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民謡のある風景 - 北方風土の年輪刻んだ名歌(岩手県 南部牛追唄)

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北は厳寒の最中、雪におおわれる季節。盛岡辺りでは、1月や2月の平均気温が氷点下に下がります。寒いのは人間だけではありません。南部駒や牛たちもこの寒さに耐えます。 日本で飼われている牛の数は、およそ400万頭ばかり。北海道が一番多く、鹿児島、宮崎、岩手の順でこれに続きます。 今、牛も乳用と肉用のために飼われていますが、昔は重要な交通手段でした。特に岩手を中心とした南部地方は、山坂が多いため、スピードこそのろいものの、力がある牛の方が重宝がられ、荷を運ぶ主役でした。『南部牛追唄』は、牛に荷をつけ道中する人々の間で唄われたといいます。  ♪田舎なれども サアーハエー   南部の国はよ  (ハーラヨー)   西も東も サアーハエー   金の山 コーラ サンサエー   (ハーラヨー パパパパー) 囃し言葉の「パパパパー」は、牛に対する掛け声です。時には一人で5、6頭の牛に荷をつけ、90cmほどの狭い山道も通ったから、牛方も声を掛けて、慎重に歩を進めました。離し言葉はその名残りで、この唄が舞台などで唄われ出した頃は、青竹で拍子をとり、それで床を叩きながら唄ったといいます。もちろん、尺八などの伴奏もありませんでしたが、節回しは今よりも歯切れがよくて、道中唄の雰囲気がより強かったといいます。 もともと、牛追唄は放牧唄なのですが、ここで言われている牛追唄は、馬方節に対する牛方節で、二つの名称が混用されるところから『南部牛追唄』となったものです。お隣の青森では、似た節回しの唄が『南部牛方節』と呼ばれています。同じ南部でも、九戸牛追唄と沢内牛追唄があって、よく耳にするのは沢内牛追唄の方ですが、どちらも風土の年輪を刻み込んだ名歌と言えるでしょう。

全国的にも珍しい温泉付き駅舎・ほっとゆだ駅

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横手のかまくらを取材した後、JR北上線で西和賀町を訪問した話を以前の記事( 岩手県一の豪雪地帯西和賀町の冬 )に書きました。その際、下車したのが、「ほっとゆだ」駅でした。  ◆ ほっとゆだ駅は、全国でも例を見ない温泉付きの駅舎です。ただ「温泉付き」とはいえ、外に出て駅舎を眺めると、どう考えても、併設の温泉の方がメインに見えます。湯田温泉峡のシンボルとしての存在感は確実にあるようです。 湯田温泉峡には、湯本温泉、湯川温泉、大沓温泉、巣郷温泉があり、20軒ほどの宿が営業しています。この他、駅の温泉「ほっとゆだ」を含め、日帰り温泉が10箇所あります。 ちなみに駅舎内の「ほっとゆだ」は、源泉かけ流しで、午前7時から午後9時の営業。大浴場には信号機が設置してあり、青・黄・赤の色で列車が近づいたことを知らせてくれます。というわけで、私も帰りに入ってみることにし、まずは目的地の錦秋湖へ向かいました。  ◆ ほっとゆだ駅については、こんな記述でしたが、駅は元々1922(大正11)年に、横手を起点とする国鉄西横黒線(にしおうこくせん)の終点・陸中川尻駅として開業しました。西横黒線はその後、24(大正13)年に陸中川尻まで延伸した東横黒線に編入され、横黒線に線名を変更。岩手県の黒沢尻駅から秋田県の横手駅を結ぶ路線として開業しますが、54(昭和29)年に黒沢尻町が周辺の6村と合併して北上市になったのを機に、黒沢尻駅を北上駅に改名し、66(昭和41)年には線名も北上線に変更されました。 国鉄民営化後、陸中川尻駅は、旧湯田町が費用の3分の2を負担して、木造2階建ての新駅舎を建てました。また、湯田温泉峡を持つ町のPRと活性化も兼ねて温泉を掘り、89(平成元)年4月1日、温泉付き駅舎のほっとゆだ駅として運用を開始しました。 温泉施設ほっとゆだの入浴料は大人440円、子ども260円で、1600円で利用出来る貸切風呂もあります。私は、錦秋湖の雪景色を撮影した後、列車の待ち時間を利用して「ほっとゆだ」で冷えた身体を温めましたが、中にはわざわざ途中下車をして温泉に入る好き者もいるようです。 まあ確かに、鉄道好き、温泉好き、どちらにとっても、行ってみたいスポットではあるでしょうね。それに私のような、鉄道、温泉にこだわりのない単なるミーハーも、近くに行ったら、寄ってみたくなること請け合いです。 ちなみに、ほ

大船渡線・気仙沼線の起点・一ノ関駅

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東日本大震災の取材で、よく利用した駅の一つが、一ノ関駅でした。東北新幹線の復旧後、被災地へ入る場合は内陸部の新幹線駅でレンタカーを借りることが多くなりました。福島県の相馬市や南相馬市、また飯舘村の場合は福島駅、宮城県山元町や亘理町は白石蔵王駅、南三陸町へはくりこま高原駅、岩手県陸前高田市は一ノ関駅、大船渡市は水沢江刺駅といった案配です。 中でも一ノ関駅は、追跡取材をさせてもらった陸前高田と南三陸を同時に回る際や、気仙沼を取材する際には拠点となっていたので、駅自体はもちろん駅に近いホテルもよく利用させてもらいました( 地元の方お勧めの居酒屋こまつと喜の川 - 一関 )。 ある時、一ノ関駅で降り、いつものように駅レンタカーを借りようと改札へ向かっていると、「一関・平泉 もち街道」という顔出しを発見。ふむふむと見ているところに、新幹線下り方面のワゴンサービスのお姉さん二人が通りかかりました。 で、ちょっとモデルになってもらえないか声を掛けたところ、即答でOKしてくれ、頼んだこっちがびっくりするぐらいノリノリで撮影に応じてくれました。撮る側もモデル側もいい感じで撮影を続けているうち、下りの新幹線が到着するとのアナウンスがあり、お姉さんたち、大慌てでホームに上がって行きました。。。 ところで、「一関・平泉 もち街道」ですが、一関市や平泉町など旧伊達藩北部は、もち料理が豊富なんだそうです。年中行事や慶弔のもてなしなど、人が集うともち料理が振る舞われてきました。正式なもてなし料理の「もち本膳」は、雑煮と小豆、くるみ、なます(大根おろし)のもちに、漬け物をお膳に乗せて供されます。味付けは他にも多種多彩で、ゴマやクルミ、ずんだ、しょうが、納豆など300種類を超えるとも言われます。 以前、ライターの砂山さんとカメラマンの田中さんが、一関を取材した際にも、この辺りのもち文化を取り上げていました。参考に、その部分を抜粋してみます。  ◆ 一関の人々は、老いも若きも、とにかく餅をよく食べます。正月はもとより、桃の節句やお彼岸に七夕、冠婚葬祭にも必ずと言っていいほど餅が出ます。ルーツは江戸時代にさかのぼります。有数の米どころだったことに加え、伊達藩由来の礼儀作法が結びつき独特の「もち食儀礼」が生まれ、庶民へと広がりました。 種類も豊富で、あんこやずんだ、ゴマといったポピュラーなもの以外にも、エ

三陸鉄道と大船渡線の結節点・盛駅

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昨日の記事で書いたSL銀河が運行を開始した2014年4月12日の前週4月5日、6日には、NHKの朝ドラ『あまちゃん』の舞台となり、全国的に注目された三陸鉄道が、3年ぶりに全線で運行を再開しました。今はJRから山田線が移管され、久慈から盛までがつながり三陸鉄道リアス線となっていますが、当時はまだ久慈 - 宮古間の北リアス線と、釜石 - 盛間の南リアス線に分かれていました。ちなみに盛以南は大船渡線、久慈以北は八戸線につながり、岩手県沿岸部を縦貫する大事な足となっています。 東日本大震災では、南北リアス線107.6km(現在は全線163km)のうち約320カ所で津波被害を受けましたが、「三鉄は地元の足」だと全社一丸となって復旧に取り組み、震災の5日後には、比較的被害の少なかった北リアス線の陸中野田 - 久慈間で運行を再開。その後「三鉄の希望作戦」と名付けたがれきの撤去作業を進めた自衛隊、修復されたホームや駅舎を掃除してくれた地域住民、全国から駆け付けたボランティアなど、多くの人の力を借り、徐々に復旧区間を拡大させてきました。そして4月5日に南リアス線、6日に北リアス線がつながり、ついに全路線で復活を果たしたのです。 SL銀河運行開始の日は、そんな時期でもあったので、私もまだ乗っていなかった南リアス線に乗車してみました。この時、一緒に乗った乗客の一人は、大阪から休暇を取って三陸鉄道に乗りに来たという鉄道マニアで、前日は北リアス線に乗ってきたと話し、北リアス線はトンネルばかりで風景があまり見えなかったが、南リアス線はどうでしょう、と聞かれました。しかし、私も初めてなので、分かるはずもなく・・・。 しかも私の場合、取材の合間だったので、乗車したのは釜石から唐丹までの3駅だけでした。で、ここまでが釜石市で、次の吉浜駅からは大船渡市に入ります。南リアス線も比較的トンネルが多い路線らしいのですが、吉浜(吉浜漁港)、三陸(越喜来漁港・泊漁港)、甫嶺(鬼沢漁港)、恋し浜(小石浜漁港)、綾里(野々前漁港・綾里漁港・石浜漁港)と、駅周辺に漁港があるように、三陸の海もばっちり眺められます。この後、三陸鉄道は陸前赤崎を経て、終点の盛駅へと向かいます。 盛駅は、大船渡市の行政・司法の中心・盛町にあり、JR大船渡線の終着駅でもあります。三陸鉄道とは乗り入れしていませんが、ここで大船渡線に乗り換え、陸

三鉄全線復旧とSL銀河の運行で盛り上がる鉄の町・釜石

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2014年4月12日、力強い汽笛と共にJR釜石線に蒸気機関車が帰ってきました。東日本大震災からの復興に寄与しようと、JR東日本が42年ぶりに復活させたものでした。釜石線の前身・岩手軽便鉄道が、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のモデルと言われていることから、SL銀河の名で土日を中心に年間約80本、花巻 - 釜石間を運行することになったのです。 運行初日は関係者や鉄道ファン約300人に見送られ、午前10時37分に花巻駅を出発。途中、遠野駅で給水や石炭補給をして、釜石駅には定刻の午後3時4分に到着しました。釜石ではSLを一目見ようと、ホームや線路沿いに多くの人が詰め掛け、歓迎ムード一色。更には駅前でも岩手出身の民謡歌手やシンガーソングライター、ご当地アイドルなどのライブが行われ、終日盛り上がりました。 SL銀河は、72年まで主に盛岡 - 釜石を結ぶ山田線で活躍していた1940年製のC58-239を復元したものでした。復元前は盛岡市の交通公園に展示されていましたが、市民やSL保存会、鉄道マンらが定期的に清掃するなど良好な状態で保存されていたため、復元が実現しました。 席数は176席で、全席指定。1カ月前から指定券(大人820円、こども410円)が販売されることになり、JR東日本に聞いたところでは、発売と同時に完売しているとのことで、運行前から早くも人気となっていました。 今年の運行は4月9日から始まり、基本的には土曜日が花巻(10:36)から釜石(15:10)、日曜日が釜石(9:57)から花巻(15:19)となっています。この他、ゴールデンウィークには4月29日(金)と30日(土)、また祝日の5月3日に往路、5日に復路、お盆の時期には8月11日(木)12日(金)、14(日)15(月)なども予定されており、運行日についてはSL銀河の サイト を確認してください。 なお昨年11月、JR東日本から、SL銀河は客車の老朽化により2023年春をもって運行を終了する旨の発表がありました。今年は初冬までの運行で、2023年は春のみの運行になるようですが、詳しい日程は分かっておらず、決まり次第発表するとのことです。 私がリタイアしたら、SL大好き鉄子の義母を伴い、SL銀河に乗って釜石へ行き、大槌や山田を始め三陸の沿岸部を案内したかったのですが、それを実現する前に義母が亡くなってしまいました。せめ

東日本大震災被災地取材の拠点となった釜石駅

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東日本大震災後、最初に入った被災地は釜石でした( 東日本大震災後、最初に訪問した被災地・釜石 )。その後1カ月ほどの間に、4回ほど釜石へ行きましたが、東北新幹線はまだ運転を再開していなかったので、鉄路の利用は少し後になりました。 しかし、2011年4月29日に東北新幹線が全通してからは、新花巻で釜石線に乗り換え、釜石駅でレンタカーを借り、大槌や山田、宮古などを回るようになりました。そんなわけで釜石線の利用が増え、往路は新花巻を昼過ぎに出る「はまゆり3号」、復路は釜石を14時半頃出る「はまゆり6号」を使う頻度が多くなりました。 釜石駅はもともと1939(昭和14)年に山田線の駅として開業しました。山田線は1923(大正12)年に盛岡 - 上米内間が開業したのを皮切りに、区間を延伸。路線名の由来で、1892年の鉄道敷設法で規定されていた山田町までは、1935(昭和10)年に完成。しかし、その後も延伸を続け、39年に大槌 - 釜石間が開業して、盛岡から釜石までが全通しました。また44(昭和19)年には現在の釜石線が開業、更に84(昭和59)年に三陸鉄道南リアス線が開業し、釜石には山田線、釜石線、三陸鉄道南リアス線が乗り入れることになりました。 東日本大震災では釜石市も大きな被害が出ましたが、釜石駅は倒壊や流失などは免れ、震災から26日目の4月6日には全線で運行を再開しました。ただ、先に書いたように東北新幹線の復旧はもう少し後のことなので、その当時は、羽田から臨時の直行便が飛んでいた、いわて花巻空港まで航空機を使い、そこからバスで7分の花巻空港駅へ移動して釜石線に乗っていました。 というわけで、釜石は被災地取材の拠点の一つとなり、取材が終わってレンタカーを返した後など、よく駅周辺で時間をつぶすことがありました。そんな時、よく入っていたのが、三陸鉄道の駅舎を利用した「さんてつジオラマカフェ」でした。 カフェは三陸鉄道釜石駅の駅舎をそのまま利用、店内には三陸鉄道沿線の主要な駅や景色を再現したジオラマが設置されていました。カフェの食券は、乗車券の券売機で購入。メニューは、めかぶ丼、いかカレー、たこライスがあって、この3種を盛り合わせた「さんてつセット」が900円でした。最初に入った時、私は「さんてつセット」にするつもりでしたが、駅員さんから、かなりボリュームあります、と聞かされた

『あまちゃん』に登場した北三陸鉄道のモデル・三陸鉄道北リアス線でレトロ列車に乗る

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取材で田野畑村を訪問することになった際( 日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地 )、以前から懇意にしていた方が、浅草酉の市発祥の寺として知られる長國寺の大熊手を宮古へ奉納すると聞き、そちらも併せて取材させてもらうことになりました( 震災の被災地で女性たちの支援に取り組む )。で、奉納に合わせて、三陸鉄道の田野畑駅からレトロ列車に乗り沿線の復興状況を視察するということだったので、それにも立ち会わせてもらいました。 三陸鉄道は、国鉄再建法により工事中止となった久慈線と盛線を、日本最初の第三セクターとして受け継ぎ、1984(昭和59)年に北リアス線(旧久慈線)、南リアス線(旧盛線)と名付けられて開業しました。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で、三陸鉄道は壊滅的な被害を受けましたが、動かせるところから動かそう、と震災5日後の3月16日には、北リアス線の陸中野田 - 久慈間で運転を再開。更に20日に北リアス線宮古 - 田老間、29日に北リアス線田老 - 小本間で運転を再開させ、いずれも震災復興支援列車として無料乗車としました。 その後、11月になって復旧工事の施行協定が締結され、全線復旧に向けて工事が始まりました。そして12(平成24)年4月に北リアス線の田野畑 - 陸中野田間、13(平成25)年4月に南リアス線の盛 - 吉浜間、14(平成26)年4月に南リアス線の吉浜 - 釜石間と、北リアス線の小本 - 田野畑間の運転が再開され、全線での運行再開が実現しました。 我々がレトロ列車に乗ったのは、13年12月だったので、まだ小本 - 田野畑間の運転は再開されておらず、田野畑から北の路線のみでした。が、その年のNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』のロケ地・大沢橋梁では、わざわざ停車して説明までしてくれるサービス精神旺盛なアナウンスもあり、楽しいミニツアーでした。 当時は、北リアス線の北側折り返し駅となっていた田野畑駅は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の登場人物カンパルネラの愛称で親しまれており、駅舎にはネスレのキットずっとプロジェクトによって復興支援の桜の模様が描かれていました。また、駅舎の中には、本棚を備えた無料休憩所や、喫茶店もあり、喫茶店ではコーヒーや紅茶などの他、カレーライスやピラフ、チャーハンなどの食事メニューも提供されていました。 なお、2019

寄ってみたら思い切り不思議空間だった盛岡大仏

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昨日の記事( 神秘的な地底湖がある龍泉洞と、迷宮型鍾乳洞の安家洞 )に書いたように、震災後の2011年6月19日に、取材のため岩手県の盛岡と岩泉をレンタカーで往復しました。その途次、国道455号沿いの丘に、大仏さんの頭が見え、入口に「盛岡大仏」と書かれた道しるべがあったので、帰り道に寄ってみることにしました。 岩泉から盛岡へ戻る場合、大仏さんは右手になり、参道入口に「松園寺」と書かれた大きな石碑がありました。山門の手前からも見えていたのですが、参道には文字が書かれた石板がずーっと連なっていました。ざっと見た感じ、歌碑のようで、啄木の文字が見えたので、盛岡だけに、と思ったのですが、数から言うと、とてもそれだけではないようです。しかも、「盛岡大仏」の矢印があった盛岡側の入口付近は、なにやら格言的なものもあり、統一感はなさそうです。 で、大仏さんですが、こちらは丘の上に鎮座していました。この大仏については、松園寺のウェブサイトに、次のような説明がありました。「奈良の大仏に匹敵する大きさと言われている盛岡大仏は平成11年7月に開眼式を行いました。その材質は青銅でできており、高さは約17メートル。重さは花崗岩の台座含めて約170トン。韓国の技術者12人が約2ヵ月の協力を得て、総工費7億円をかけて建立されました。この盛岡大仏の施主である開基 樋下正光氏は家内安全、無病息災、商売繁盛、交通安全の4つの願いを込めております」 これだけなら、「ふむふむ」で終わりなんですが、実は大仏さんの周辺が、どうにもこうにもおかしな具合で・・・。木像や石像、ブロンズ像など、材質がさまざまな像が点在しているのです。しかも、不動明王や達磨大師、くだけた感じの寿老人に首から下が八岐大蛇になっている十一面観音菩薩、また鑑真的座像や良寛的立像があるかと思えば、楠木正成騎馬像もあったりして、石板同様、その統一感のなさに戸惑うばかり。もちろん、石板の方も、生活習慣病対策の標語みたいな「味はうすめに腹八分」だったり、ことわざの「にわとりははだし」だったりと、負けてはいません。 更に、よくある現代風の銅像があるので、見てみると、盛岡大仏の施主「樋下正光之像」でした。樋下正光さんは、盛岡市にある樋下建設の創業者で、盛岡市議、岩手県議を歴任。で、松園寺自体も、樋下さんが寄進したようです。 現存する世界最古の木造建築物・

神秘的な地底湖がある龍泉洞と、迷宮型鍾乳洞の安家洞

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岩泉町は県東北部、盛岡の中心部から約90km、途中には、以前の記事で書いた「 すずらん給食 」の舞台となった藪川村(現盛岡市玉山区藪川)があります。西は北上高地から東は太平洋まで東西51km、そして南北も41kmと、本州一広い面積を持っています。町には日本三大鍾乳洞の一つで、地底湖の透明度が高いことで有名な龍泉洞があり、観光地としてはもとより、その水がミネラルウォーターとして販売されています。 2011年3月11日の東日本大震災では、沿岸部の小本地区を中心に、死者9人、202棟の家屋が流失または損壊し、漁業を中心に産業も打撃を受けました。その年4月に町営化50周年を迎えた龍泉洞も、震災の影響で地底湖が白濁。洞内の安全点検後、4月27日に営業を開始しましたが、5月の来客数は前年の8割減となっていました。 私は震災の年の6月19日に岩泉を訪問しました。この時は、内陸部のみだったので、途中にあった「すずらん給食」の舞台・藪川小学校には寄れましたが、被害が大きかった沿岸部までは回れませんでした。しかし、仕事の合間を見て、龍泉洞に入ってみました。 龍泉洞は、大規模な地底湖と多彩な鍾乳石群の美しい造形で、秋芳洞(山口県)、龍河洞(高知県)と共に、日本三大鍾乳洞に数えられています。日本の地質百選にも選ばれている他、洞内で生息するコウモリも含め国の天然記念物に指定されています。 龍泉洞の洞内は、既に判明している範囲だけでも4088m以上あり、全容は5000m以上に達すると言われています。一般公開されているのは、そのうちの1200mで、この区間は歩道や照明も整備されていますが、足元は滑りやすいので、注意しながら歩いてください。 龍泉洞の最大の見どころは、透明度の高い地底湖です。鍾乳洞の奥から湧き出る清水が、数箇所にわたって地底湖を形成しており、中でも水深98mの第3地底湖は、世界有数の透明度を誇ります。ライトアップされた湖は、鍾乳洞の名前からドラゴンブルーと名付けられた青みがかった水をたたえています。 この龍泉洞から北へ18kmの場所に、もう一つの鍾乳洞「安家洞(あっかどう)」があります。安家洞は、総延長2万3702mと、日本一長い鍾乳洞として有名です。主洞は東本洞、西本洞、奥本洞の三つに分けられますが、実際には1000本以上の支洞が入り組んでおり、「迷宮型鍾乳洞」と呼ばれています。

銘菓郷愁 - 名僧の遺徳偲ぶ「黄精飴」 岩手県盛岡

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東洋医学では、医食同源といって、病気予防の上で日常の食生活が大事であることを説いています。盛岡の銘菓「黄精飴」も、そんな考え方が生んだ伝統の和菓子でしょう。 「黄精飴」の黄精(おうせい)というのは、薬草のナルコユリから取れるもので、アルカロイド様の物質を含む根茎を、漢方の滋養、強壮薬として使います。また、ナルコユリと似た薬草にアマドコロというのがあって、こちらの根茎は、ナルコユリよりも節の間が長く、漢方の萎蕤(いずい)や玉竹(ぎょくちく)として使い、強壮、強精薬とされています。どちらも日本の山野に自生する多年草で、これを生薬として使うのではなく、菓子の中に取り込んだところに、「黄精飴」のユニークさがあります。 この黄精という生薬を、盛岡の人に教えたのは、江戸時代、対馬藩の外交を担当していた学僧・規伯玄方という人だったそうです。 玄方は、対馬藩の対朝鮮外交機関であった以酊庵の2代目住持となった学識豊かな僧侶で、1629(寛永6)年、徳川3代将軍家光の時に、外交団の長として朝鮮に赴き、大成功を収めます。ところが、それから6年後、玄方が50歳の時、対馬藩のお家騒動に巻き込まれてしまいます。 当時、対馬藩は、外交を有利に運ぶため、外交文書に手ごころを加えていたのですが、重臣の一人がそのことを暴露したため、幕府も困ってしまい、暴露した重臣を津軽に流し、玄方を藩主の身代わりとして、南部藩・盛岡へ流罪とします。 それから20余年、玄方は盛岡にあって学問を教え、漢薬の製法、味噌、醤油、清酒の醸造、茶道、造園法なども教えて、文化や産業の興隆に大きな指導力を発揮しました。玄方が対馬へ帰ってからも、南部藩ではその徳を慕い、「方長老」と呼んで称えました。 その影響力に注目したのが、幕末にこの地へやって来た近江出身の重吉という人でした。重吉は、もち米を主な材料とする菓子「求肥」に、ナルコユリやアマドコロの根茎から取った煎汁を入れて新しい求肥を作り、医食同源の思想を菓子の形にしました。 黄精飴は、一口で食べられる大きさのものを1個ずつ和紙でくるんであります。食べると、野の光が口の中に匂い立つようで、底から底から淡い甘さがにじんでくる銘菓です。 

人の心の温もりを伝える北国の手技・南部裂織

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裂織という織物があります。裂くと織るでは、まっく別物のようですが、古着を細かく裂き、それを緯糸に織りあげたところから、この名があります。東北地方や日本海側、信州などの寒冷地で、古くから織られていた庶民の織布です。 かつては、大人の単衣がすり切れると、傷んだ部分をとって子どもの着物にしました。それが破れるとつぎあての布にし、布地が弱ったものは数枚重ねておむつを作り、おむつから雑巾にしました。布が糸くずになるまで使い、更にそれをまとめて、布団の綿代わりにしました。 使い捨て時代の今日からは想像も出来ませんが、つい最近まで、日本ではそれが当たり前に行われていました。 特に、綿花栽培地と異なり、綿花の出来ない北国の人々は、木綿布、木綿糸に対する執着もかなり強いものがありでした。江釣子の南部裂織も、そんな北国の人々の生活の知恵から生まれた織物なのです。 北上市の黒沢尻は、北上川の舟運で栄えた港町でした。ここに関東や関西方面からの古着が、荷揚げされていました。江釣子の年配者に聞くと、戦後しばらくまで、北上市には、古着屋がたくさんあったそうです。 そうした古着を利用して、各家庭で裂織が織られていました。戦後、家の建て替えが盛んに行われた頃、江釣子の家々からは、必ずと言っていいほど、手機が出てきたといいます。裂織とは、それだけ生活に密着した織物であったのです。 裂織は、古着を裂いて糸に使うわけですから、当然、厚手の布になります。それは、冬の長い、北国の人たちにとって、恰好の防寒着になりました。はんてん風に仕立てて仕事着にしたり、丹前などにして、寒さをしのいだのでしょう。昭和に入って、一般農家に炬燵が普及すると、それは炬燵掛けとなって、やはり人々の生活の中に溶け込んでいました。 しかし、交通手段の発達と、繊維の流通が盛んになると、裂織の必要性も失われ、この手仕事は、いつのまにか姿を消していました。そんな中で、いち早く、裂織の復活を志したのが、江釣子の沢藤隆助さんでした。 沢藤さんは1960(昭和35)年、村の文化祭にたまたま展示された裂織に魅せられ、さまざまな研究を重ねた後、現在の南部裂織を育て上げました。更に、その子邦夫さんが跡を継ぎ、織元平太房として伝統を守っています。 「緯糸に古着を裂いた布を使っているので、経糸と絡んだ時にどんな模様に変化するのか想像がつかない。でも、偶然の美

「不易流行」の世界を具現化する奥州・平泉

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夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉が平泉を訪れたのは元禄2(1689)年5月13日です。藤原氏が滅亡して、ちょうど500年。つまり、義経が亡くなって500年目という年でもありました。 奥の細道は、西行の足跡をたどる旅でしたが、平泉で折り返した点や、500年という節目の年を選んだことなどを考えると、藤原氏と義経の終焉の地を訪ねるという意味合いも強かったのでしょう。 ところで地元に、藤原秀衡の三男忠衡が西行と義経を招待してソバの会食をし、「西行様と義経公が、いつまでも藤原氏の『そば』にいて力を貸してほしい」と切望したという言い伝えがあるらしいのです。義経は文治3(1187)年2月10日に平泉に入ったとされます。その一方、頼朝に知られたのがこの日で、実際は前年の暮れに既に入っていたという説もあります。西行が2度目の平泉訪問をしたのは文治2年10月12日のことですから、もしかしたら、と夢は膨らみますが、実のところ可能性は薄いようです。残念! さて奥の細道の平泉の項は「夏草や」の前半部と、「五月雨の」の句がある後半部に分けられます。つまり前半で「滅びゆくもの」、後半で「後に残るもの」を描いています。 五月雨の降のこしてや光堂 金色堂の脇にある芭蕉の句碑には「あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか」という解釈が書かれています。 金色堂は、中尊寺創建当初の唯一の遺構で、奥州の最高芸術と言っても過言ではありません。堂の内外は黒漆塗りの上に金箔が張られ、その名の通り金色に輝きます。内部もまた白く光る夜光貝の螺鈿細工・透かし彫りの金具・金蒔絵など、藤原時代の工芸の粋が施されています。中央の須弥壇の中に清衡、向かって左の壇に二代基衡、右に三代秀衡の遺体と泰衡の首級が納められています。 東日本大震災があった2011年、平泉がユネスコの世界遺産へ登録されました。「仏国土(浄土)をあらわす建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界文化遺産に登録されたのは、中尊寺、毛越寺と、無量光院跡、観自在王院跡、そしてそれら造営の基準となった金鶏山です。極楽浄土の世界を再現した浄土庭園と仏堂が、12世紀の浄土思想を伝える貴重な文化遺産と評価されました。 毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡公から三代秀衡公の時代に多

岩手県一の豪雪地帯西和賀町の冬

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昨日のブログ(「 雪国の叙情あふれる小正月行事 - 横手のかまくら 」)で、横手取材に当たって、往路は秋田新幹線を使って大曲経由にしたものの、復路は西和賀に立ち寄るため北上経由にしたことを書きました。で、朝、横手で人のいない武家屋敷通りでかまくらを撮影した後、北上線で「ほっとゆだ」駅に向かいました。 横手駅から、ほっとゆだ駅までは、普通列車だと6駅、快速だと3駅なのですが、なぜか所要時間は変わりません。中には、快速より1分早い普通列車もあり、不思議なタイムスケジュールです。 さて、到着したJR北上線ほっとゆだ駅は、全国でも例を見ない温泉付きの駅舎です。ただ「温泉付き」とはいえ、外に出て駅舎を眺めると、どう考えても、併設の温泉の方がメインに見えます。湯田温泉峡のシンボルとしての存在感は確実にあるようです。 湯田温泉峡には、湯本温泉、湯川温泉、大沓温泉、巣郷温泉があり、20軒ほどの宿が営業しています。この他、駅の温泉「ほっとゆだ」を含め、日帰り温泉が10箇所あります。 ちなみに駅舎内の「ほっとゆだ」は、源泉かけ流しで、午前7時から午後9時の営業。大浴場には信号機が設置してあり、青・黄・赤の色で列車が近づいたことを知らせてくれます。というわけで、私も帰りに入ってみることにし、まずは目的地の錦秋湖へ向かいました。 駅前の道を70〜80mほど歩くと、鬼ケ瀬川に架かる「ほっと三五橋」に出ます。駅を背にして、橋の左側は鬼ケ瀬川が錦秋湖に注ぐ河口部になります。 錦秋湖は、北上川の治水用に和賀川の流れをせき止め、1964(昭和39)年に完成した湯田ダムによって形成された人造湖です。その名の通り、秋には錦色に燃える紅葉が湖面を彩ります。また、雪解け水が流れ込み、豊かな水をたたえて新緑に染まる春も、美しい姿を見せるそうです。 その一方、私が行った冬は、湖が全面結氷して、カンジキを履いて湖畔を歩くツアーが開催されたりしています。 西和賀町は雪の多い岩手県の中でも豪雪地帯と言われる地域で、家の屋根から雪が大きくはみ出していたり、看板が大きな白い帽子をかぶっていたり、関東では絶対にお目にかかれない光景に遭遇しました。そんなわけで、全面結氷の湖を撮影するつもりで降り立ったものの、雪が多すぎるため、目の前にはただの雪原が広がるだけでした。 当初の目論見では、次の列車が来る2時間で錦秋湖の雪景色を撮