に、土地の貸借契約についても調べ、運営形態なども含めて、実際に即した形で検討をしていました。 原村までは、いつも中央自動車道を使い、諏訪湖ICから入っていました。一方、鉄道利用の場合は、新宿から特急に乗り、茅野まで2時間弱。ロッジ建設予定地は、茅野駅から10km強の距離にありました。当然、現地調査では、鉄道利用の主要駅である 茅野駅 でも、月ごとの乗降客数や原村へのアクセスなどを調べました。 新宿から中央線の特急に乗り、山梨県から長野県に入ると、車窓右手に八ケ岳連峰の雄姿が見えてきます。冬には雪を被った峰々が、いかにも信州らしい風景を見せてくれます。やがて列車が茅野駅に近づく頃、今度は左手の車窓に展開する景色が、旅客の目を奪うはずです。 白いジュータンを敷き詰めたようなその光景は、信州の冬の風物詩・寒天の凍乾風景です。 最近、寒天が一大ブームを巻き起こしたことがありました。あまりの人気に、一時、店頭から寒天が消えてしまったほどです。 火付け役は、イギリスの国際的な医学雑誌に掲載された横浜市立大学医学部の研究報告でした。それは、糖尿病患者を二つのグループに分け、一方のグループだけ、食前に寒天を摂取してもらったところ、血糖値が低下。更にコレステロール値から血圧、体重、体脂肪まで減少したというものでした。 これをNHKの情報番組が取り上げ、次

繊細さと雄大さを併せ持つ上高地の風景

イメージ
上高地を流れる梓川沿いの小さな岩壁に、イギリス人宣教師ウォルター・ウェストンのレリーフが埋め込まれています。毎年6月、ここでウェストン祭が開かれ、多くの人が集まり、花を献じ、山の歌を合唱します(※今年は新型コロナ感染拡大の影響で開催が中止されました)。 ウェストンは1889(明治22)年の初来日以来、3回、延べ13年間にわたって日本に滞在しました。1891年に上高地から槍ケ岳に登ったのを始め、日本の山岳の開拓的登山を試み、1905年には彼の勧めで日本山岳会が設立されました。彼に刺激を受け、日本の登山者も山を目指して上高地を訪れるようになります。そして上高地は絶好の登山基地として注目を集め、日本の近代登山発祥の地と言われるようになりました。 それ以前の上高地は秘境と言ってもよい土地でした。が、歴史は意外に古いようです。梓川の川岸に川の名のもととなった弓の良材アズサの木が、カラマツと高さを競うように林立しています。古文書には大宝年間(701~703)に信濃の国から梓弓が朝廷に献上されたとあり、既にこの頃、杣人たちが峠を越え、梓川をたどって上高地に入っていたことがうかがえます。 江戸時代になると、松本藩の御用林となり人夫が入山しました。彼らは梓川のかなり上流まで入り、槍ケ岳のふもとのニノ俣谷まで梓川沿いに樵小屋が14軒あったと言われます。上高地周辺には八右衛門沢、善六沢、又白沢などの地名がありますが、これらは当時の杣人の名にちなんでいます。ただ、それでもニノ俣の先は依然として未踏の地となっていました。 「世に人の恐るる嶺の槍のほもやがて登らん我に初めて」 1823(文政6)年、修業のため飛騨の笠ケ岳に登った播隆上人は、山項から、鋭く天を突いている槍ケ岳の姿を眺め、こう歌に詠みました。3年後、その通り登頂を果たしますが、知られる限りでは、これが槍ケ岳への初登頂とされています。播隆上人はその後も5回にわたり槍ケ岳へ登り、頂上に祠を建て仏像を安置したり、岩小屋に籠って修行もしました。また、誰もが安全に登れるようにと登山道に鎖をつけ、槍ケ岳に信仰登山をする人も徐々に増えていきました。 更に明治になると、イギリスの登山家たちが上高地を基地として山に登るようになりました。1878年には、ウィリアム・ゴーランドによって「日本