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民謡のある風景 - 白壁の家に映える港唄(岡山県 下津井節)

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岡山県南の倉敷・児島の一帯は、古くから商工業が発達した所で、大和朝廷の頃には、児島に朝廷直轄の蔵が置かれ、室町時代には、児島半島突端の下津井が、早くも天然の良港として栄えました。 江戸時代には、下津井港は北国回船の寄港地として知られ、参勤交替で九州からやって来る大名も、御座船を下津井へ寄せ、ここから陸路をとりました。金毘羅さまへの道中も、ここが本州側の基点の一つでした。 港が栄えると遊里が生まれます。船頭や漁師がその里でよく唄ったのが、『下津井節』です。  ♪下津井港はよー 入りよて出よてよー   まとも巻きよて まぎりよてヨー   トコハイ トノエー ナノエー ソーレソレ この唄は、元々は瀬戸内の船着場で広く唄われていたらしく、北前船の他の寄港地にも、同系の唄が残っていると言われます。つまりは、船頭衆が唄い広めたもので、『富士川船頭唄』『石見舟唄』なども、この唄の系列に入るといいます。 『下津井節』は、1887(明治20)年頃、大いにはやったそうですが、肝心の港の方は、漁港としては栄えたものの、宇高連絡船の賑わいには勝てず、交通拠点の主役ではなくなってしまいました。ところが1927(昭和2)年、思いもかけぬチャンスがやってきます。大阪毎日が景勝地人気投票を実施したのです。下津井の人々は大いに喧伝に努め、下津井を見事入選させただけではなく、ついでに『下津井節』も売り込んでしまいました。31(昭和6)年には、その唄がNHK岡山局から放送されます。この頃から『下津井節』は、岡山を代表する唄と見られるようになっていきます。 1988(昭和63)年4月、児島 - 坂出ルートを結ぶ瀬戸大橋が完成。下津井は、ますます通過地点の色を濃くしましたが、町には、往時を偲ばせる白壁の家がいまだ残り、唄の古里にふさわしい面影を見せています。

銘菓郷愁 - 風雅伝える逸品「大手まんじゅう」 岡山

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饅頭は、蒸し菓子の中の王様と言われています。饅頭の製法が中国から伝わったのは、南北朝時代の初めにあたる1340年から1345年の頃と言われ、日本に帰化した中国・元の人が、初めて作った、とされています。 一方、鎌倉時代の禅僧・弁円円爾(べんねんえんに)が伝えたと言われているのが、酒饅頭です。弁円円爾は、1235年に中国に渡って、41年に帰国し、博多(福岡)、京都、鎌倉に、今に残る名刹を創建した高僧でした。 いずれにしても、室町時代には、広く饅頭の名が知られていたようで、当時の歌合わせにも、「いかにせむこしきに蒸せるまんじゅうの思いふくれて人の恋しき」というのがあるそうです。 江戸時代、17世紀半ば頃になると、今とほとんど変わらない饅頭が作られていたと言われます。『食膳雑記』(1673年書写)という本にも、「甘酒と水を合わせ、粉を入れ、ゆるゆるにならぬようこねて……」と、作り方が書かれ、よく知られた食べ物だったようです。 「大手まんじゅう」は、岡山の大手饅頭伊部屋の初代にあたる、伊部屋永吉が創製したもので、この店の創業は1837(天保8)年のことでしたから、もう180余年以上も前のことになります。 初代の伊部屋永吉は、もともとは回船問屋を営んでいた人でした。風流な人だったようで、大坂から酒饅頭の製法を持ち帰って、地元で作り始めました。それが、備前岡山藩主の好みにも適い、茶会の席などでも使われました。「大手まんじゅう」の名も、藩主直々の命名だった、と伝えられています。 岡山藩は、藩主・池田光政の大規模新田開発でも知られるように、昔からの米どころでした。「大手まんじゅう」は、その良質の備前米で作られます。 まず、糀から作り始め、もち米などを加え、日数をかけて、じっくりと甘酒を熟成させます。これに小麦粉を混ぜ合わせ、発酵させて、饅頭の生地を作ります。また、北海道・十勝産の良質な小豆を、特製の砂糖で練って餡を作り、それを生地で包んで、香り豊かに蒸して、仕上げます。 甘酒のコクと餡の甘さが調和した独特の味わいは、とてもまろやかで、餡の練り方もまた古式を伝えて、風味があります。口に含むと、うっすらと広がる生地の酸味もまた風雅な銘菓です。

城のある風景 - 名園と一対の黒の名城

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黒く塗り込められた外観から、岡山城は烏城とも呼ばれています。天守閣は、織田信長が築いた安土城の天守を模ったものとも言われてきました。安土城は、5層7重の天守と言われ、本能寺の変の後、焼失しました。もともとの姿は詳しくは知られていません。天守閣の手本とも言われていますから、もし烏城が安土城を模したものなら、その安定した姿に基本型が残されているかもしれません。 岡山城は、戦国武将の宇喜多直家が手に入れて大改修したもので、1573(天正元)年に居城としました。武田信玄が死んだ年です。山陽道も、その時に城下町を通るように改められました。 直家の子が、豊臣政権五大老の一人となった秀家で、1590(天正18)年から8年の歳月をかけて城を改築しました。旭川の流れも、本流から引き込んで、城をめぐる形に変え、川の土を積み上げて本丸を築き、烏城もその時に雄姿を現しました。 ですが、このユニークな天守閣を造った秀家は、関ケ原の合戦で豊臣側となって敗れ、八丈島に流されてしまいます。 代わって、烏城には小早川秀秋が入り、その後、1603(慶長8)年、江戸幕府が開かれた年に、池田氏が岡山藩の城主となりました。姫路城を築いた池田氏の流れです。岡山城の月見櫓は、姫路城のイメージを生かしてつくられたといいます。 更に1632(寛永9)年、池田光政が鳥取から入って、岡山31万5000石を治めることになります。岡山城は、それから明治維新まで池田氏の居城となり、天守閣もそのまま残りましたが、1945(昭和20)年の空襲で焼失、今のものは鉄筋コンクリートで復元したものです。 城から、旭川にかかった月見橋を渡れば、天下の名園・後楽園があります。昔は、天守閣の下から舟で渡ったそうです。城と名園が一対になって、岡山の心の豊かさを伝えているかのようです。

高梁川の舟運で栄えた中国山地の城下町

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高梁川は岡山・鳥取県境の中国山地に源を発し、新見、高梁、総社の3市を経て倉敷市で瀬戸内海に注ぎます。高梁はその中流部、明治維新まで約630年にわたり、城下町として栄え、また高梁川の舟運により山陽と山陰を結ぶ物資の集散地として賑わいました。 高梁川の北岸にそそり立っている臥牛山の山頂近く、標高約430mの辺りに、国の重要文化財・備中松山城があります。現存する山城としては、日本一高い場所に位置しています。臥牛山は、中国山地の端にあたり、古くから大松山と呼ばれていました。 1240(仁治元)年、ここに相模の豪族秋庭氏が砦を築きました。その後、戦国時代には毛利、尼子、織田など乱世の代表的な武将たちが、中国制圧の拠点として居を構えました。現在の城郭は江戸中期、1681(天和元)年に水谷氏によって築かれました。 水谷家は嗣子がなく断絶しましたが、その時、大石内蔵助が、浅野内匠頭の代理として城を受け取りに来ています。それからわずか数年後、かの赤穂事件により内匠頭は切腹、内蔵助は赤穂城の明け渡しに立ち会うことになります。内蔵助の供をして松山城に来た者の中には四十七士に名を連ねた神崎与五郎、武村唯七らがいたといいます。 臥牛山の南麓、現在高梁高校となってる場所を御根小屋といいました。松山城は山城であるため、藩主は山麓に居を構え、そこで政治を執りました。城下町はこの御根小屋を中心に形成され、市街地東部の秋葉山・愛宕山のふもとに、階段状に武家屋敷が、その下の高梁川沿いに町家が造られました。 今も往時の姿は、格子戸の残る商家や武家屋敷など、その家並の中にしのぶことが出来ます。高梁川にかかる方谷橋を渡って、小高い方谷林公園から対岸を見渡すと、商家のたたずまいがはっきりと分かります。また、高梁川に流れ込む紺屋川筋の町家や、町並み保存の風致地区になっている石火矢町の典型的な屋敷町のたたずまいなど、郷愁を呼ぶ家並があちこちに点在します。 また、高梁市成羽町は、備中神楽発祥の地とされています。文化文政の頃、神官で国学者でもあった成羽出身の西林国橋が、『古事記』『日本書紀』の神話をもとに「天の岩戸開き」「大国主命の国ゆずり」「素蓋鳴命の大蛇退治」という演劇的要素の高い神代神楽を創作しました。これが備中地方の秋祭りに欠くことの出来ない民俗芸能として育てられ、現在では、国の重要無形文化財に指定されています

桃太郎伝説が残る吉備国の総鎮守

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以前のブログ( 福山市民のソウルフード、大衆食堂「稲田屋」さんが閉店 )で、私の大好きな漬け物・安芸紫にまつわる話について、「広島県でも、広島を中心とした西部は安芸国、福山を中心とした東部は備後国で、基本別物という噂は本当かも」と書きましたが、この備後国は、もともと吉備国から分割されたものです。 古代において、吉備国は、大和国を始めとした畿内や出雲国と並ぶ勢力を持っていたと言われます。範囲としては、現在の岡山県と広島県東部、それに香川県の島嶼部に兵庫県の西部まで及んでいました。それが、3カ国に分割されたのは、689年のことです。 これは、天武天皇が進めていた律令事業でしたが、686年に天皇が崩御したため、皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と皇太子の草壁皇子が事業を継承。3年後の689年の飛鳥浄御原令の発布をもって、備前国、備中国、備後国に分割されました。 で、備後国は、先述した通り、福山など現在の広島県東部、備中国は岡山県西部、備前国は岡山県東部に香川県島嶼部と兵庫県西部の一部という形になりました。当然、いろいろと影響が出ましたが、その一つが、吉備国の総鎮守であった吉備津神社でした。 吉備津神社は、備前国と備中国の境にある吉備中山(175m)の北西麓にあったことから、備中国の一宮となり、分霊が備前と備後それぞれの一宮になりました。備前は、吉備中山の北東麓に吉備津彦神社を、備後は今の福山市新市に吉備津神社を造営しました。備前と備中を分ける吉備中山は、古来、山そのものがご神体とされていたため、吉備国分割後、備前国も吉備津彦神社を山麓に建てたのでしょうね。 ちなみに、1889(明治22)年の町村制施行に伴い、吉備津神社のある吉備中山の北西麓は賀陽郡真金村に、北東麓は津高郡一宮村になります。その後、真金は1960(昭和35)年に高松町に編入合併して高松町吉備津へ改称、一宮は55年に他の村との合併で一宮町となった後、いずれも71年に岡山市へ編入され、現在はどちらも岡山市北区となっています。 そんなわけで、今では同じ岡山市北区、距離にして2kmも離れていない吉備中山の東西に、吉備津神社と吉備津彦神社があります。もとは同じですから、どちらも大吉備津彦命を主神としています。この大吉備津彦命は、桃太郎のモデルとされ、当時、人々を苦しめ鬼と恐れられていた温羅一族を退治したと伝

西日本豪雨の被災地・真備を訪ねて

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前回のブログで書いた八戸取材を終えた私は、東京駅で東北新幹線から東海道新幹線に乗り換え、そのまま岡山へ入りました。移動時間約7時間、岡山のホテルにチェックインしたのは23時近くで、さすがに疲れました。 翌日は朝から、西日本豪雨で大きな被害を受けた倉敷市真備の取材でした。 2018年7月、広島、岡山、愛媛の3県を始め、西日本各地は未曾有の豪雨災害に見舞われました。気象庁は7月6日夕方に長崎、福岡、佐賀の3県に、続いて同日深夜までに広島、岡山、鳥取、京都、兵庫、翌7日には岐阜、更に8日に高知、愛媛と、実に11府県に大雨特別警報を発表。「これまでに経験したことのないような大雨」「重大な危険が差し迫った異常事態」「重大な災害が既に発生していてもおかしくない状態」と、繰り返し警戒を呼び掛けました。 しかも西日本豪雨では、大雨による増水や浸水ばかりではなく、山の斜面崩壊による土石流や、河川の堤防決壊による洪水、貯水の限界に達したダムからの放流量の増加による下流域の氾濫など、あらゆるタイプの災害が広範囲で多発。消防庁の集計で死者263人、行方不明者8人という大惨事となり、平成最悪の水害と言われました。 真備町は7日朝までに小田川と支流の末政川の堤防が決壊し広範囲で冠水。国土地理院の推定によると、浸水の深さは広い範囲において3~4m、最大5mに達したといいます。浸水面積は真備町の約4分の1とされますが、中心街の有井地区や官公庁が集まる箭田(やた)地区など、住宅や事業所が集中する地域が水に浸かっており、世帯数で見ると半数以上の4600戸が被災。市町村単位では最も多い51人の方が亡くなられました。 真備には、豪雨災害から1週間の7月14日に一度訪問しており、今回が2回目でした。前回は、岡山から車で入りましたが、途中、復旧・復興関係の車で大渋滞を起こし、それを横目に高梁川に架かる橋を歩いて渡るボランティアを見ていたので、このルートを使ってみることにしました。まず岡山から清音駅へ向かい、ここで自転車を借りることにしました。 事前に、駅前の自転車屋さんに予約を入れていたのですが、清音駅の改札を出ると、たくさんの自転車が置いてあり、無料で貸し出しをしていました。ただ、私は予約をしていた手前、とりあえず自転車屋さんへ向かいました。 ところが、その自転車屋さんのおばあさんがまたいい方で、駅前に無料

静かな山間にたたずむ赤い町並み

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トラックが、人気のない静かな山間の道を走っている。いくつものカーブを曲がり、やがて集落へ入って行く。赤い瓦で統一された、非常に美しい家並が続く……。  ◆ もうずいぶん前のことですが、その家並をテレビのコマーシャルで見ました。そして、何とか場所を突き止めようと図書館に通い、資料を探しました。ヒントは赤い瓦です。以前、山陰本線の車窓から、似たような瓦を持つきれいな町並みを見たことがありました。 その瓦は石州瓦といって、石見地方特有のものでした。石州瓦は、飛鳥時代の石見国分寺の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城と城下町建設のために造られたのが、基盤となりました。 江戸中期には、雲州地方の来待石(きまちいし)からとれる釉薬を使うことで、独特の赤瓦として注目を浴びました。主な産地が、島根県の江津市辺りだということも分かりました。以前に山陰本線の車窓から見たのが、この江津でした。が、江津は山陰海岸沿いにあります。あのCMは明らかに山の中でした。そこで、島根県の山側の町を調べてみましたが、該当する場所は見つかりません。 場所の特定が出来たのはその後、岡山県である企画の取材地を探している時でした。高梁に、備中松山城という、きれいな山城があります。ここを取材候補として、周辺を調べているうち、偶然、赤い家並が隣の成羽町 吹屋 (現在は高梁市成羽町吹屋)にあることを知ったのです。 旧成羽町は岡山県中西部、吉備高原の西北端にあリ、東西に流れる成羽川に沿って開けた山里の町です。成羽川は東へ8kmほど流れて高梁川に合流、そこから南へ下り、玉島で瀬戸内海に注ぎます。江戸期には高梁川、成羽川を高瀬舟が通い、その舟運により栄えました。川は成羽を過ぎると深い峡谷となり、ここで小高瀬に積み代えるか、荷を降ろして陸路を行くしかなかったため、成羽はその中継港としてかなり賑わったようです。 成羽からの陸路は吹屋往来と呼ばれ、成羽町吹屋を通り、岡山県北西部、広島県北東部を成羽へつなぐ重要な産業道路でした。中国山地は鉱物資源が豊富で、鉄や銅がこの往来を通って成羽へ運ばれ、そこから高瀬舟で玉島港、更に廻船で大坂方面へと輸送されていきました。また、米や塩などの生活必需品が、その逆のルートで瀬戸内から山間部へ送られていたのです。 こ