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8月, 2020の投稿を表示しています

湯の香ただよう将棋の町 - 天童あれやこれや

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私、漫画やアニメには疎いのですが、この4月、ひょんなことから『3月のライオン』という作品を知りました。それは、新型コロナウイルス関係の情報を得ようと、Twitterで医クラと呼ばれるアカウントを複数フォローする中でのことでした。 ある医クラ・アカウントが、国際感染症センターの忽那賢志医師のツイートをリツイートしたのが、きっかけでした。忽那さんのオリジナル・ツイートには、「私も『3月のライオン』を日々の生きる糧にしています」という意味のことが書いてありました。このツイートは、羽海野チカさんという方に向けたもので、恥ずかしながら、この時まで、羽海野さんも『3月のライオン』のことも知りませんでした。 私と同じような方もおられるかもしれないので、念のために記すと、羽海野チカさんは東京出身の漫画家で、『3月のライオン』はその代表作。将棋を題材にし、マンガ大賞2011大賞、手塚治虫文化賞マンガ大賞などを受賞。大友啓史さんが監督し、神木隆之介さん主演で実写化もされ、話題になったようです。なお、この作品は現在も、『ヤングアニマル』(白泉社)で不定期連載中です。 で、羽海野さんと忽那さんですが、お互い面識があったわけではなく、羽海野さんによるツイートが、この出会いの発端となりました。そのツイートは、要約すると、次のような内容でした。 「20年以上前、医学生による面白いブログを見付けて愛読していた。更新がなくなってからも気になって、ペンネームなどを頼りに検索したところ、医師になられていることが分かった。それが今年になって、新型コロナウイルスとの闘いの最前線にいることを知った。20年も自分の記憶の中にいたこの人のサポートが出来ないかといろいろ思いを巡らせるが、現場が混乱している時に、かえって迷惑になるのではという考えも浮かび・・・知らない人からいきなり届いても少し助かるものって何なのだろうといくら考えてもなかなか思いつかなくて」 このツイートが、羽海野さんのファンを中心に拡散。それが、忽那さんの妹さんの目に止まり、忽那さん本人が登場することになります。実は忽那さんは、その頃、新型コロナのためにアカウントを停止していたようですが、妹さんから話を聞いてアカウントを戻し、羽海野さんに向けての返信が、その復活ツイートとなりました。 その後

二十世紀梨のルーツは矢切の渡しで知られる江戸川沿いの街

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本土寺のアジサイ 松戸市は千葉県北西部、ここより西は江戸川を挟んで東京都と埼玉県になります。古くは水戸街道の宿場町として栄え、江戸や水戸との関わりが深く、将軍家や、水戸黄門こと徳川光圀など水戸藩の藩主が鷹狩りに訪れていたようです。 松戸市の北端に近い長谷山(ちょうこくさん)本土寺には、徳川家康の側室・秋山夫人の墓があり、その墓石は、光圀が建立したと伝えられています。秋山夫人は、甲斐武田家の家臣秋山虎康の娘で、家康との間に生まれた信吉は、武田氏の名跡を継ぎ武田信吉を名乗りました。信吉はその後、家康の関東移封に従って、下総国小金城3万石(現在の松戸市)へ移り、この時、松平姓に復し、松平信吉と改名しました。 本土寺 以前のブログ( 私のルーツ旅 水戸・常陸太田編 )でも触れましたが、信吉は、出羽に転封となった佐竹氏に代わって常陸に入封。が、その翌年、21歳の若さで病死してしまいます。次に水戸へ入った家康の十男頼宣も、間もなく駿府、紀州と転封となり、紀州徳川家の祖となります。頼宣の後は、その弟で家康の十一男頼房が入封。この頼房以降を水戸徳川家と呼び、水戸徳川2代目が、頼房の三男光圀となります。 光圀にとって秋山夫人は、叔父である信吉の母という間柄ですが、信吉は水戸徳川家の藩祖というわけではありません。しかし、儒教に強い影響を受けていた光圀は、父頼房の兄で、最初に水戸へ入った信吉にも、礼を尽くすべきと考えたのかもしれません。 本土寺は、JR常磐線北小金駅から歩いて10分ほど。駅から寺へ向かう道は、松と杉の並木が続く参道で、これらの木々は光圀が寄進したと伝えられています。本土寺は別名「あじさい寺」と呼ばれ、初夏には1万株のアジサイや5000株のハナショウブが咲き誇ります。また、春は桜、秋には紅葉が境内を彩ります。 松戸は、最初に書いたように、江戸川を挟んで東京、埼玉と接しています。市の最も南にある矢切には、細川たかしのレコード大賞受賞曲でも知られる「 矢切の渡し 」があります。矢切の渡しは、江戸初期、利根川水系河川の街道筋15カ所に徳川幕府が設けた渡し場のうちの一つ。松戸市の矢切と東京都葛飾区の柴又とを結んでいます。現在、東京近辺で定期的に運航されている渡しは、この矢切の渡しだけになってしまいました。 矢切

北の比叡山・杣山のふもとに広がる花ハスの里 - 南条

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南越前町は、2005(平成17)年に、今庄町、南条町、河野村が合併し発足しました。福井県のほぼ中央にあり、近畿から同町以北の北陸地方へ入る際、必ず通らなければならない交通の要衝となっています。 このうち旧南条町は、東西を山に挾まれ、町の中央を日野川が流れています。町の東北には越前富士と呼ばれる日野山が、南東には南朝の忠臣瓜生保が居城した杣山があります。杣山は、古くは北の比叡山とも呼ばれ、平安時代には山麓から山頂にかけて多くの僧坊が並び、杣山三千坊とうたわれました。 その杣山のふもとに、今、ハスの畑が広がり、夏になると淡いピンクの花が咲き誇ります。この畑は、よくある蓮根用ではなく、花をとるために作られたものです。 南条で花ハスの生産が始まったのは1973年。減反で空いた田圃を活用することを目的にスタートしました。最盛期には、栽培面積15ha、全国の約7割となる12万本の花ハスを出荷していました。 近年は、生産者の高齢化もあり、若干規模を縮小していますが、それでも7戸の農家が南条蓮生産組合に加入し、栽培を継承。7、8月のお盆には、全国の約6割、7万本の花ハスを全国各地へ出荷しています。 ハスと言えば、一般に仏花として扱われます。『枕草子』には、「はちすは、ようつの草よりもすぐれてめでたし。妙法蓮華のたとひにも、花は仏に奉り実は数珠に貫き、念仏して往生極楽の縁とすればよ。また花なきころ、緑なる池の水に咲きたるもいとをかし」 とあります。「はちす」は、ハスの古名。既に平安時代、ハスが仏教と深く結びついていたことが分かります。 インドの仏典などを見ても、ハスの花がよく出てきます。母親マーヤがブッダを身籠もった時、地中から一本のハスが出て、花が咲き出す。あるいは母親の右腹から生まれたブッダが歩くと、大地が割れてハスの花が咲き出す、といった記述があります。 また、「水中に生まれて、良い香りがあり、愛すべき白いハスが、水のために汚されず成長するように、ブッダが世間に生まれ住み、世間に汚されないのは、赤いハスが、水に汚されないようなものである」という意味の弟子の詩もあります。 つまり、ブッダをたたえる本質がハスにあるということで、更にブッダの入滅後、ハスはますます出世します。ガンダーラで生まれ、仏教の教

厳しくも美しい大自然。秘境しれとこを行く

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夕日に染まる流氷(プユニ岬) 斜里の取材に同行してくれたのは、定期観光バスを運行している斜里バスの社長(当時)斉藤勉さんでした。しかも、斉藤さんは、写真を趣味としており、撮影ポイントも熟知していました。この時の撮影を依頼したカメラマンのI氏は、私が担当していた雑誌の写真コンテストで審査員を務めており、斉藤さんは、その常連でもありました。 そのため、I氏がこんなロケーションがあれば、とつぶやけば、それはどこそこに行けば撮れるとか、後少し行くと木々の間隔が空いて視界が開けるとか、ピンポイントで撮影スポットへ案内してくれました。また、タラの寒干しを撮影する際には、高所作業車を用意しておいてくださり、俯瞰で干し場の光景を撮影させて頂きました。 そんな至れり尽くせりの取材が終わり、知床グランドホテルのロビーで、斉藤さんやホテルの桑島常禎社長(当時)らから、流氷にまつわる話を伺っていた時のこと。同席者の一人が、流氷オンザロックの話題を持ち出し、流氷を読者プレゼントにしたら、と話が展開。すると桑島社長が、ホテルでは冬の間、流氷を常設展示しているので、それをきれいにして提供しましょうと言ってくださったのです。ひょうたんから駒、この斜里取材の掲載号では、知床グランドホテルの協力の下、その年接岸した正真正銘の流氷を読者にプレゼントすることになりました。  ◆ 斜里は、寛政年間(1789~1801年)に日本人が入った漁業の集落で、明治になってから、本格的な開拓が始まりました。斜里平野での畑作、酪農、斜里やウトロの漁港を基地とした漁業、それに知床での林業などが、町の根幹を支え、農水産物や木材の加工なども盛んです。大自然に抱かれた町は、まさに人と自然との調和の姿を示し、知床国立公園内100平方m運動というナショナル・トラスト運動の中心地にもなっています。 秋。サケ、マスたちが、一斉に、そんな斜里の川をさかのぼります。ヒグマがそのサケを捕らえ、長い冬眠に備えて腹ごしらえをします。オジロワシやオオワシも、北の地方から渡って来ます。やがて知床連山が雪を被り始め、流氷の訪れと共に本格的な冬がやって来ます。 斜里の人たちは、 「今日は、流氷がいないなア」 「昨日まで、いっぱいいたのに」 などと、まるで流氷が生き物であ

山国・信州の水産加工 - 八ケ岳山麓寒天物語

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大学時代、ホテル研究会というサークルに入っていました。サークルに入ったのは、完全に魔が差したというか、まんまと釣られたというか、とにかく、何かの志があって入部したわけではありませんでした。 ただ、仲の良かったクラスメイト2人が一緒だったことと、同期入部の13人が全員男で、男子校的ノリが心地良かったこともあり、そのまま居続けました。そして、自分たちが幹事団を結成する3年の時、何がきっかけか思い出せませんが、「学生ロッジ」建設プロジェクトに取り組むことになりました。 建設候補地は、長野県の原村。八ケ岳山麓にある高原の村で、その頃、ペンションビレッジなども出来、夏の避暑地として、少しずつ注目を集めていました。 私たちは、現地調査のため、よく原村のペンションに泊まって、聴き取り調査をしたり、ロッジの候補地や周辺環境を調べて回りました。また、法学部の部員を中心に、土地の貸借契約についても調べ、運営形態なども含めて、実際に即した形で検討をしていました。 原村までは、いつも中央自動車道を使い、諏訪湖ICから入っていました。一方、鉄道利用の場合は、新宿から特急に乗り、茅野まで2時間弱。ロッジ建設予定地は、茅野駅から10km強の距離にありました。当然、現地調査では、鉄道利用の主要駅である 茅野駅 でも、月ごとの乗降客数や原村へのアクセスなどを調べました。 新宿から中央線の特急に乗り、山梨県から長野県に入ると、車窓右手に八ケ岳連峰の雄姿が見えてきます。冬には雪を被った峰々が、いかにも信州らしい風景を見せてくれます。やがて列車が茅野駅に近づく頃、今度は左手の車窓に展開する景色が、旅客の目を奪うはずです。 白いジュータンを敷き詰めたようなその光景は、信州の冬の風物詩・寒天の凍乾風景です。 最近、寒天が一大ブームを巻き起こしたことがありました。あまりの人気に、一時、店頭から寒天が消えてしまったほどです。 火付け役は、イギリスの国際的な医学雑誌に掲載された横浜市立大学医学部の研究報告でした。それは、糖尿病患者を二つのグループに分け、一方のグループだけ、食前に寒天を摂取してもらったところ、血糖値が低下。更にコレステロール値から血圧、体重、体脂肪まで減少したというものでした。 これをNHKの情報番組が取り上げ、次

阿武隈川畔の冬の風物詩「あんぽ柿」

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隣はもう宮城県という福島県最北の町・伊達市。その伊達市の中でも一番北にあるのが、古くからの城下町・梁川です。鎌倉、室町時代には伊達氏が梁川城を築き、この地を本拠に奥州に君臨しました。その後、蒲生、上杉、松平氏の時代を経て、幕末には松前藩の所領となって明治を迎えました。 かつては「蚕都梁川」と呼ばれたように、養蚕業が盛んでしたが、いまはそれに変わり、ニットの町として、福島ニットの中心地となっています。そのニットとともに梁川の特産となっているのが、「あんぽ柿」。 福島県の北部一帯は、果樹王国として知られますが、中でも梁川のあんぽ柿(干し柿)は、全国一の生産出荷量を誇っています。「甘い干し柿」が訛ったものと言われるあんぽ柿は、その名の通り甘露絶品。かつては年間2000トン近くが、県内を始め関東、関西方面へ出荷されていました。 しかし、福島第一原子力発電所事故直後の2011年度は、県庁による自粛要請で18トンに激減。その後、徐々に持ち直し、今では約1000トンまで回復して、途絶えていた輸出も、今年の1月から試験的に再開されています。 梁川の中でも、干し柿づくりが盛んなのが、 五十沢 地区(旧五十沢村)。五十沢は、梁川の中心部から阿武隈川を渡り、宮城方面へ向かった所にあります。この地方は、あんぽ柿の原料となる蜂屋柿の本場でもあります。大ぷりで見た目にもうまそうな柿ですが、あいにくと渋柿。そこで、これを干し柿にすることにしたのです。 干し柿というのは、昔からあったもので、『延喜式』(927年)にも、菓子類として挙げられています。五十沢での干し柿づくりも、かなり古くから行われていたようです。しかも、この地方の冷たく乾いた冬の気候は、干し柿づくりに適していました。 ただ、今日の「あんぽ柿」と言われる干し柿は、大正時代に始まったものです。普通の干し柿は、時間が経つと乾燥して、黒く堅くなり、更に糖分が白い粉となって表面に出て来ます。これに対してあんぽ柿は、羊羹のように柔らかく、半分生のようなジューシーな食感が特徴です。これは、あんぽ柿が、渋柿を硫黄で燻製状してから乾燥させる、独特の製法で作られるためです。 大正時代、隣村の佐藤福蔵さんが、カリフォルニアの干しぶどうづくりを目にしたのが、そもそものきっかけでした

雄大で美しい景観を誇る石鎚山と面河渓

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小田深山 面河渓 に初めて行った時は、担当していた雑誌の写真コンテストによく応募されていた、松山在住のアマチュア写真家・菊野善之助さんに案内して頂きました。菊野さんは当時、コンクリート製品などを製造する㈱キクノの会長職にあり、週末はほとんど松山市内の写真仲間と撮影に出かけていました。石鎚山と面河渓は、そうした撮影スポットの一つで、特にお気に入りの場所だと話していました。 松山市内でレンタカーを借り、約束の地点で菊野さんをピックアップし、面河渓を目指しました。松山から面河までは、国道33号線で久万高原を抜け、御三戸交差点から石鎚方面へ入るルートと、久万高原から国の名勝・古岩屋を通るルートがあります。菊野さんのお勧めは古岩屋ルートで、松山からは約65kmの道程でした。 面河に入って、菊野さんがまず初めに案内してくれたのが、石鎚スカイラインでした。面河渓の入口となる関門から土小屋まで全長18km、約30分のドライブコースです。菊野さんによると、5月の新緑、10月の紅葉期が特にいいとのこと。 亀腹 途中には長尾展望台があり、石鎚山が眺められます。頂上から少し下った石鎚山の胸の辺りには、日本名湖百選の一つ御来光の滝が見えます。終点の土小屋周辺にはアケボノツツジの群落もあり、5月中旬、ピンクの花を咲かせ、新緑の石鎚山と、絶妙の取り合わせを見せてくれるそうです。土小屋は、石鎚への登山口ともなる場所で、シーズンには登山者やハイカーでにぎわいます。 愛媛県で「お山登り」といえば石鎚登山を意味するほど、石鎚山は愛媛を代表する山です。標高1982mは、西日本の最高峰。古くから山岳信仰の山として知られ、日本七霊山の一つにも数えられています。 土小屋から先は瓶ケ森まで、ブナ林の中を林道が走ります。石鎚山は年に300日は霧が発生すると言われ、ブナの巨木が霧の中に浮かぶさまは幻想的。5月から6月の新緑の頃には、霧が緑に染まり、ことのほか美しい景色を見せてくれます。 面河渓は、その石鎚山の森が造り出した渓谷。石鎚は全山森に覆われ、豊かな水を生みます。水は大地を流れ、長い年月をかけて谷を刻んできました。面河渓には「面河本流」と「鉄砲石川」という二つのルートがありますが、いずれの谷も樹海、断崖、滝、奇岩などが次々と現れ、自然の造

古より今に。時を流れる轟泉水道 - 宇土

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御輿来海岸 宇土市を最初に訪問したのは、1987年のこと。開業医の伊達 鍈 二さんに会うためでした。 伊達さんは、熊本の大学病院勤務を経て、1980年に有明海沿いの宇土市網田町に診療所を構えました。そこは海風が強く、開院を祝って訪ねて来た友人の工学博士からは、「こりゃあ風力発電が出来るばい」と、太鼓判を押されたそうです。 この時から、伊達さんの心の中で、風車が回り始めました。夜ごとの酒の肴はこれに決まり。飲むほどに、酔うほどに、心の中の風車は大きく強く、伊達さんの心にエネルギーを充電してくれました。 風力発電は、19世紀後半からイギリスやアメリカなどで試みられており、日本では1949年に札幌で、風車の製造が始まりました。その後、オイルショックを機に代替エネルギーとしての風力発電への関心が高まり、70年代には複数の教育機関が研究に乗り出しました。しかし、80年代になると、石油の安定供給や価格の下落により、風力発電の研究開発は下火になっていました。 そんな時代でしたが、風の持つエネルギーに対する伊達さんの興味は、ふくらむばかり。風車の研究から始め、1年かかって、風力発電用として直径4mのプロペラ式風車を採用。初めて2枚の翼が、ゆっくり、そして風切り音をたてて回り出した時は、「無性に感動を覚えた」そうです。更にそれを、発電機で電気エネルギーに変換。「電気にする」 ことにも成功しました。 すると次に、「発電したからには何かに使わないと」と、電気の使い道を考え始めたのです。その第1段階は「風で茶を沸かす」こと。発電機をヒーターにつないて熱エネルギーにして、お湯を沸かしました。それがうまくいくと、今度はいよいよ第2段階の「風で走る」、つまり電気自動車への挑戦でした。 1970年の大阪万博会場で使われた電気自動車は、ダイハツが担当しました。以来、ダイハツはハイゼットなどの電気自動車を市販したり、自治体向けに電気自動車を少数納入したりしていました。 そこで伊達さんは、ダイハツに相談し、電気自動車と共に、専用充電装置を開発してもらいました。風車が回り始めて1年、最初にアイデアを思いついてから2年の月日が経っていました。 当時、風力を利用した電気自動車は国内では初めて、世界的にも極めて珍しいと評判になりました。最

瀬戸内に臨む安芸の小京都の魅力 - 竹原

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竹原は安芸の小京都と呼ばれます。平安末期、京都・下賀茂神社の荘園として開け、市内には上賀茂神社・下賀茂神社が祀られています。そうした歴史的背景と共に、賀茂川や美しい竹林など、自然も京都をほうふつさせます。 しかし、海のない京都と違い、竹原には瀬戸内海があります。賀茂川は、瀬戸内海と内陸部を結ぶ舟が行き交い、竹原はその港町として栄えました。 一方、この港は瀬戸内海賊の基地としても知られました。そんなことを考えると、当時の竹原は、京都とは大いに違う趣を見せていたことでしょう。この頃の港は、賀茂川のかなり上流にあったらしいのですが、戦国時代に砂の堆積で使えなくなり、瀬戸内寄りに新たな港を造成しました。それが、現在の竹原です。 その後、浅野長晟(ながあきら)が藩主となってから、竹原は大きく変わります。浅野藩は、瀬戸内海での新田開発に力を入れました。しかし、土地の脱塩が不十分で、農地には適しませんでした。そこで、播州赤穂の浅野藩から技術者を招き、塩田開発に乗り出しました。 そして、これが大成功。1650(慶安3)年には31軒、1653(承応2)年には88軒の塩屋を数えるまでになりました。その後は、藩も個人も競って塩田開発に投資し、やがて竹原は塩の町として発展。同時に竹原の港も、その積出港として繁栄していきました。 今も残る竹原の重厚な町並みは、塩景気に沸いた浜旦那たちのものです。また、清水寺を模した西方寺を始め、多くの社寺が建立され、竹原は再び京を思わせる町へと変貌を遂げていきます。 これらの町並みは戦災を免れ、現在もほぼ全域に残っています。特に 上市・下市の家並 は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、江戸時代後期のさまざまな様式の建造物を見ることが出来ます。 伝建地区に2軒、国の重要文化財に指定されている建物があります。春風館頼家住宅と復古館頼家住宅で、頼家というのは、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた『日本外史』の著者・頼山陽を始め、江戸後期に多くの儒学者を輩出した家です。 製塩業と港で栄えた竹原は、元禄期には大坂などの町人文化の影響を受け、富裕層は学問に力を入れました。これにより、頼山陽の父である頼春水や、その弟の春風、杏坪の3兄弟を始め、多くの町人学者を輩出しました。 春風館頼

400年以上の歴史を持つ手漉き和紙 - 白鷹

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日本最初の鉄橋・最上川橋梁 今惣右衛門(利一郎)さんは、伝統的な深山紙を受け継ぐただ一人の職人です。深山紙は400年以上の歴史を持つ手漉き和紙。江戸時代には農家の冬の副業として、白鷹の4軒に1軒が従事し、上り紙と呼ばれて江戸にまで運ばれていました。しかし、明治に入り、洋紙が普及するのに伴って、多くの農家が和紙の生産をやめてしまいました。 そんな中、今さんの家では代々惣右衛門の名を受け継ぎながら、楮(こうぞ)100%の和紙づくりを続けてきました。今さんもまた、ほとんど機械や薬品に頼らない、昔ながらの手法にこだわっています。 例えば、繊維をほぐすため楮の皮を煮る作業があります。多くの産地では苛性ソーダやソーダ灰を使いますが、今さんはこうした薬品を一切使いません。 「苛性ソーダで煮ると、少々のゴミなんか漂白されてしまうんで、後の処理が楽なんだ。でも、これ使うと紙が柔らかくなってしまうからね」 と、今さんは言います。 紙漉きの時も、一般にはトロロアオイを使いますが、今さんはノリウツギを使っています。ノリウツギの方が粘りけが少なく、繊維が伸びるので、いい紙が漉けるのだそうです。 こうして制作される深山紙は、水に濡らして絞れる、ミシンで縫えるなど、腰のあるしっかりした紙に仕上がります。しかも、新聞の上に置いた時、下の新聞記事が読めるのです。ただ、夫婦二人だけの仕事なので、量産はききません。 「金には、ならないねえ」と、今さん。「それでも、いいんだ。これからも手を抜かないで、いい紙を作りますよ」 白鷹人形 1985年、白鷹町では、深山紙の伝統を受け継ぎ、次代に継承しようと、「 深山和紙振興研究センター 」を設立。役場の元職員がセンター長を務め、周囲から紙漉きの方法を学び、深山集落の人たちの協力を得ながら生産を始めました。現在、同センターでは、紙漉き体験や、深山和紙に関するマスコミ対応、来館者への説明なども行っています。 その深山紙を素材にした和紙人形が、白鷹町にあります。30年ほど前、町の社会教育課が、白鷹出身の人形作家・谷口陽香さんを招き、人形づくりの講習を主催しました。その後、谷口さんを講師に開講した人形教室がきっかけとなって、白鷹人形研究会が発足。この時

降る雨を瀬戸内と日本海に分ける水(み)分かれの町

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「デカンショ節」のせいか、丹波と言うと、どうも山奥のイメージがあります。しかし、丹波市の氷上町には、そんな感じは全くありませんでした。確かに、三方が山に囲まれてはいますが、みな背の低い山ばかり。いわゆる盆地で、川の流れもゆっくりでした。 古代の丹波は但馬、丹後も含む、広大な地域を表していました。それが、奈良時代に分割され、丹波は桑田・船井・何鹿(いかるが)・天田・氷上・多紀の6郡になりました。その後、明治時代の廃藩置県で、氷上と多紀は兵庫県に、残り4郡は京都府に編入されました。 氷上郡6町が合併して誕生した丹波市の中心・氷上町は、本州一低い中央分水界の町として知られます。中央分水界は日本列島の太平洋側と日本海側の境界で、北から南まで、まるで背骨のように走っています。その分水界が、氷上町では海抜100m前後で形成されています。そのため、町内を流れる高谷川は瀬戸内海へ、黒井川は日本海へ注ぎます。 稲畑人形の代表作「天神」 しかも、氷上町には真北と真南を結ぶ「子午線」が通っており、子午線上に建つ家では、理論上、雨が降った時に北側の屋根の雨水は日本海へ、南側の屋根の雨水は瀬戸内海へ注ぐことになります。ミーハーの血が騒ぎますねぇ。  ◆ 日本では昔から、全国各地で土人形が作られてきました。それらの源流と言われるのが、京都の伏見人形です。江戸後期に全盛を極め、文化・文政の頃(1804~29年)には、伏見稲荷の参詣路である伏見街道沿いに、50戸もの窯元がありました。 この伏見人形の影響を受けて誕生した人形の一つに、江戸末期、沼貫村(現・丹波市氷上町) 稲畑 の赤井若太郎忠常がつくり始めた稲畑人形があります。若太郎は稲畑の庄屋である赤井家の長男として生まれ、元服の祝いで京都見物へ出掛けた折、伏見人形と出合いました。 稲畑で土人形をつくり、地場産業に出来ないかと考えた若太郎は、父の許しを得て、伏見から人形勝という職人を呼び寄せました。そして、自らも寝食を忘れて型づくりに励み、今日、稲畑人形の代表作と言われる「天神」を始めとした型を完成させました。更に、近隣の農家の指導も行いながら、地域ぐるみで人形制作を始めました。 弘法大師開基の岩瀧寺(兵庫県観光百選) 当初は7軒が人形づくりに関わ

独特の石積み文化を持つ島 - 周防大島

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ビー玉海岸の朝焼け 瀬戸内海に浮かぶ周防大島は、海岸近くまで山が迫り、平地があまりありません。対岸の柳井市と島を結ぶ約1kmの大島大橋を渡り、海岸沿いの国道から島の内側へ入ると、ほぼ坂道と思って間違いありません。 細い急勾配の道を登っていくと、あちこちに段々畑が見られます。ほとんどが、ミカン畑です。周防大島は、山口県のミカン生産量の80%を占めるミカンの島です。 よく見ると、それらみかん畑の一部に、大きな穴が開いています。しかも、穴は一つではなく、その上の段にもあります。それどころか、あっちにも、そのまた向こうにも、穴が見えます。 「かつては田んぼだったんですよ。この穴は、その灌漑用水路なんです」 と、案内を買って出てくださった旧久賀(くか)町の吉村基元町長が説明してくれました。 周防大島町は2004年10月に大島、久賀、橘、東和の4町が合併して誕生しました。実は久賀町は1904年1月1日に町制を施行して以来、100周年目を迎えたところでした。その町長を務めていたのが、吉村さんでした。 吉村さんによると、久賀には「水洞(すいどう)」と呼ばれる、こうした暗渠が、1200カ所もあるそうです。 「久賀はご覧の通り土地が狭いんで、少しでも多く米が獲れるよう、石を積んで棚田を組み、その中に水洞を作ったんです。小川だと、その上に米は作れませんが、棚田の下を通せば、土地がそのまま使えますからね。子ども一人分の食い扶持ぐらいは収穫出来るというわけです」 なあるほど、です。 現役で使われているみかん畑の水洞 しかし、それにしても山の傾斜を利用し、湧き水を田に引き込むだけならまだしも、棚田の下に石を積んでトンネル状の水路を作るとは。久賀の石工、恐るべし。 実は、久賀は瀬戸内海の石積み技術発祥の地とも言われています。この水洞に見られるように、非常に高度な技術を擁して、島外でも活躍し、久賀石工の名は古くから知られていました。 琵琶湖疎水の縦坑工事や、萩と小郡を結ぶ陰陽連絡道の悴ケ坂峠を貫通する隧道工事などで、福田亀吉を始めとする久賀の石組職が腕をふるったという記録も残っています。また、各地の神社の石鳥居も久賀の石工たちが関係しました。有名なところでは、厳島神社の参道入口にある大