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民謡のある風景 - 漁業基地が生んだ創作民謡の傑作(千葉県 銚子大漁節)

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利根川の河口に開けた銚子は、ほとんど三方を海に囲まれています。古くから漁港として知られ、イワシ漁の基地として伸びました。 犬吠崎から太東崎に至る九十九里浜の沖合は、イワシの回遊が多く、19世紀には全国一のイワシ漁場と言われました。銚子はその要となって栄え、港は、水産物や醤油の積み出し港ともなりました。また、東回り航路の寄港地としても重要な位置を占め、各藩の米倉や船宿も設けられ、江戸中期には房総第一の町と言われました。 今も、11月から2月は、サンマやサバ漁の漁船が港にひしめき、日本の代表的漁港らしい賑わいを見せています。『銚子大漁節』は、この漁業基地・銚子が生み出した創作民謡の傑作で、数え唄形式になっているのが特徴です。  ♪一ツトセー   一番ずつに 積み立てて   川口押し込む 大矢声 コノ大漁船 1864(元治元)年、銚子は未曾有のイワシ漁に湧きました。港は、水揚げされたイワシで埋まり、漁師、仲買人、運送業者でごった返しました。この大漁を祝う祭りが計画され、そのための唄も作ろうということになりました。 こういう時に、作り手がそろってしまうところが、房総第一の町と言われるだけのことはあります。歌詞の創作には、網元の網代久三郎、旧家の松本旭光、俳人の石毛利兵衛の3人が当たりました。作曲を常磐津師匠の遊蝶が受け持ち、これに、清元師匠の名妓きん子が振り付けして、まことに景気のいい唄と踊りが出来上がりました。 『銚子大漁節』が誕生して4年後、時代は明治と変わります。景気のよい唄は、銚子を訪れる人によって各地へ運ばれ、那珂湊、潮来などで替え唄も生まれました。 夏の高校野球に銚子代表が出てくると、ブラスバンドもこの唄を奏でます。マンモス漁港には、今もぴったりの唄です。 

常磐線我孫子駅「弥生軒」の唐揚げそば

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全国の駅そばを30年にわたって食べ歩いた駅そば研究家による「全日本愛と感動の駅そばランキング」の第1位は、常磐線我孫子駅にある弥生軒でした。とはいえ、駅そば研究家の弥生軒評は「ごくありふれた駅のごくありふれた駅そば」。更にネットのクチコミでも「そばは普通」との評価が多いのです・・・。 それがなぜ、駅そばNO1なのかというと、その秘密は、平成になって始めたトッピングの唐揚げにあるようです。ボリューム満点の唐揚げは、たちまち人気となり、やがて客の絶えない駅そばになったのです。 ただ、唐揚げは作り置きなので、常連の間では、つゆに浸し温かくしてから食べるという裏技が定番らしいことも分かりました。 で、ある日、私も我孫子駅へ行ってみました。 実はこれ、編集部の若手スタッフが担当するコラムの代打取材だったのです。というのも、直近の出張で、ちょっとした食べ物ネタを扱うコラムの取材も一緒にやってくるはずが、体調不良により取材が出来なかったということで、私が急遽、何かをやっつけなくてはいけなくなったのです。 そこで、他の企画と場所がかぶらず、しかも近場で取材出来るもの、という条件の中、弥生軒の唐揚げそばを選びました。もちろん朝食を抜き、それなりに構えて行ったのですが、それにしてもヘビーな駅そばで、既に若手ではなかった私には結構堪えました。 ちなみに、朝9時の段階で、1・2番ホームの唐揚げは売り切れ。仕方なく階段を上り下りして隣のホームでゲットしました。それでも、私の唐揚げが最後の1個でした。唐揚げは、外で作って運んでくるらしく、次に入るのは10時過ぎ、とおばちゃんが客に説明していました。 ところで、もう一つ、この店を有名にしているものがあります。山下清です。 清は昭和17年から5年間、住み込みで働いていました。弥生軒は当時、駅弁を販売していたのですが、その弁当の包装紙には、清の絵が使われていました。 ただ、その間も清の放浪癖は治まらず、旅から戻る度に、社長から怒られるという繰り返しだったそうです。

住民たちが丹精込めて作った流山の「あじさい通り」

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以前の記事( 二十世紀梨のルーツは矢切の渡しで知られる江戸川沿いの街 )に書いた、松戸市の本土寺へ行った際、近くに住む友人の高橋昌男さんが、寺まで案内してくれました。本土寺は別名「あじさい寺」と呼ばれ、初夏には1万株のアジサイや5000株のハナショウブが咲き誇ります。で、ひとしきり、境内でアジサイなどを撮影した後、帰り際に高橋さんが、隣の流山に、「あじさい通り」というのがあって、本土寺とはまた違った趣があるから寄ってみたら、とアクセス方法を教えてくれました。 我が家とは逆方向でしたが、本土寺から1kmほどで、近くには「東部あじさい苑」という群生地もあるというので、行ってみることにしました。まず目指したのは、「東部あじさい苑」でした。国道6号から少し入った辺りで、道路を挟んだ向かいには、流山市東部公民館があるので、かなり分かりやすい場所でした。 ここは、小さな丘の斜面に約100mにわたって、アジサイが植えられていました。斜面には、階段も2箇所作られていて、下から眺めるだけではなく、近くで花を観賞することが出来ます。 斜面側には、建物などはなく、アジサイの奥や両側は、杉などの木々で覆われています。恐らく、杉林だった所を「あじさい苑」にしたのでしょうね。以前、群馬県の赤城山麓で、自生するアジサイを撮ったことがありますが、雰囲気がそこに似ていて、風景写真としても、いい感じの撮影スポットになっていました。 「あじさい通り」は、「東部あじさい苑」のあるバス通りから、2本入った住宅地の中にあります。距離にして400〜500m、歩いて5、6分です。 「あじさい通り」と「東部あじさい苑」は、南柏本州団地自治会の有志が、1992(平成4)年に植え始めたのが発端です。「あじさい通り」と呼ばれ、32種類ものアジサイで覆われる斜面は、以前は竹林だったそうです。それを、通り沿いの有志が、土地の所有者の承諾を得て、竹林の傾斜地を開墾。景観作りのために、アジサイを植栽したのが始まりです。 その後、植栽の範囲を広げ、「あじさい通り」に加えて、「東部あじさい苑」も作り、いつしか噂が噂を呼び、アジサイの群生地として知られるようになってきました。当初は、自治会の会員だけで、植栽や除草、剪定などを行っていましたが、千葉県立特別支援学校流山高等学園からの申し出により、同学園の生徒たちも、作業に参加するようにな

日本の門前町から世界の門前町へ 千葉県成田市

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成田山新勝寺では10年に一度、ご開帳が行われます。最近では2018(平成30)年4月28日から5月28日まで、開基1080年を迎えて記念開帳が行われました。 私はその30年前、開基1050年に当たる1988(昭和63)年に、成田山新勝寺を取材させてもらったことがあります。その年はちょうど、成田空港も開港10周年という記念すべき年になっていました。 成田山は940(天慶3)年、寛朝大僧正の開基と伝えられます。あれ? 計算が合いませんね。 そうなんです。実は、開基1000年に当たる1940年は、『日本書紀』に記されている神武天皇即位から2600年に当たり、国を挙げて紀元2600年祝賀行事が行われることになっていたため、自主的に2年前倒しをして、1938年に開基1000年記念大開帳を実施したのです。 それはともかく、成田山開山当時の関東では、平将門の乱が起こリ、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝が、京から弘法大師の手になる不動明王像を携えて下総に渡リ、公津が原(現・成田市不動ケ岡付近)で、将門降伏の祈願を行いました。そして乱の平定後、堂を建ててこの尊像を安置、新たに敵に勝ったというので、新勝寺と名付けたといいます。 もっとも、成田山が今日のような隆盛をみるのは、後の世、江戸中期のことです。深川弥勒寺の一末寺から、京都・大覚寺直系末寺となリ(現在は真言宗智山派大本山)、1696(元禄9)年の光明堂建立を始めとする建築物の増設、寺域拡大を行った頃からです。同時に、本尊不動明王像と二童子像を厨子に納め江戸に出向く、江戸出開帳も元禄14年に始まリ、江戸市民と成田山の接触を深めました。 また、江戸の人々と成田山を結びつけた人物として、歌舞伎の初代市川團十郎の名も忘れることは出来ません。子宝に恵まれなかった初代團十郎は、成田不動に願をかけ、一子をもうけたといいます。そしてこの「不動の申し子」と言われる2代目を授かった後、團十郎は成田不動にまつわる宗教劇を演じ、これが当たって、市川團十郎の名を文字通リ不動のものにし、それと同時に、成田山の名も江戸市民の中に浸透したのです。 こうして、成田山信仰が盛んになるにつれ、それまで純農村であリ、鹿島、香取詣の通リ道にすぎなかった成田も、門前町として急速に都市化してきました。そして今では、長野の善光寺、香川の金刀比羅と並び、日本を代表する門前町となっている

海も山も魅力的な房総半島

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学生時代に、友人たちと外房の海へ遊びに行ったことがあります。夜中に、大学のある早稲田に集合し、車で出発。当時は、東京湾アクアラインであるとか、京葉道路とかはありませんから、ひたすら下道を走ります。 で、外房の海で、名前を知っていたのが、御宿とか鴨川だったので、道路標識を頼りに、適当に走っていました。やがて、道路が狭くなり、気がつくと街灯もない山道を走っているではありませんか。 「あれ、おれたち、海に行くんだよな」「これ、完全に山じゃない?」と、一同、不安感が募ってきます。夜中で、車もあまり通っていないだろうからと、その時はペーパードライバーの友人が運転していたのですが、真っ暗な中、左側が崖の細い山道を走ることになり、運転する側も、同乗している方も、なかなかにスリリングな展開となりました。 周囲が確認出来ない夜中の走行ということもあり、我々の印象では山越えだったのですが、房総半島の中部から南部にかけては、標高300m前後の丘陵地帯になっています。そんな房総半島のほぼ中央に、養老渓谷があります。大多喜町の麻綿原高原(まめんばらこうげん)を源流とする、養老川沿いの渓谷です。 養老渓谷最大の見所は、100mにわたってゆるやかに流れ落ちる粟又の滝です。房総一の名瀑として知られ、滝壺の近くから下流にある小沢又の滝付近まで、約2kmの遊歩道が整備されています。この粟又の滝自然遊歩道沿いには、大小の滝が点在し、春から秋にかけて水辺を散策をする人でにぎわいます。 養老渓谷のある大多喜町は、古くから房総半島の交通の要衝として栄え、戦国時代以降は城下町としても繁栄しました。大多喜町のシンボルとなっている大多喜城は、戦国時代に上総武田氏の一族である真里谷信清が築いた小田喜城がベースになっているとされます。その後、1544(天文13)年に、『南総里見八犬伝』のモデルとなっている安房里見氏の武将・正木時茂が、真里谷朝信から攻め取り、里見氏の所領となりました。 しかし、1590(天正18)年に、豊臣秀吉が関東を平定し、徳川家康が関東へ移封されると、小田喜城は家康に接収され、徳川四天王の一人・本多忠勝が、10万石を与えられてこの地に入りました。忠勝は、里見氏に備えて城を大改修し、城の名を大多喜城に改めました。併せて城下町の整備にも手を付けましたが、関ケ原の戦いを経て、忠勝が1601(慶長6)年に桑

江戸中期から上総地方に伝わる金太郎の絵凧

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かつては正月になると、青空に舞い上がる凧が、あちこちで見られました。凧は中国の六朝時代に盛んに行われた遊びで、「紙鳶」とも書き、日本へは平安時代、長崎に入ってきたのが最初だそうです。 その後、次第に各地へ広まり、郷土色を取り入れながら、その地方独特の凧が作られるようになりました。江戸時代に主流をなしたのは角凧で、これにはだるまや武者絵を描いた絵凧と、虎・竜などの文字を白く抜いた文字凧とがありました。 そんな角凧の一つが、房総半島中央部の市原市に残っています。上総角凧と呼ばれ、絵凧の流れをくんで、凧には金太郎の絵が描かれています。この絵柄は、江戸中期から伝わっており、上総角凧のアイデンティティーとも言える重要なファクターとなっています。 上総地方では昔から、男の子が生まれると、その子の健康と成長を願って端午の節句に金太郎にまつわる凧を贈る習わしがあり、それに角凧が使われます。この風習は、現在も変わらずに残っていますが、かつては何人もいた上総角凧の作り手は、今では小澤登さんだけになっています。 小澤さんは、代々角凧作りを受け継いできた高澤家の女性と結婚。義父の高澤文雄さんから、伝統的な技法を受け継いだ4代目で、取材させて頂いた時は、先代の高澤さんも一緒でした。高澤文雄さん自身は、学校を卒業後、小湊鉄道に勤めていましたが、定年退職したのを機に父親の跡を継ぎ、本格的に角凧作りを始めました。 凧に使う紙は、美濃和紙(岐阜県)、因州和紙(島根県)が中心。同じ和紙でも、例えば新潟の和紙は丈夫で破れにくいなど、それぞれに特長があります。それを見極めながら、凧によって紙を使い分けます。絵の具もさまざまに工夫し、凧を空に揚げて光を通した時、絵柄が浮き出るように仕上げます。 そんな上総角凧に、高澤さん自身も魅了されていたようで、「長い歴史を持つ金太郎の絵凧を正確に再現し、伝承していきたい」と話していました。幸い小澤さんが、跡を継いでくれましたし、地元の小学校を始め、各地で凧作りの指導にも励んでいて、市民の間でも上総角凧が見直されるようになっていました。 ところで、上総角凧のある五井は、高澤さんが勤めていた小湊鉄道の始発駅となっています。小湊鉄道は五井駅から、大多喜町の上総中野駅まで約39kmを結ぶ単線鉄道。市原市のほぼ中央を流れる養老川に沿って、2両編成の電車が房総丘陵をコトコトと走りま

豆と野菜、二つの顔を持つスグレもの・枝豆の隠れ産地 - 野田

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私の住んでいる越谷市は、埼玉県の南東部にあり、東はプロゴルファー石川遼さん出身の松伏町、西は友人でもある大野県知事の地元川口市、南はせんべいで有名な草加市、北はクレヨンしんちゃんの春日部市になります。草加の南は東京都、松伏の東は千葉県という南東部です。 江戸川を挟んで、松伏と接しているのは千葉県野田市になります。野田市はまた、東を利根川を挟んで茨城県と接しており、利根川、江戸川という二大河川の流域では、昔から大豆作りが盛んでした。そのため、大豆を原料とした醤油の醸造業も生まれました。醤油業界最大手のキッコーマンや、白醤油部門最大手のキノエネ醤油も野田が創業地であり、国内約3分の1のシェアを占める日本最大の醤油生産地となっています。 また、近年は隠れた枝豆産地としても注目を集めており、その取材をさせて頂いたこともあります。 野田で枝豆栽培が盛んになったのは25年ほど前から。以来、年々生産量が増え、2002年には出荷量日本一となりました。しかし、野田で枝豆というイメージはなく、なぜか知名度が上がりません。 枝豆をデザインしたコミュニティーバス というのも、その品質の良さゆえ、なかなか一般市場に出回らない幻の枝豆だからなのです。東京の大田市場に出荷されたものも、セリにかかる前に高級料亭などが入札してしまうそうです。仮に消費者の目に触れるとしても、それは一流デパートの食品売り場であったりします。 ただ、ここ数年、せっかく日本一になったのだから、枝豆を使って町おこしをしようとの気運が高まってきました。枝豆豆腐や枝豆かまぼこ、枝豆リキュールなど、さまざまな加工品も生まれ、「 ゆめあぐり野田 」という農産物直売所での販売も始まりました。現在、野田の枝豆生産者300人の1割に当たる約30人が、直売所に枝豆を出しているそうです。 ところで、意外と知られていないようですが、大豆と枝豆は同じものです。枝豆とは未成熟の大豆のことで、収穫しないでおけば大豆へと成長します。 で、大豆を枝豆状態で食べるのは、日本特有の食べ方らしいです。しかも歴史は古く、奈良・平安時代には現在の形で食していたといいます。江戸時代には、夏になると路上に枝豆売りの姿が見られたそうで、当時は枝についたままの状態で茹でた豆を売っていたことから「枝豆」の

二十世紀梨のルーツは矢切の渡しで知られる江戸川沿いの街

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本土寺のアジサイ 松戸市は千葉県北西部、ここより西は江戸川を挟んで東京都と埼玉県になります。古くは水戸街道の宿場町として栄え、江戸や水戸との関わりが深く、将軍家や、水戸黄門こと徳川光圀など水戸藩の藩主が鷹狩りに訪れていたようです。 松戸市の北端に近い長谷山(ちょうこくさん)本土寺には、徳川家康の側室・秋山夫人の墓があり、その墓石は、光圀が建立したと伝えられています。秋山夫人は、甲斐武田家の家臣秋山虎康の娘で、家康との間に生まれた信吉は、武田氏の名跡を継ぎ武田信吉を名乗りました。信吉はその後、家康の関東移封に従って、下総国小金城3万石(現在の松戸市)へ移り、この時、松平姓に復し、松平信吉と改名しました。 本土寺 以前のブログ( 私のルーツ旅 水戸・常陸太田編 )でも触れましたが、信吉は、出羽に転封となった佐竹氏に代わって常陸に入封。が、その翌年、21歳の若さで病死してしまいます。次に水戸へ入った家康の十男頼宣も、間もなく駿府、紀州と転封となり、紀州徳川家の祖となります。頼宣の後は、その弟で家康の十一男頼房が入封。この頼房以降を水戸徳川家と呼び、水戸徳川2代目が、頼房の三男光圀となります。 光圀にとって秋山夫人は、叔父である信吉の母という間柄ですが、信吉は水戸徳川家の藩祖というわけではありません。しかし、儒教に強い影響を受けていた光圀は、父頼房の兄で、最初に水戸へ入った信吉にも、礼を尽くすべきと考えたのかもしれません。 本土寺は、JR常磐線北小金駅から歩いて10分ほど。駅から寺へ向かう道は、松と杉の並木が続く参道で、これらの木々は光圀が寄進したと伝えられています。本土寺は別名「あじさい寺」と呼ばれ、初夏には1万株のアジサイや5000株のハナショウブが咲き誇ります。また、春は桜、秋には紅葉が境内を彩ります。 松戸は、最初に書いたように、江戸川を挟んで東京、埼玉と接しています。市の最も南にある矢切には、細川たかしのレコード大賞受賞曲でも知られる「 矢切の渡し 」があります。矢切の渡しは、江戸初期、利根川水系河川の街道筋15カ所に徳川幕府が設けた渡し場のうちの一つ。松戸市の矢切と東京都葛飾区の柴又とを結んでいます。現在、東京近辺で定期的に運航されている渡しは、この矢切の渡しだけになってしまいました。 矢切