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赤い献灯提灯が印象的な内子の八幡様

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以前の記事( 「白いろうそく」が作った豪商たちの屋敷群 )に書いた内子訪問の際、たまたま発見した八幡神社の話です。この時は、内子町と言っても、市街地から西へ12kmほど行った石畳地区が、本来の目的地でした。その記事の最後で少しだけ触れた屋根付き橋と、その近くにあるシダレザクラを撮影するためでした。 ただ、内子の町並みがきれいなのは知っていたので、石畳の撮影が終わってから、市街地にも立ち寄りました。 伝統的建造物群保存地区の側に、町並駐車場がありますが、内子座にも入ってみたかったので、車は内子座の駐車場に置いて、歩くことにしました。もし伝建地区から内子座へ向かっていたら、中町通りを歩いたでしょうが、駐車場は本町通り側だったので、素直に本町通りを歩いたため、八幡神社を見つけることが出来たわけです。 内子座の駐車場から歩くと、八幡神社の手前に、「商いと暮らし博物館」があります。明治時代に創業した薬屋さんの建物を利用した歴史民俗資料館です。 で、その斜め前にあったのが、八幡神社です。住宅と住宅の間に挟まれた、小さな参道で、普通なら通り過ぎてしまったと思います。しかし、赤い献灯提灯が参道にたくさんぶら下がっていたので、それにつられて参拝してみることにしました。内子に行ったのは3月の下旬で、春祭か何かに当たったのかと思ったのですが、その後、検索していたら、皆さん、この提灯のことを書いていたので、いつも飾っているのかもしれません。 参道には、小さな石造りの太鼓橋があり、山門をくぐってお社の方へ入って行きます。太鼓橋の下は特に水は流れていませんでしたが、昔は水路が巡らされていたのかもしれませんね。内子の八幡神社は、1542(天文11)年6月6日に宇佐神宮から祭神を勧請し、1550(天文19)年、現在の六日市に社殿が造営されそうです。当時、内子は、戦国武将・曽根高昌の領地でした。 曽根氏の祖は、近江源氏の一族で、源頼朝、義経、義仲らの従兄弟になる佐々木高綱と言われ、近江国愛知郡曾根が本拠地だったようです。高昌は、周防、長門、安芸、備後、石見、豊前、筑前7カ国の守護となり、西国随一の勢力を誇った大内義隆を頼り、周防に住した後、当時内ノ子と呼ばれていたこの地に移って来ました。 高昌は、内ノ子に入ると、周防国・泰雲寺の大功円忠大和尚が開いた護国山浄久寺に深く帰依。1533(天文2)年、第4

かんざし買った竹林寺の坊さんと、がっかり名所の播磨屋橋

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高知の播磨屋橋は、がっかりな観光地として有名です。「日本三大がっかり名所」の一つにもなっています。でも、がっかりだったのは、昔のことでは?と思う私です。 ちょっと話が古くなりますが、1601(慶長6)年、土佐に入国した山内一豊は、大高坂山に城を築くことにし、山の南を流れる鏡川と北の江ノ口川を外堀として利用、二つの川に挟まれた三角州に城下町を建設しました。そして03年、本丸などが竣工、山の名を河中山に改めました。 しかし、外堀代わりにしたのは天然の川だったので、治水に苦慮。そのため、2代藩主忠義は、城のある河中山の地名を嫌い、10年には山の名を再び改名します。この時、忠義の命を受けて名前を考えた竹林寺の空鏡上人は、高智山と命名。これが、高知の由来となりました。 昭和33年の播磨屋橋 やがて、城下町には堀川が網の目のように張り巡らされ、水の都とも言えるような町に変貌します。そして、通りの連絡を良くするため、堀川にはいくつも橋が架けられるようになりました。その一つが、播磨屋橋です。これは、堀川を挟んで商売をしていた「播磨屋」と「櫃屋(ひつや)」が、両店の往来のために自費で設けた橋でした。 その播磨屋橋が、なぜがっかり名所になったかと言うと、それは播磨屋橋の知名度が高かったからです。土佐の代表的民謡「よさこい節」に、この橋の名前が出て来ます。「♪土佐の高知の播磨屋橋で 坊さん かんざし買うを見た」。しかも、この部分が、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」(1959年)の中に歌い込まれ、更に有名になりました。 そんな播磨屋橋ですが、1960年代になって堀川が埋め立てられ、橋の必要がなくなり、1958(昭和33)年に歩道と車道の間に設置された朱塗りの欄干だけが残りました。そんなわけで、有名な播磨屋橋を訪れてみたら、川はなく、赤いガードレールみたいなものが付いてるだけということになり、がっかり名所にランクインしたわけです。ペギー葉山のヒット曲を映画化した『南國土佐を後にして』(小林旭主演)に、この赤いガードレールみたいな播磨屋橋が出てくるので、興味のある方は、ご覧になってください。 その後、1998(平成9)年に、朱色の欄干(ガードレール)は、1950(昭和25)年に造られた橋を模して石造りの欄干にリニューアル。すぐ側に、赤い太鼓橋を設置した、「はりまや橋公園」を整備し、橋の下には

エメラルドグリーンの海が広がる絶景の柏島

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大月町は、高知県最西端、海岸部を中心に足摺宇和海国立公園に指定されている自然豊かな町です。以前の記事に書いた、キャラメルのような干し芋「 ひがしやま 」の産地です。特に、大月町龍ケ迫産の「ひがしやま」は絶品と評判で、私も「道の駅 ふれあいパーク・大月」で買い求め、それを実感しました。 その龍ケ迫は、豊後水道の南端にある宿毛湾に面した集落です。集落は、昨日の記事に書いた、愛南町の「石垣の里」のような石垣で囲まれた家があったり、石積みの段々畑があったりして、高知というより愛媛の南予のような風景が展開します。 というのも、龍ケ迫は、1876(明治9)年頃、愛南町の大浜から移住してきた人たちが住み着いた場所なのだそうです。愛南町大浜と大月町龍ケ迫は、宿毛湾を挟んで反対側にあり、陸路だと湾をぐるっと回るため30km強ありますが、海路だと約10kmと陸路の3分の1ほどになります。 「石垣の里」外泊は、隣の中泊から次男以下が移住して作られた集落でしたが、龍ケ迫も同じような理由で、大浜から分家移住してきたのでしょうか。現在、龍ケ迫天満宮の秋祭りなどで披露される「龍ケ迫の獅子舞」も、1892(明治25)年に、愛媛の行商人が集落の若者たちに伝えたのが始まりと言われており、移住元とのつながりは、かなり強かったのだろうと思われます。 さて、龍ケ迫のある大月町には、エメラルドグリーンの海が印象的な「柏島」があります。私も行ってみましたが、ここの海は本当に透きとおるように青く美しい色をしており、まさに絶景の島でした。 柏島は、宿毛湾の南に突き出た大月半島の先端にあり、柏島橋と新柏島大橋という二つの橋で、半島とつながっています。周囲4kmほどの島で、私が行った時、海の上をウミネコがわんさかわんさか飛んでいました。何事かと思って近づいてみると、どうやら魚の養殖をしているようです。後で調べると、これは「小割式生簀養殖」と呼ばれ、大きな円形の生簀では、クロマグロ(本マグロ)が泳いでいるそうです。その生簀に、イワシなどのエサがまかれる時間を狙って、おこぼれに預かろうとウミネコがやって来ていたのです。 実は大月町は、日本のマグロ養殖事業発祥の地だったのです。小割式生簀というのは、回遊魚であるクロマグロの生態に合わせた丸い生簀で、近畿大学水産研究所の原田輝雄教授により開発されました。和歌山県串本町大島にある

「白いろうそく」が作った豪商たちの屋敷群

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「白いろうそく」の発明は、想像以上に画期的だったようです。18世紀初めに、ろうそく製造を営んでいた芳我弥三右衛門という人によって「伊予式箱晒し法」の技術が発明され、精製脱色技術が格段に向上しました。 青みがかった色が当たり前だったろうそくが、それまで見たこともないような乳白色に生まれ変わりました。この白いろうそくは、「晒ろう(白ろう)」と呼ばれ、電気のなかった時代には国内外で高級品として重宝されました。 県都・松山から北西へ約40km。四方を山で囲まれた盆地に、ひっそりと佇む内子町。江戸後期から明治にかけて、木ろうと和紙の生産で栄えた町です。 木ろうとは、ウルシ科の落葉高木ハゼの実をしぼって作るろうそくの原料です。江戸時代には頭髪を結う際のビンツケに用いられた他、近年では化粧品や色鉛筆などの原料としても利用されていました。 ハゼノキは、江戸時代に琉球王国から持ち込まれ、九州、中国、四国など西日本では、それまで木ろうの原料だったウルシからハゼに切り替わったようです。 伊予国の大洲藩で製ろうが始まったのは、安芸国(広島県)可部から、3人のろう職人を呼んでからで、藩内の内子でも、ろうがつくられるようになったと伝わります。内子の木ろう生産に、一大変革が訪れるのは、明治時代中期。維新後、激減していた木ろうの需要ですが、活路を海外に見いだしました。 引き金となったのは、「伊予式箱晒し法」です。芳我弥三右衛門は、ろうそくのしたたりが、水面に落ちて白くなったのにヒントを得て、研究の末にこの製法を発見したといいます。 彼が開発した技術は、精製脱色のみならず、晒ろうの量産も可能にしました。そのため、日本はもとよりヨーロッパを中心に、世界に向けて晒ろうを輸出することが出来るようになりました。 やや固く、融点の高い晒ろうの上品な灯火は、海外でも絶大な人気を誇り、内子の街は大いに繁栄しました。最盛期は、1900年代初頭(明治30年代後半)です。晒ろう生産は、愛媛県が全国1位を独占、内子町はその70%を占める一大晒ろう生産地となり、全国に名をはせました。 しかし、この栄華は短く、大正に入るとパラフィンの普及、石油の輸入、電灯の導入によって需要が激減。内子町の晒ろう生産は、大正10年頃までにほぼ消滅してしまいました。 かつての四国遍路と金比羅旧街道のゆるやかな坂道に沿った約600mにわたる八日市

四国巡礼のスタートは渦潮を超えて

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鳴門市は四国の東端、渦潮で有名な鳴門海峡の西側にあり、大鳴門橋で兵庫県の淡路島と結ばれています。鳴門の渦潮は、瀬戸内海と紀伊水道の干満差により、激しい潮流が発生することで生まれます。春と秋の大潮時には、渦の直径が最大で30mに達することもあり、渦の大きさは世界最大と言われています。 また、鳴門海峡の潮流は、イタリアのメッシーナ海峡、カナダのセイモア海峡と共に「世界三大潮流」と言われています。その速さは、大潮の最大時には、時速20km以上にもなり、こちらは日本一の速さとされています。 そんな渦潮を見るには、「渦の道」と呼ばれる大鳴門橋の遊歩道や、鳴門公園の展望台などがありますが、やはり間近で見られる観潮船がお勧めです。観潮船は、うずしお汽船と鳴門観光汽船があります。 うずしお汽船は、2017年から4年連続で、鳴門市の屋外アクティビティ第1位を受賞。観潮船は、1日18便で、所要時間は約30分です。陶板複製画を中心とした大塚国際美術館の隣にあり、鳴門公園千畳敷展望台や渦の道入口、大鳴門橋架橋記念館などの観光スポットへも歩いて10分程度となっています。 一方の鳴門観光汽船は、大型の「わんだーなると」と水中観潮船「アクアエディ」の二つのタイプの観潮船があります。「わんだーなると」は1日12便で、所要時間は約30分。予約なしで乗れます。一方の「アクアエディ」は1日15便で、所要時間は約25分。こちらは予約制です。 大鳴門橋を離れて鳴門市街地を抜け、西へ15分ほど車を走らせると、大麻町に出ます。ここは、全国にその名が知られる大谷焼の産地です。 大谷焼はなんと言っても、大がめや大鉢類など、大物陶器で有名です。阿波特産の藍染用の藍がめの需要で栄え、明治・大正期には大いに活況を呈しました。しかし、藍染の不振と共に次第に衰退。最近では、花瓶や湯飲みなどの日用雑器も作られています。超大物の大がめの場合、一人が台の上に乗り、もう一人が寝そべって足でロクロを蹴るという方法で作陶します。ここならではの光景でしょう。 また、大麻には、四国八十八カ所霊場の一番札所霊山寺と、二番札所極楽寺があります。第1番札所から第88番札所まで、札所番号の順に巡拝することを順打ちといい、そのスタート地点となる霊山寺は、約1300年前に聖武天皇の勅願で行基が開いたと言われます。弘法大師が、霊山寺を1番札所としたのは、

城のある風景 - 激動の昭和史秘めた原風景

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東京は、海べりを埋め立てて土地を広げてきましたが、旧名の江戸という地名も、入江に臨んだ土地という意味で、平安末期、その入江に突き出した山手台地に、初めて砦が作られました。 1457(長禄元)年、太田道灌が、その砦跡に中世の城郭を築き、こう歌いました。「わが庵は松原築き海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る」。当時は、今の大手町から東京駅一帯が、海に臨んだ松原だったといいます。 この台地で、本格的な築城工事が始まったのは、1606(慶長11)年のことで、徳川氏の代になってからでした。工事は延々と続き、江戸城が外郭・内郭共に完成したのは、実に33年後の1639(寛永16)年でした。 ところが、江戸城は、どうも火と因縁が深かったらしく、城の全容が整ってからわずか18年後、振袖火事と言われた明暦の大火で、本丸の5層の天守閣が燃え、その後再建されることはありませんでした。本丸の館も、1863(文久3)年に焼けてしまい、西の丸が将軍の居館となりました。 このため、諸大名が登城する時は、西丸大手門から、今の皇居正門石橋を渡り、中仕切門を通って、下垂橋(現・皇居正門鉄橋)を渡ったといいます。この下垂橋は、堀が深かったため、橋を架けてその上に橋を渡した二重構造になっていました。二重橋という名は、そこから起こりました。 勝海舟の策によって、維新の戦火を免れた江戸城は、明治になって皇居となりますが、火との因縁は切れず、1873(明治6)年5月、またまた炎上。1884年から4年の歳月をかけて造営工事が行われました。全国から木材が献上され、紅白に飾られた牛が、幣を立てた木材を運びました。この時、二重橋も、ドイツ製の鉄の橋に架け替えられました。 二重橋は、その後、1964(昭和39)年に改装されましたが、橋の見える風景は、激動の昭和史と深く結びついていて、人々の感慨を誘わずにおきません。最も日本的風景がここにあります。