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民謡のある風景 - ジャガイモを救荒食糧に育てた里(山梨県 縁故節)

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山梨県北部に源流をもつ塩川は、八ケ岳から流れる須玉川と合流して、韮崎市の南部で釜無川に注ぎます。韮崎は、昔の富士川水運の終点に当たり、甲州、佐久、駿信の街道がここから分かれていきます。諸国の旅人が行き交い、農産物の集散地としても賑わった宿場町でした。「馬ぐそ宿」と言われるほど、馬宿も多かったといいます。今も、南アルプス登山者はここの駅で降りて、山麓までバスで向かいます。『縁故節』は、この韮崎を中心に広く唄われた盆踊唄で、『えぐえぐ節』が元唄だと言われています。  ♪さあさ えぐえぐ さあさ えぐえぐ   じゃがたらいもは えぐいね   中で青いのは 中で青いのは   なおえぐい ションガイネー 元唄の『えぐえぐ節』は、ジャガイモを収穫する時の労作唄であったと言われます。ジャガイモが甲州の地に入ったのは、江戸中期の頃とされています。時の代官・中井清太夫が、九州から種いもを取り寄せ、救荒食糧として、精進湖のほとりで試作させたのが始まりだといいます。そのためこの地方では、ジャガイモを「清太夫いも」「せいだいも」と呼びならわしていました。『えぐえぐ節』は、その頃から唄われ出したといいますから、2世紀を超える歴史を持つことになります。 1928(昭和3)年、この労作唄に着目した韮崎の歯科医・小屋忠子が、芸妓に三味の手を付けさせて、尺八、琴などに合わせ、座敷唄風に編曲、それがNHKから『縁故節』の名で全国に紹介されました。 哀調をおびた曲調は、『島原の子守唄』に似ていますが、元唄は更に素朴な味わいがあったといいます。元唄を唄い出した人々にとっては、何不自由ない飽食の時代など、想像もつかなかったに違いありません。その心を知っているのは、はるかな連山だけかもしれません。

世界遺産構成資産となっている富士山麓の忍野八海

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富士山のふもと、忍野八海で有名な忍野村は、1875(明治8)年、忍草(しぼくさ)村と内野村が合併、忍草の「忍」と、内野の「野」を合わせて村名としました。「忍草」というのは、多年生のシダ、シノブのことです。一昨日の記事( 忍岡と呼ばれた上野公園と不忍池は台地と低地の境目 )にも書きましたが、シノブは日本全国に分布しており、山地の岩の上や木の幹などに付くシダで、忍野村の辺りにも多かったのかもしれません。 この忍野、富士山のふもとと言っても、標高940mほどの所にあり、隣の埼玉や東京から見ると、十分に高地です。そのため、高原野菜なども作られ、首都圏へ向けて出荷されています。また、天然記念物になっているハリモミの純林もあります。樹齢約250年、富士山から噴出した溶岩流の上だけ孤立して発達しており、学術上、極めて貴重な林だと言われています。 忍野村にある、もう一つの天然記念物「忍野八海」は、富士山の伏流水を水源とする湧水池です。世界遺産富士山としての構成資産の一部となっています。 出口池 現在、富士山北麓には、富士五湖と呼ばれる湖が並んでいますが、古くは「宇津湖」と「せの海」と呼ばれる二つの巨大な湖でした。それが、現在のようになったのは、富士山の噴火活動によるものです。まず800(延暦19)年の延暦噴火による溶岩流が、宇津湖を山中湖と忍野湖に分け、大田川を埋めて河口湖を作り、せの海の一部を分断して本栖湖を作りました。更に864(貞観6)年の貞観噴火による溶岩流で、せの海の大部分が埋められ、西湖と精進湖に分けられました。 お釜池 このままだと、富士六湖になっちゃいますが、忍野湖はその後、桂川の侵食によって水が干し上がり、忍野盆地となります。そして、これによって湖底にあった湧水口が地表に現れ、忍野八海と呼ばれる湧水池が残ったわけです。 銚子池 ちなみに、本栖湖と精進湖、西湖の湖面は標高900m前後、河口湖は830m、山中湖は約980mとなっています。これは、本栖湖と精進湖、西湖は、せの海から分かれた兄弟湖、河口湖は大田川から、山中湖は宇津湖からという、それぞれの湖の生い立ちによるものです。忍野村がある所は、もともと湖底だったわけで、干上がる前の忍野湖も、山中湖同様、980m前後の標高があったと推測されます。 湧池 なお、本栖湖と精進湖、西湖は、湖底でつながっていると言われます。富

富士山麓、素朴な山里の雰囲気を残す手織り紬の里 山梨県富士河口湖町

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山梨県南部、富士山の北麓に半円を描くような形で、山中、河口、西、精進、本栖のいわゆる富士五湖が連なります。富士山を望む湖として、日本で最も有名な湖沼群です。河口湖はその中心で、県内観光のメッカとなっています。 その河口湖北岸に大石という集落があります。湖畔の大石公園からは、湖越しに雄大な富士山が望め、ゆったりとした気分にひたれます。夏には公園にラベンダーが咲き誇り、富士と湖、花の取り合わせがとても美しい場所です。 その大石公園から、山側に向かって少し入った辺りに、大石紬伝統工芸館があります。私が取材した頃は、周辺にまだ茅葺きの家が残り、素朴な山里の雰囲気を残していました。今はさすがに、ほとんどの家が、トタンなどで屋根を覆わってしまったようですが、古くからの手織り紬の里にふさわしいたたずまいが感じられました。 そして、そんなたたずまい通り、大石では今も、蚕を育て、繭を採り、糸を紡いで染めています。昔ながらの農家の機織りの姿を、最もよく伝えているのが、この大石紬だと言われます。 大石紬には玉繭が使われます。玉繭というのは、一つの繭に二つのさなぎが入っているもので、昔は屑繭と呼ばれました。太く、節の多い糸が出来ます。節があるからねばって切れやすく、手間がかかって織るのに苦労するのだといいます。大石の人々は、そんな糸を使い、根気よく丁寧に紬を織ってきました。大石紬が持つ温もりのある風合いは、こうして生まれるのです。 大石紬のもう一つの特徴として、独特な光沢があげられます。糸は富士山麓に自生する草木で染められます。染めは水に大きく左右されます。大石の水は、富士山の雪解け水です。その水が、美しい色と艶を生みます。大石紬にとって、まさに恵みの水です。 取材した時は、12人の織り手がいました。伝統工芸館が出来てからは、自宅にあった機をここに集め、家事や農作業の合間にやって来ては、ここで機織りをしていました。伝統工芸館は、大石紬を織って50年、60年という織り手の手仕事に、直にふれることが出来る貴重な場でもあります。※現在、残っている織り手の平均年齢は80代後半で、大石紬は廃絶の危機にあるようです。

名水とオオムラサキの里・長坂で味わうこだわりのそば

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以前の記事( 日本ワインの革命児・ウスケボーイズを探して )にも書きましたが、北杜(ほくと)市は山梨県最北端、八ケ岳や甲斐駒ケ岳といった山々に囲まれ、ミネラルウォーター生産量と日照時間がいずれも日本一という豊かな自然に恵まれた町です。北杜の「杜」は、バラ科の落葉小高木「やまなし」のことで、山梨県の北部という意味で市名となりました。 面積は山梨県で最も広い602.5km2で、私が住んでいる越谷市(60.2km2)のちょうど10倍もの広さがあります。というのも、平成の大合併で8町村が合併して生まれた市だからでです。ただ、それだけ多くの自治体が合併したため、どこが中心なのか、イマイチ分からないというのが、正直なところです。市政の中心は旧須玉町ですが、位置的に市の中心にあり、交通の要衝となっているのは旧長坂町、避暑地として有名な清里高原は旧高根町、八ケ岳高原の表玄関で、小海線の起点となる旧小淵沢町など、いろいろな顔を持っています。 前の記事は、このうち主に須玉の津金地区についてのものでした。今回は、その時にも少し触れた三分一湧水(さんぶいちゆうすい)のある長坂について書きます。 長坂は、戦国武将・長坂氏の領地で、長坂郷と呼ばれていました。中央本線長坂駅から2kmほど南の場所が、長坂氏の居館だった長坂氏屋敷跡とされています。館が築かれた年代は定かではありませんが、長坂氏が、長坂郷に居住し始めたのは、永正元(1504)年以降と言われています。その頃の甲斐は、武田信玄の父・信虎(当時は信直)が、兄・信昌の死に伴い家督を継ぎ、武田宗家の統一を経て、甲斐統一に向けて動き始めた時代でした。長坂氏は、その武田氏の家臣で、中でも名前が知られる長坂光堅(釣閑斎)は、信玄・勝頼父子に仕え、特に勝頼には、補佐役として重用されました。1582(天正10)年の織田信長による武田攻めで、勝頼と共に自刃したとも、甲府で信長により処刑されたとも言われ、その最期についてはよく分かっていません。 武田氏滅亡後、甲斐国は織田・豊臣・徳川と支配が移り、江戸時代には甲州街道が整備され、江戸防衛の拠点として甲府藩が成立し、徳川一族や譜代大名が配置されました。その後、江戸中期に幕府直轄地となり、明治維新を迎えます。 更に明治、大正には、輸出の原動力・生糸の一大拠点甲信地方と横浜港を結ぶため、横浜線や中央線など鉄道が次々

銘菓郷愁 - ブドウを包む「月の雫」 山梨県甲府

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「勝沼や馬子は葡萄を喰いながら」の句で知られるように、山梨県の勝沼の辺りは、古くからのブドウの産地でした。ブドウは、もともとヤマブドウやオオエビカヅラなどの野生種が知られていました。栽培作物になったのは、中国から渡来した系統のもので、1300年ほど昔、僧行基が広めたと言われています。 甲州ブドウは、1186(文治2)年に、今の勝沼町の雨宮勘解由という人が、域ノ平で、1株の変種を見つけ、それを持ち帰って栽培したのが、そもそもの始まりとされています。その後、名医で、後に貼り薬の商品名にもなった永田徳本が、この地を訪れ、棚架け法などの栽培法を指導したと言われます。 徳本の指導の後、この地の栽培は急速に伸びたといい、1667(寛文7)年には、徳本の石碑も建てられたそうです。当時、この地は、徳川綱重が治めていましたが、その後を継いだ綱豊は、1704(宝永元)年に5代将軍綱吉の養子になります。そのため、甲斐・甲府藩は、綱吉の側用人だった柳沢吉保が治めることになり、家臣団と甲府に移り住みました。 1709(宝永6)年、綱吉が亡くなると、吉保も現役を退き、後を子の吉里が継ぎます。彼の治世中の1710年代の調べによると、甲州ブドウの産地はわずか14町7反(約4万4000坪)に過ぎませんでしたが、そのブドウが、思いもよらぬ珍しい菓子を生み出すことになります。 1723(享保8)年秋、甲府の老舗・牡丹亭の主人が、菓子を作ろうと、ブドウ棚の下で砂糖を煮詰めていた時のことです。1粒のブドウが、ぽろりと砂糖鍋の中にこぼれ落ちました。見ると、ブドウの粒の周りに砂糖が白く固まり、清らかな色の砂糖菓子状になっているではありませんか。主人が味わってみると、まことに高雅な珍味でした。 早速、藩主の吉里に献じられました。吉里は、この初めての菓子の味をめでて、「月の雫」と命名したということです。吉里は、翌年、大和郡山に転封となりますから、この名は、吉里の置き土産ともなりました。 「月の雫」は砂糖を熱して蜜状にし、温度を整えながら、ブドウを包んで仕上げます。包んでなおブドウのみずみずしさを保つのが伝統の技です。口に含むと甘さが広がり、一気にかじるとブドウが割れ、蜜と酸味が口中にあふれ、衣の砂糖と絶妙のハーモニーを奏でます。甘味の歴史をまとめて味わえる銘菓です。

取材のために登った日本一の富士山

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かつて一度だけ、富士登山をしたことがあります。ちょうど30歳の時でした。富士山に登ることになったのは、還暦を記念して富士山山頂からハンググライダーで飛ぶ方を取材するためでした。 還暦と言えば60歳。当時はちょうど私の倍に当たる年齢です。正直、どんだけ酔狂な・・・と思わないでもありませんでしたが、私、かなりのミーハーなので、仕事抜きで、富士山滑空に興味津々でした。 その方、河辺忠重さんが、ハンググライダーを始めたのは、53歳の時でした。始めた年齢も年齢ですが、そのきっかけがまた変わっていました。 富士山飛行からさかのぼること7年前、河辺さんはちょっとしたはずみで道でころび、肩を痛めてとある大学病院に入院しました。ところが、どこでどう間違ったのか、内科に放り込まれ、いろいろな検査を受けるはめに。それまで入院はおろか、病気と名のつくものとは無縁だった河辺さんですが、ここでやれ血圧が高い、尿酸値が高い、肝臓が悪いと、次々に悪いところが発見され、医者からは、あと半年気づかずにいたら命がもたなかったかもしれない、と言われてしまいます。文字通り、けがの巧妙です。 で、驚いた河辺さんが、まず考えたのは、自殺的に死ねる方法だったそうです。そして見つけたのが、ハンググライダー。戦時中から飛行機に乗り、空で育った河辺さんの目には、操縦桿も何もないハンググライダーは、とても頼りなげに映ったようです。 「こんな危ないものならすぐ死ねるだろうと思った」。富士山頂でお会いしした時、河辺さんは、笑ってそう話していました。 ところがやってみると、これが何にもましてすばらしいものであることに気づきました。次第しだいに熱中し、仕事を退いてからは、まさにハンググライダーひと筋の人生へばく進。 そしてあの事件から7年、健康と共に青春をも取り戻した河辺さんは、ついに富士山から飛行するまでになったのです。事実は小説より奇なり。これ本当の話です。 なお、富士山からの飛行の模様はNHK福岡局が密着取材、「お達者くらぷ」で全国放映されましたが、この時のNHKと私の取材格差は、かなりのもの。当時、やれロケ弁が二段重ねだとか、霧が出なけりゃスモーク焚いちゃうとか、フリーのカメラマンや編集者からはやっかみの対象となっていたNHKだけあって、それはもう大名取材だったわけです。 貧乏雑誌の編集者である私は、当然のことながら新宿

甲府盆地をピンクに染める「桃源郷」の春

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甲府盆地の東端、御坂山地の扇状台地に広がる笛吹市の一宮町と御坂町。春4月、この扇状台地が一面ピンクに染まります。50万本もの桃の木が彩る花模様は、まさに桃源郷の名にふさわしい風景です。 甲府盆地は果樹栽培が盛んです。中でも桃は日本一を誇ります。一宮、御坂などの峡東地方がその中心です。桃の栽培が始まったのは明治中期ですが、戦後、これが急速に伸び、日本一の桃の里と言われるまでになりました。 現在、桃の生産は山梨、福島両県で全国の5割を超えます。どちらも、周囲を高い山に囲まれた盆地の中に桃畑が広がっています。 盆地の冬は寒さが厳しく、逆に夏はひどく暑くなります。冬が寒いと害虫の被害が少なく、夏が暑いと果実が大きく育ち、甘みを増していきます。甲府盆地、福島盆地とも、桃に限らずブドウ、ナシなどの果樹栽培も盛んです。人間には堪える盆地の気候が、果樹栽培には適しているためです。 桃の花は例年、4月中旬が最盛期となります。しかし、一宮や御坂の桃畑は、盆地の底から標高700mの高台まで広がっています。それが平地から山地に向かって順に咲いていくので、花期は約1カ月と、とても長くなっています。 この間、菜の花の黄色やスモモの白い花が彩りを添え、桜が競うように花開きます。背景には残雪をいただいた南アルプスがそびえ、花景色を一層ひきたてます。 また、桃の花は日がたつにつれ色が濃くなっていきます。そのため、緩やかな扇状台地一帯が、ピンクのグラデーションとなります。この風景を楽しむには、俯瞰できる場所がベスト。 一宮町なら狐新居の高台、御坂なら町の南にある花鳥山がお勧めです。また、中央自動車道の釈迦堂パーキングエリア(PA)もいい感じです。下りのPAから釈迦堂遺跡博物館への専用道路があり、これを上って行くと、ピンクの花の海の向こうに、青い南アルプスが望めます。 甲府盆地では、これからが桃の収穫の最盛期。春に人々の目を堪能させてくれた桃が、どんな味で我々の前に現れるか楽しみです。 ちなみに、笛吹市は2004年、石和町、御坂町、一宮町、八代町、春日居町、境川村が合併して誕生(その後06年に芦川村を編入)。翌05年には「桃・ぶどう日本一の郷」を、更に13年には「日本一桃源郷」を宣言しています。 桃は、市内各地で生産されていますが、やはり一宮と御坂が盛んで、フルーツ狩りが出来る観光農園もたくさんあります

コバルトブルーに染まる神秘的な水の色が魅力の西沢渓谷

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今日は、 前回のブログ で紹介した塩山を起点とする西沢渓谷について書いてみます。 西沢渓谷は奥秩父国師ケ岳を源とし、甲武信岳から流れる東沢と共に、笛吹川の源流をなしています。国師ケ岳の雫を集めて流れる水が、長い年月をかけ巨大な一枚の花崗岩を浸食して形成された渓谷です。白い岩肌に清流が映え、春の新緑、夏の涼味、秋の紅葉、冬の氷雪と、四季折々の渓谷美を探勝出来ます。 渓谷の中は、しっかりとした遊歩道が通じており、距離も片道2時間程度なので、子ども連れにも最適。東京からは車で約2時間、朝少しゆっくり出ても、渓谷の途中で弁当をとり、のんびり歩いて清流と森林浴を満喫して日帰りすることが出来ます。中央本線塩山駅から出るバスの終点・西沢渓谷入口には、東沢山荘の駐車場と三富村の村営駐車場があります。  ◆ 東沢山荘を後にして、1kmほど先のナレイ沢橋を渡ると、分かれ道に出ます。左は帰りに戻ってくる道なので、まずは笛吹川を左手に見ながら歩いていきます。この先の西沢山荘までは車も通れるほどの広い道で、ハイキングらしからぬ行程です。 東沢と西沢の合流点二俣を過ぎ、東沢に架かる吊橋を渡った頃から、ようやくそれらしい雰囲気になってきます。それでも登山靴では照れくさいほど整備された遊歩道が続き、凍結する冬以外は、かなり気軽に探勝出来ます。 吊橋から500mほど歩くと、三重の滝に出ます。滝を見るには、遊歩道からいったん左へ下って往復することになります。この滝以外は全て遊歩道から眺められ、竜神の滝、貞泉の滝、母胎渕など、いくつもの滝や渕が次々と現れ、疲れなど感じるいとまもりません。新緑、紅葉の頃ともなれば、木々の色が水に映え、更に美しさを増します。 西沢渓谷の最大の魅力は、コバルトブルーに染まった神秘的な水の色にあります。コバルト色の水が白い川床を滑るように流れ、美しいコントラストを見せます。もっとも、これは鉱毒を含んでいるためで、飲用には適さないのでご用心。 渓谷のクライマックスは、母胎渕を過ぎ、方丈橋を対岸に渡って少し登った辺りから見え始める七ツ釜五段の滝です。五つの滝が連続して流れ落ち、コバルト色の釜をつくる景観はまさに絶景。日本の滝百選にも、しっかり選ばれています。 七ツ釜五段の滝からは、足場の悪いきつい登りとなります。ふうふう言いながら登りつめると、トロッコの軌道跡に出ます。西沢渓谷はこ

甲州の鎌倉と呼ばれ多くの古社寺を持つ信玄ゆかりの里

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今は「8時ちょうど」どころか「あずさ2号」自体ありませんが、新宿から特急あずさに乗ると、約1時間半で塩山に着きます。改札を抜け駅の北口へ出ると、右手にどっしりとした銅像が座っています。 武田信玄です。そう、甲州市塩山は信玄ゆかりの土地です。 その信玄公像の後ろに、由緒ありげな民家がたたずんでいます。重要文化財旧高野家住宅、通称「甘草(かんぞう)屋敷」です。 高野家は江戸時代、薬草である甘草を栽培し、幕府に納めていました。建物は19世紀初頭の建築とされ、甲州を代表する民家としての姿を今にとどめています。 この甘草屋敷には観光ボランティアも詰めていて、希望者には屋敷内の説明をしてくれます。また、あらかじめ連絡しておけば、その後の塩山観光にも案内役としてお付き合い頂けるそうです。 塩山は「甲州の鎌倉」と呼ばれ、その別名が示す通り古社寺が数多くあります。特に鎌倉末期に、夢窓疎石(国師)が恵林寺、慈雲寺などを開き、この地方の宗教、思想、文化に大きな影響を与えました。 中でも恵林寺は、国師の高徳を慕う求道の徒で寺勢は高まリ、夢窓国師の後も臨済禅の当時の代表的な高僧が、勅命によリ輪番入寺しました。こうして恵林寺は、一段と法灯の輝きを増しながら戦国時代を迎え、1551(弘治元)年、当代随一の傑僧といわれた快川紹喜が、美濃(岐阜県)から入山しました。 翌年、快川はいったん美濃へ帰りましたが、1564(永禄7)年、武田晴信(信玄)のたっての招きに応じて、再び恵林寺に入りました。晴信は寸暇を惜しんで名僧、高僧に接し、それによって得た心機、修養などを内政面に応用していました。 特に禅僧に帰依すること厚く、中でも妙心寺の学僧と深く因縁を結び、妙心寺の岐秀元伯、快川等を重く礼遇しました。晴信は1559(永禄2)年に出家して信玄と号しましたが、剃髪の導師となったのは、岐秀であったといわれます。 快川は妙心寺出世の後、故郷美濃の崇福寺にいましたが、岐阜城主・斎藤義竜を相手にして、一国の城主といっても三界の導師たる自分に比べれば、狭小の主にすぎぬとして、歌一首「三界にはばかるほどの会下笠を、さして蓑(美濃)には執心もなし」と詠んで風刺し、さっさと出ていったといわれます。これは義竜が、僧侶を何かのことで辱しめたことがもとであったようです。信玄は、この剛気の快川に深く帰依し、恵林寺に招請した後、同寺を菩

日本ワインの革命児・ウスケボーイズを探して

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北杜(ほくと)市は山梨県最北端、八ケ岳や甲斐駒ケ岳といった山々に囲まれ、ミネラルウォーター生産量と日照時間がいずれも日本一という豊かな自然に恵まれた町です。水に関して言えば、北杜市には日本名水百選に3カ所が認定されるなど、日本屈指の名水の里ともなっています。 日本名水百選の一つ、 三分一湧水 は、雑木林の中にあり、水温11℃の水が1日約8500トン湧き出ています。戦国時代に、水争いをしていた三つの村に等配分するため、武田信玄が堰を築いたという伝説が残っており、湧出口の分水枡に三角石柱を築き、三方向に流水を分岐させています。 北杜市の面積は山梨県で最も広い602.5km2で、私が住んでいる越谷市(60.2km2)のちょうど10倍もの広さがあります。というのも、平成の大合併で8町村が合併して生まれた市だからで、例えば三分一湧水は旧長坂町、避暑地として有名な清里高原は旧高根町、八ケ岳高原の表玄関で、小海線の起点となる旧小淵沢町など、いろいろな顔を持っています。 三分一湧水 合併した8町村の一つ、旧須玉町は、長野県と接する北側は奥秩父山塊で、秩父多摩甲斐国立公園の一部になっています。この旧須玉町の津金地区に、日本で唯一、明治、大正、昭和の三代にわたる校舎が残る 津金学校 があります。 津金学校は、1872(明治5)年に発布された学制に基づき、73年、下津金村に創設されました。ただ、校舎はなく、東泉院というお寺の本堂を仮校舎としていました。翌74年、下津金村と上津金村が合併して津金村となり、75年になって擬洋風建築の木造校舎が完成しました。 この頃(73~87年)に建てられた擬洋風建築は、当時の県令(現代の県知事)である藤村紫朗の名を取り、藤村式建築と呼ばれています。藤村は、後に土木県令とあだ名されるほど建設好きで知られ、71年に小参事として赴任した大阪では、神戸の居留地のコロニアルスタイルに影響を受けた擬洋風建築の小学校建設を推進。そして73年に山梨県令となって以降、藤村により100軒以上の洋風建築が建てられたと言われています。 おいしい学校・前菜に続くパスタ 津金学校もその一つでした。津金学校は、学校制度の変遷に合わせて、津金学校→津金尋常小学校→津金高等小学校→津金尋常高等小学校→津金国民学校