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住民主体の「おもてなし」行事・真壁のひなまつり

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桜川市の南東に連なる筑波山・足尾山・加波山は「常陸三山」と呼ばれ、古くから茨城の山岳信仰の中心地として知られていました。筑波山は、日本百名山の一つに数えられ、江戸時代には「西の富士、東の筑波」と言われ、富士山と並び称されました。足尾山の山頂には足の病を取り除き、足を丈夫にするという足尾神社があり、多くの履物やギプスなどが奉納されています。修験道の山として知られる加波山では、今も山伏の修行である禅定が行われます。また加波山は、明治時代に起きた反政府運動「加波山事件」の舞台でもあります。 この常陸三山では良質な花崗岩を産出し、そのふもとにある桜川市真壁町は、昔から石材の産地として名を馳せてきました。また採石だけではなく、石の加工も行われ、真壁で造られる「真壁石燈籠」は、国の伝統的工芸品に指定されています。 真壁は、戦国時代に真壁氏が城を築き、今につながる町割りが形成されました。その後、豊臣政権五奉行の筆頭で、関ケ原の戦いでは家康を支持した浅野長政が、隠居料として真壁に5万石を与えられ、真壁藩初代藩主となって城下町を完成させました。枡形と呼ばれる城下町特有の町割りは、今も当時の面影を伝え、国の伝統的建造物群保存地区に指定されているエリアでは、約100棟が国の登録有形文化財になっています。 2003(平成15)年、伝統的建造物群保存地区の真壁地区で、自宅や店にひな人形を飾る活動が始まりました。最初は数人の有志が、真壁に来た人を何とかもてなしたいと企画したものでしたが、それを見ていた町の人たちが、自主的にひな人形を飾り始めました。初の試みにもかかわらず、数人で始めたものが、3月3日のひな祭りの頃には約40軒になっていたといいます。 そして2年目以降、ひな人形を飾る家や店舗は次々と増え、今では約180軒が、それぞれのおひな様を飾るようになり、観光客も年々増えて10万人に及ぶ規模になりました。更には、「真壁のひなまつり」の盛況ぶりが周辺にも広がり、最近は県内あちこちで同様の企画が開催されるようになっています。 こうして、今や茨城を代表する春の風物詩に成長した「真壁のひなまつり」ですが、そもそもは「真壁に来る人をもてなしたい」という住民の思いから始まったものです。そのため、多くの住民が外から来た人に声掛けし、真壁の歴史や町のことを話してくれます。そんな「おもてなし」の心こそが、「真

北原白秋の古里「水郷柳川」をどんこ船で下る

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「水郷柳川」として知られる柳川市は、福岡県南部、九州一の大河・筑後川が、有明海へ流れ込む河口に開けた町です。有名な有明海の干潟は、筑後川によって運ばれてきた大量の土砂や阿蘇の火山灰など、微細な土によって形成されました。現在でも、筑後川河口付近では、1年間に約10mの割合で、干潟が成長していると言われています。  こうした自然の営みに、柳川の人たちはうまく調和し、干潟に掘割を切って排水を促し、掘った土を盛って陸地化してきました。しかも堀割は、干拓事業のための水路として、灌瀧用水路として利用するだけではなく、立花氏12万石の城下町として、城を防御する城堀の役割を果たしていました。 柳川には、中心部の2km四方だけで、60kmもの水路が張り巡らされています。柳川市全体で見ると、水路の総延長は930kmにもなるそうで、柳川の水路面積は、道路面積をしのいでいるといいます。まさに「水郷柳川」と呼ぷにふさわしい状態です。 柳川を「水郷」と呼んだのは、北原白秋でした。白秋(本名隆吉)は、1885(明治18)年、沖端村(現・柳川市沖端町)の造酒屋・北原家の長男として生まれました。白秋が生まれた明治時代には、掘割は城を守る役割を失い、人々の暮らしの場としての性質が強まっていました。 掘割に面する家々では小舟を持ち、掘割を移動手段として使っていました。また、農村から川船で野菜を売りに来たり、有明海に面する熊本や長崎、佐賀など他県からの物品が、柳川で川舟に積み換えられ運ばれたりして、舟運も発達しました。また、炊事・洗濯などにも、掘割の水が使われ、人々の日常生活と水路が密接につながるようになっていました。 そんな時代に生まれ、高校まで柳川で暮らした白秋は、写真家田中善徳との共著である水郷柳川の写真集『水の構図』の中で、古里柳川について、次のように書いています。 「水郷柳河こそは、我が生れの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母体である。この水の構図この地相にして、はじめて我が体は生じ、我が風は成った。・・・」 地元の中学伝習館に進んだ隆吉少年は、「白秋」という号で短歌を作り始めます。しかし、教師との対立から中学を中退、早稲田大学英文科予科に進みます。その後、与謝野鉄幹に誘われ『明星』に参加し、学業の傍ら詩作に励みます。そして、1909(明治42)年に処女詩集「邪宗門」を発表します。 更に

北前船と金毘羅詣、そして鉄道の町として栄えた多度津

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昨日の琴平町と共に、今日の多度津町も、以前、記事にしていますが( 丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選 )、その際はB級グルメの鍋ホルうどんが中心だったので、改めて今回、多度津について書いてみたいと思います。 前の記事でも少し触れましたが、多度津は、室町時代初めから約200年の間、香川氏の城下町として栄えました。その後、豊臣秀吉の四国征伐で香川氏は滅びますが、江戸時代になって、元禄年間に多度津藩が成立すると、2度目の城下町として栄えることになりました。 ところで、昨日の記事( 上り786段、下り1段の石段参道でこんぴらさんに詣でる )で、十返舎一九の『金毘羅参詣続膝栗毛』を取り上げましたが、弥次さん北(喜多)さんは、多度津にも来ています。大坂から丸亀まで船で渡り、こんぴらさんに参詣した二人は、善通寺と弥谷寺にもお詣りして、多度津から丸亀へ戻ります。 『続膝栗毛』の初編が発表された1810(文化7)年当時は、大坂と丸亀を結ぶ金毘羅船が一般的でした。人々は、丸亀の宿に荷物を預けて金毘羅宮へ詣で、また丸亀から大坂へ戻りました。なので、弥次北も、多度津から大坂へ直帰するのではなく、丸亀へ戻って荷物をピックアップしてから、大坂へ帰ったのでしょう。 多度津藩は、1694(元禄7)年、丸亀藩から分封されて成立しますが、藩主は丸亀城の部屋住みで、多度津には少数の家臣が住んで藩政を執り行っていました。多度津に陣屋が置かれたのは、4代藩主京極高賢の時代になってからのことで、次の5代高琢は、桜川の河口港だった多度津湛甫を、4年にわたる大工事の末、1838(天保9)年に立派な港へと変貌させます。 これにより多度津は、讃岐一の良港となり、北前船の基地として発展。讃岐三白と言われる塩や綿、砂糖などを積んで、日本海沿岸から北海道まで航海し、干鰯や肥料などを持ち帰りました。その結果、廻船問屋を始め、万問屋や干鰯問屋など、さまざまな問屋が軒を連ね、多度津は活況を呈します。 また、九州や中国、北陸地方など日本海側の人たちが、北前船で多度津に上陸し、金毘羅宮を目指すようになります。金比羅宮への参詣には、主にこんぴら五街道と呼ばれる道が使われましたが、中でも途中に善通寺がある多度津街道は、信仰の道として多くの人が利用し、多度津の浜には船宿や旅籠が建ち並びました。 更に1889(明治2

白壁土蔵の街に春の訪れを告げる流しびな

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倉吉市は鳥取県中部、市のほぼ中央に打吹山があり、その少し北に玉川という水路が通っています。玉川沿い(通称川端)には、昔ながらの土蔵や商家が軒を連ね、伝統的建造物群保存地区の指定を受けたレトロな町並みが形成されています。これらは江戸時代から昭和初期に建てられたものがほとんどで、赤い石州瓦で葺かれた屋根が、家並みに統一感を与えています。 倉吉は、倉吉往来、津山往来、八橋往来、備中往来といった交通の結節点にあり、古くから栄えてきました。更に江戸時代には、倉吉せんばと呼ばれる脱穀具で一世を風靡しました。冬の間にせんばを作り、春には日本中に出荷していました。せんばの行商に出掛けた商人はまた、各地の文化を身に付けて倉吉に戻ってきました。その代表格である倉吉絣は、薩摩や久留米を行商した人たちが持ち帰ったと言われ、すぐにせんばと並ぶ主産業となりました。そしてせんばと絣で潤った町には、米問屋や鉄問屋、木綿問屋、醸造業などが蔵を並べ、裏手には水路が造られ、舟が絶えず往来するようになりました。 裏通りのため、人通りがまばらなことも手伝い、昔町にタイムスリップしたような感覚に陥ります。また、玉川をまたいで、各土蔵の木戸口に向かってゆるやかな反りを持つ一枚石の石橋が架けられています。赤い瓦の白壁土蔵群と運河、そして石橋の連続が、非常に美しい家並みを形成しています。 この川端で毎年4月、子どもたちによる流しびなが行われます。1985年に倉吉打吹ライオンズクラブが始めてから、今年で36回目を迎え、「くらよし打吹流しびな」の名で今や倉吉を代表する春の風物詩となっています。 流しびなは巳の日の祓いとして、草や紙で「ひとがた」を作り、災いを払うために川や海に流した行事が源と言われます。やがて3月3日の上巳(本来は3月上旬の巳の日だったらしい)に、子どもたちの健康を願って人形を流す風習へと変遷しました。今でも奈良県五條市や兵庫県たつの市、京都・下鴨神社などで、伝統的な流しびなが行われており、中でも鳥取市用瀬町の流しびなは全国的にも知られています。 もちろん「くらよし打吹流しびな」も、子どもたちの健やかな成長を願ってのイベントなのですが、そもそもの発想は玉川の浄化運動から生まれました。水路としての役目を終えた玉川は、生活排水などで汚れ、70年代から80年代にかけては、誰も見向きもしない川となっていました。

中国山地に囲まれた若桜町でジビエ三昧

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若桜町は鳥取県の東南端、兵庫県と岡山県に県境を接する中国山地の中にあります。町は、東に氷ノ山(1510m)、西には東山(1388m)、南が三室山(1358m)、北は扇ノ山(1310m)と、1300m以上の山々に囲まれており、町域の95%が山林で占められています。 若桜はまた、鳥取から姫路に抜ける播磨往来の宿場町として栄え、山陰と山陽の文化や物資が交錯していました。そんな若桜の町並みを取材した際、地元の方の計らいで、その方が所有する山小屋に泊めて頂きました。 食事も、何人かの町の方たちと一緒に、山小屋で鍋をすることになりました。鍋と言っても、そんじょそこらの鍋ではありません。熊鍋です。 他にも、イノシシやシカの肉も登場し、ジビエ三昧の夕食となりました。若桜は、周りがほとんど山だけに、猟師さんもたくさんいるらしく、地元の方は、普段からこれら山肉を食べているそうです。 私、東京生まれの東京育ちで、父方、母方の祖父母とも東京にいたため、子どもの頃から田舎に行く楽しみを味わうことなく過ごしてきました。なので、豚、鶏、牛以外の肉は、大人になるまで食べたことがありませんでした。特に、熊肉はほぼ食べる機会がなく、若桜で頂いた熊鍋が、これまでで唯一の熊食いとなっています。 そんな若桜のふるさと納税返礼品を覗いてみたら、ありました、ありました。鹿肉の生ハムにジビエカレー、ジビエの缶詰あれこれセット(鹿肉の大和煮、猪肉のすき焼き、猪肉の和風オイル漬け)の三つが選択出来るようになっていました。 で、説明を見てみると、「全国的にもトップクラスの品質を誇る若桜29工房の厳選鹿肉」「衛生的に処理された若桜29工房の猪肉」といった記載がありました。若桜29工房? 以前、若桜を訪問した時にはなかったような・・・。 というわけで調べてみると、「わかさ29(にく)工房」は、2012(平成24)年に若桜町によって設立され、翌年から本格稼働を始めた獣肉解体処理施設とのことです。更に16年には、指定管理者として「猪鹿庵(じびえあん)」を選定し、代表1名、食品衛生責任者1名、従業員2名、地域おこし協力隊1名によって運営をしているそうです。 山々に囲まれた若桜では、シカやイノシシによる農林業被害が多く、害獣駆除は年間約1000頭に及んでいました。そこで、これらの山肉を活用し、里山の恵みとして特産品に出来ないかとの

観光客0の町を、年間100万人が訪れる町に変えた観光カリスマ

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  出石については、このブログでも一度、記事を書いていますが、最初に行ったのが1987(昭和62)年で、以来3、4回は行っています。そんな出石の話題が、テレビ朝日の人気番組「激レアさんを連れてきた」で取り上げられました。というか、画面は見ていなかったのですが、「辰鼓楼」と「甚兵衛」という言葉が、耳に入ってきたのです。 最初に行った時、取材先の方に連れられて入った、出石名物・皿そばの店が、甚兵衛でした。その4年後に、町並みを中心に取材した時には、辰鼓楼はもちろん、甚兵衛で皿そばの取材、撮影もさせてもらいました。 そんなわけでテレビを見ると、出ていたのは、甚兵衛の渋谷朋矢さんという方でした。私がお会いしたのは、創業者の渋谷勝彦さんで、朋矢さんはその息子さんだろうと想像しました(後で聞いたら、婿養子さんだったようです)。 で、激レアさんとして連れてこられたのは、「町の自慢である日本最古の時計台の歴史を調べたら最古ではなく2番目だと判明し、町の誰にも言えず1人で震えていた人」としてでした。そう言えば、番組の3カ月ほど前のニュースで「最古論争に決着」として、札幌の時計台と共に日本最古の時計台と呼ばれてきた辰鼓楼は、実は日本で2番目だったと報じられていたことを思い出しました。で、事もあろうに、それを暴いちゃったのが、地元・甚兵衛のご主人だったんですね。 私も以前、雑誌に出石の記事を書いた時、次のように紹介していました。「但馬の小京都と呼ばれる豊岡市出石は、日本最古の時計塔『辰鼓楼』や、江戸中期に建てられた酒蔵など、郷愁を誘う美しい町並みで、多くの観光客を引き付けている」。むむむ・・・違っちゃったじゃないの。 しかし、実は出石の観光協会では、案内板や観光パンフレットに「日本最古」と紹介されていても、ウラが取れていないため、いつも「日本最古かもしれない」と明言を避けていたそうです。そのため、最古じゃないと分かって、逆にほっとしたらしく、「これからは堂々と、日本で2番目に古い時計台」と名乗れると喜んだとか。また、周囲の反応も好意的で、観光客が減るような心配もないようです。 そんな出石ですが、50年前には、観光を目的に出石を訪れる人など皆無に等しいものでした。京阪神から天橋立や城崎温泉など、有名観光地へ向かう途中にありながら、出石は完全スルーだったのです。 潮目が変わったのは1968(

糸魚川駅北大火からの復興

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糸魚川市は、日本列島を東西に分けるフォッサマグナの西側断層「糸魚川‐静岡構造線(糸静線)」が通り、日本列島の形成を示す貴重な地質や特徴的な地形を見ることが出来ます。そんな糸魚川はまた、幾度となく大火に見舞われてきた歴史を持ちます。昭和以降に限っても、昭和3(1928)年、7(1932)年、29(1954)年、そして記憶に新しい2016(平成28)年と、糸魚川の人々は、度重なる大規模火災を経験してきました。 2016年12月22日に発生した火災は、147棟の建物を焼失し、糸魚川市駅北大火と呼ばれました。火は、地元で「じもん風」とか「蓮華おろし」と呼ばれる強い南風にあおられて飛び火を繰り返し、鎮火まで30時間を要しました。その間、雁木造(がんぎづくり)の商店街や、360年以上の歴史を持つ酒蔵「加賀の井酒造」、多くの著名人が宿泊した「平安堂」、江戸時代から続く料亭「鶴来家」なども焼けてしまい、町並みは一変。焼失面積は約4万平方m、火元から海側へ約300mも燃え広がり、鎮火された現場には、信じられないような光景が広がっていました。 この火災から1年ほど経った頃、糸魚川市を訪問する機会がありました。糸魚川駅北大火を紙芝居で語り継ごうと活動していた女性、中村栄美子さんにお会いするためでした。 中村さんは、電電公社(NTTの前身)に勤務時代、テレホンサービスを担当しており、その中で地元の民話をテレホンサービスで紹介する企画を始めたそうです。それが、1日に全国で700人以上の人が聞いてくれる大ヒットになり、以来、山間のお年寄りを訪ねて昔の伝承や民話を採話するようになりました。こうして取り上げた民話は500話近くになり、そのうち6話は「まんが日本昔ばなし」にも採用され、全国放映もされたとのことです。 その後、地域の歴史を紙芝居などで伝える紙芝居グループ「昔かたり春よこい」を結成。その代表を務め、制作したオリジナル紙芝居は80作以上に上ります。そして、全国規模の紙芝居大会で優秀賞6回、第7回日本語大賞優秀賞などの受賞歴があります。 そうした経験から、中村さんは、火事の記憶を風化させず次の世代に伝えていく手段として、「糸魚川駅北大火」の紙芝居を制作することにしました。制作費は、糸魚川ライオンズクラブが支援してくれ、2017年11月に完成しました。 通常、紙芝居は大体15〜16枚で作るそう

日本の門前町から世界の門前町へ 千葉県成田市

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成田山新勝寺では10年に一度、ご開帳が行われます。最近では2018(平成30)年4月28日から5月28日まで、開基1080年を迎えて記念開帳が行われました。 私はその30年前、開基1050年に当たる1988(昭和63)年に、成田山新勝寺を取材させてもらったことがあります。その年はちょうど、成田空港も開港10周年という記念すべき年になっていました。 成田山は940(天慶3)年、寛朝大僧正の開基と伝えられます。あれ? 計算が合いませんね。 そうなんです。実は、開基1000年に当たる1940年は、『日本書紀』に記されている神武天皇即位から2600年に当たり、国を挙げて紀元2600年祝賀行事が行われることになっていたため、自主的に2年前倒しをして、1938年に開基1000年記念大開帳を実施したのです。 それはともかく、成田山開山当時の関東では、平将門の乱が起こリ、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝が、京から弘法大師の手になる不動明王像を携えて下総に渡リ、公津が原(現・成田市不動ケ岡付近)で、将門降伏の祈願を行いました。そして乱の平定後、堂を建ててこの尊像を安置、新たに敵に勝ったというので、新勝寺と名付けたといいます。 もっとも、成田山が今日のような隆盛をみるのは、後の世、江戸中期のことです。深川弥勒寺の一末寺から、京都・大覚寺直系末寺となリ(現在は真言宗智山派大本山)、1696(元禄9)年の光明堂建立を始めとする建築物の増設、寺域拡大を行った頃からです。同時に、本尊不動明王像と二童子像を厨子に納め江戸に出向く、江戸出開帳も元禄14年に始まリ、江戸市民と成田山の接触を深めました。 また、江戸の人々と成田山を結びつけた人物として、歌舞伎の初代市川團十郎の名も忘れることは出来ません。子宝に恵まれなかった初代團十郎は、成田不動に願をかけ、一子をもうけたといいます。そしてこの「不動の申し子」と言われる2代目を授かった後、團十郎は成田不動にまつわる宗教劇を演じ、これが当たって、市川團十郎の名を文字通リ不動のものにし、それと同時に、成田山の名も江戸市民の中に浸透したのです。 こうして、成田山信仰が盛んになるにつれ、それまで純農村であリ、鹿島、香取詣の通リ道にすぎなかった成田も、門前町として急速に都市化してきました。そして今では、長野の善光寺、香川の金刀比羅と並び、日本を代表する門前町となっている

長崎街道嬉野湯宿の旧跡とB級スポット

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昨年暮れ、長崎街道の大村宿( 長崎を開港したキリシタン大名の本拠地 )と彼杵宿( 海の見える千綿駅とそのぎ茶で有名な町 )について書き、その後、武雄(柄崎宿/ 歴史が今に息づく肥前鍋島家の自治領・武雄 )の話に続けました。本来なら、彼杵宿と柄崎宿の間に、嬉野宿があるのですが、嬉野は、一昨年11月に記事( エビデンスに裏打ちされた日本三大美肌の湯・嬉野温泉 )を書いていたので、パスしてしまいました。でも、一つだけ飛ばすのも何か気持ちが悪いので、今回は、宿場町としての嬉野に絞って書いてみます。 大村湾沿いの彼杵宿から嬉野宿への行程は、山道になります。大村藩と佐賀藩の境となる俵坂峠を越えると、俵坂番所跡があります。敷地面積200余坪、侍1名と足軽9名が監視に当たり、特にキリシタンの取り締まりは厳しかったといいます。長崎に、日本最初の商社と言われる亀山社中を結成した坂本龍馬も、この峠を通ったことでしょう。 俵坂番所跡から、嬉野宿の西構口跡までは約1里(4km)です。構口(かまえぐち)というのは、宿場の東西にある出入口のことで、上り方面を東、下り方面を西としました。 嬉野宿の西構口は、1925(大正14)年創業の老舗温泉旅館・大正屋の前、東構口は、1950(昭和25)年開業の和多屋別荘の本通り入口前にあったとされます。東西構口の間は約500m、ここが嬉野の宿場町で、30軒余りの旅籠や木賃宿の他、商家など100軒ほどの家並が続いていました。 当時は、宿場の中央付近に豊玉姫神社があり、その隣に御茶屋(上使屋)がありました。上使屋というのは、参勤交代の大名や上級武士、幕府の役人などを接待する場所で、佐賀藩では嬉野宿を始め20カ所ほど用意していたといいます。嬉野の上使屋は、武雄と共に温泉付きだったらしく、スペシャルな御茶屋だったようです。 上使屋は、宿泊所も兼ねていましたが、嬉野の上使屋は手狭だったため、街道から北へ300mほどの場所にある瑞光寺を本陣として使っていました。1862(文久2)年に、豊玉姫神社境内の一部を取り入れて拡張しましたが、その5年後には大政奉還が行われます。そして1871(明治4)年の廃藩置県後、上使屋は民間に払い下げられ、塩屋という嬉野第一の旅館となりました。 ちなみに、塩屋は1922(大正11)年の嬉野大火で焼失、その後、和多屋旅館となり、それを継承したのが