投稿

ラベル(岩手県)が付いた投稿を表示しています

寄ってみたら思い切り不思議空間だった盛岡大仏

イメージ
昨日の記事( 神秘的な地底湖がある龍泉洞と、迷宮型鍾乳洞の安家洞 )に書いたように、震災後の2011年6月19日に、取材のため岩手県の盛岡と岩泉をレンタカーで往復しました。その途次、国道455号沿いの丘に、大仏さんの頭が見え、入口に「盛岡大仏」と書かれた道しるべがあったので、帰り道に寄ってみることにしました。 岩泉から盛岡へ戻る場合、大仏さんは右手になり、参道入口に「松園寺」と書かれた大きな石碑がありました。山門の手前からも見えていたのですが、参道には文字が書かれた石板がずーっと連なっていました。ざっと見た感じ、歌碑のようで、啄木の文字が見えたので、盛岡だけに、と思ったのですが、数から言うと、とてもそれだけではないようです。しかも、「盛岡大仏」の矢印があった盛岡側の入口付近は、なにやら格言的なものもあり、統一感はなさそうです。 で、大仏さんですが、こちらは丘の上に鎮座していました。この大仏については、松園寺のウェブサイトに、次のような説明がありました。「奈良の大仏に匹敵する大きさと言われている盛岡大仏は平成11年7月に開眼式を行いました。その材質は青銅でできており、高さは約17メートル。重さは花崗岩の台座含めて約170トン。韓国の技術者12人が約2ヵ月の協力を得て、総工費7億円をかけて建立されました。この盛岡大仏の施主である開基 樋下正光氏は家内安全、無病息災、商売繁盛、交通安全の4つの願いを込めております」 これだけなら、「ふむふむ」で終わりなんですが、実は大仏さんの周辺が、どうにもこうにもおかしな具合で・・・。木像や石像、ブロンズ像など、材質がさまざまな像が点在しているのです。しかも、不動明王や達磨大師、くだけた感じの寿老人に首から下が八岐大蛇になっている十一面観音菩薩、また鑑真的座像や良寛的立像があるかと思えば、楠木正成騎馬像もあったりして、石板同様、その統一感のなさに戸惑うばかり。もちろん、石板の方も、生活習慣病対策の標語みたいな「味はうすめに腹八分」だったり、ことわざの「にわとりははだし」だったりと、負けてはいません。 更に、よくある現代風の銅像があるので、見てみると、盛岡大仏の施主「樋下正光之像」でした。樋下正光さんは、盛岡市にある樋下建設の創業者で、盛岡市議、岩手県議を歴任。で、松園寺自体も、樋下さんが寄進したようです。 現存する世界最古の木造建築物・...

神秘的な地底湖がある龍泉洞と、迷宮型鍾乳洞の安家洞

イメージ
岩泉町は県東北部、盛岡の中心部から約90km、途中には、以前の記事で書いた「 すずらん給食 」の舞台となった藪川村(現盛岡市玉山区藪川)があります。西は北上高地から東は太平洋まで東西51km、そして南北も41kmと、本州一広い面積を持っています。町には日本三大鍾乳洞の一つで、地底湖の透明度が高いことで有名な龍泉洞があり、観光地としてはもとより、その水がミネラルウォーターとして販売されています。 2011年3月11日の東日本大震災では、沿岸部の小本地区を中心に、死者9人、202棟の家屋が流失または損壊し、漁業を中心に産業も打撃を受けました。その年4月に町営化50周年を迎えた龍泉洞も、震災の影響で地底湖が白濁。洞内の安全点検後、4月27日に営業を開始しましたが、5月の来客数は前年の8割減となっていました。 私は震災の年の6月19日に岩泉を訪問しました。この時は、内陸部のみだったので、途中にあった「すずらん給食」の舞台・藪川小学校には寄れましたが、被害が大きかった沿岸部までは回れませんでした。しかし、仕事の合間を見て、龍泉洞に入ってみました。 龍泉洞は、大規模な地底湖と多彩な鍾乳石群の美しい造形で、秋芳洞(山口県)、龍河洞(高知県)と共に、日本三大鍾乳洞に数えられています。日本の地質百選にも選ばれている他、洞内で生息するコウモリも含め国の天然記念物に指定されています。 龍泉洞の洞内は、既に判明している範囲だけでも4088m以上あり、全容は5000m以上に達すると言われています。一般公開されているのは、そのうちの1200mで、この区間は歩道や照明も整備されていますが、足元は滑りやすいので、注意しながら歩いてください。 龍泉洞の最大の見どころは、透明度の高い地底湖です。鍾乳洞の奥から湧き出る清水が、数箇所にわたって地底湖を形成しており、中でも水深98mの第3地底湖は、世界有数の透明度を誇ります。ライトアップされた湖は、鍾乳洞の名前からドラゴンブルーと名付けられた青みがかった水をたたえています。 この龍泉洞から北へ18kmの場所に、もう一つの鍾乳洞「安家洞(あっかどう)」があります。安家洞は、総延長2万3702mと、日本一長い鍾乳洞として有名です。主洞は東本洞、西本洞、奥本洞の三つに分けられますが、実際には1000本以上の支洞が入り組んでおり、「迷宮型鍾乳洞」と呼ばれています。...

名僧の遺徳偲ぶ「黄精飴」 岩手県盛岡

イメージ
東洋医学では、医食同源といって、病気予防の上で日常の食生活が大事であることを説いています。盛岡の銘菓「黄精飴」も、そんな考え方が生んだ伝統の和菓子でしょう。 「黄精飴」の黄精(おうせい)というのは、薬草のナルコユリから取れるもので、アルカロイド様の物質を含む根茎を、漢方の滋養、強壮薬として使います。また、ナルコユリと似た薬草にアマドコロというのがあって、こちらの根茎は、ナルコユリよりも節の間が長く、漢方の萎蕤(いずい)や玉竹(ぎょくちく)として使い、強壮、強精薬とされています。どちらも日本の山野に自生する多年草で、これを生薬として使うのではなく、菓子の中に取り込んだところに、「黄精飴」のユニークさがあります。 この黄精という生薬を、盛岡の人に教えたのは、江戸時代、対馬藩の外交を担当していた学僧・規伯玄方という人だったそうです。 玄方は、対馬藩の対朝鮮外交機関であった以酊庵の2代目住持となった学識豊かな僧侶で、1629(寛永6)年、徳川3代将軍家光の時に、外交団の長として朝鮮に赴き、大成功を収めます。ところが、それから6年後、玄方が50歳の時、対馬藩のお家騒動に巻き込まれてしまいます。 当時、対馬藩は、外交を有利に運ぶため、外交文書に手ごころを加えていたのですが、重臣の一人がそのことを暴露したため、幕府も困ってしまい、暴露した重臣を津軽に流し、玄方を藩主の身代わりとして、南部藩・盛岡へ流罪とします。 それから20余年、玄方は盛岡にあって学問を教え、漢薬の製法、味噌、醤油、清酒の醸造、茶道、造園法なども教えて、文化や産業の興隆に大きな指導力を発揮しました。玄方が対馬へ帰ってからも、南部藩ではその徳を慕い、「方長老」と呼んで称えました。 その影響力に注目したのが、幕末にこの地へやって来た近江出身の重吉という人でした。重吉は、もち米を主な材料とする菓子「求肥」に、ナルコユリやアマドコロの根茎から取った煎汁を入れて新しい求肥を作り、医食同源の思想を菓子の形にしました。 黄精飴は、一口で食べられる大きさのものを1個ずつ和紙でくるんであります。食べると、野の光が口の中に匂い立つようで、底から底から淡い甘さがにじんでくる銘菓です。 

人の心の温もりを伝える北国の手技・南部裂織

イメージ
裂織という織物があります。裂くと織るでは、まっく別物のようですが、古着を細かく裂き、それを緯糸に織りあげたところから、この名があります。東北地方や日本海側、信州などの寒冷地で、古くから織られていた庶民の織布です。 かつては、大人の単衣がすり切れると、傷んだ部分をとって子どもの着物にしました。それが破れるとつぎあての布にし、布地が弱ったものは数枚重ねておむつを作り、おむつから雑巾にしました。布が糸くずになるまで使い、更にそれをまとめて、布団の綿代わりにしました。 使い捨て時代の今日からは想像も出来ませんが、つい最近まで、日本ではそれが当たり前に行われていました。 特に、綿花栽培地と異なり、綿花の出来ない北国の人々は、木綿布、木綿糸に対する執着もかなり強いものがありでした。江釣子の南部裂織も、そんな北国の人々の生活の知恵から生まれた織物なのです。 北上市の黒沢尻は、北上川の舟運で栄えた港町でした。ここに関東や関西方面からの古着が、荷揚げされていました。江釣子の年配者に聞くと、戦後しばらくまで、北上市には、古着屋がたくさんあったそうです。 そうした古着を利用して、各家庭で裂織が織られていました。戦後、家の建て替えが盛んに行われた頃、江釣子の家々からは、必ずと言っていいほど、手機が出てきたといいます。裂織とは、それだけ生活に密着した織物であったのです。 裂織は、古着を裂いて糸に使うわけですから、当然、厚手の布になります。それは、冬の長い、北国の人たちにとって、恰好の防寒着になりました。はんてん風に仕立てて仕事着にしたり、丹前などにして、寒さをしのいだのでしょう。昭和に入って、一般農家に炬燵が普及すると、それは炬燵掛けとなって、やはり人々の生活の中に溶け込んでいました。 しかし、交通手段の発達と、繊維の流通が盛んになると、裂織の必要性も失われ、この手仕事は、いつのまにか姿を消していました。そんな中で、いち早く、裂織の復活を志したのが、江釣子の沢藤隆助さんでした。 沢藤さんは1960(昭和35)年、村の文化祭にたまたま展示された裂織に魅せられ、さまざまな研究を重ねた後、現在の南部裂織を育て上げました。更に、その子邦夫さんが跡を継ぎ、織元平太房として伝統を守っています。 「緯糸に古着を裂いた布を使っているので、経糸と絡んだ時にどんな模様に変化するのか想像がつかない。でも、偶然の美...

「不易流行」の世界を具現化する奥州・平泉

イメージ
夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉が平泉を訪れたのは元禄2(1689)年5月13日です。藤原氏が滅亡して、ちょうど500年。つまり、義経が亡くなって500年目という年でもありました。 奥の細道は、西行の足跡をたどる旅でしたが、平泉で折り返した点や、500年という節目の年を選んだことなどを考えると、藤原氏と義経の終焉の地を訪ねるという意味合いも強かったのでしょう。 ところで地元に、藤原秀衡の三男忠衡が西行と義経を招待してソバの会食をし、「西行様と義経公が、いつまでも藤原氏の『そば』にいて力を貸してほしい」と切望したという言い伝えがあるらしいのです。義経は文治3(1187)年2月10日に平泉に入ったとされます。その一方、頼朝に知られたのがこの日で、実際は前年の暮れに既に入っていたという説もあります。西行が2度目の平泉訪問をしたのは文治2年10月12日のことですから、もしかしたら、と夢は膨らみますが、実のところ可能性は薄いようです。残念! さて奥の細道の平泉の項は「夏草や」の前半部と、「五月雨の」の句がある後半部に分けられます。つまり前半で「滅びゆくもの」、後半で「後に残るもの」を描いています。 五月雨の降のこしてや光堂 金色堂の脇にある芭蕉の句碑には「あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか」という解釈が書かれています。 金色堂は、中尊寺創建当初の唯一の遺構で、奥州の最高芸術と言っても過言ではありません。堂の内外は黒漆塗りの上に金箔が張られ、その名の通り金色に輝きます。内部もまた白く光る夜光貝の螺鈿細工・透かし彫りの金具・金蒔絵など、藤原時代の工芸の粋が施されています。中央の須弥壇の中に清衡、向かって左の壇に二代基衡、右に三代秀衡の遺体と泰衡の首級が納められています。 東日本大震災があった2011年、平泉がユネスコの世界遺産へ登録されました。「仏国土(浄土)をあらわす建築・庭園及び考古学的遺跡群」として世界文化遺産に登録されたのは、中尊寺、毛越寺と、無量光院跡、観自在王院跡、そしてそれら造営の基準となった金鶏山です。極楽浄土の世界を再現した浄土庭園と仏堂が、12世紀の浄土思想を伝える貴重な文化遺産と評価されました。 毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、藤原氏二代基衡公から三代秀衡公の時代に多...

岩手県一の豪雪地帯西和賀町の冬

イメージ
昨日のブログ(「 雪国の叙情あふれる小正月行事 - 横手のかまくら 」)で、横手取材に当たって、往路は秋田新幹線を使って大曲経由にしたものの、復路は西和賀に立ち寄るため北上経由にしたことを書きました。で、朝、横手で人のいない武家屋敷通りでかまくらを撮影した後、北上線で「ほっとゆだ」駅に向かいました。 横手駅から、ほっとゆだ駅までは、普通列車だと6駅、快速だと3駅なのですが、なぜか所要時間は変わりません。中には、快速より1分早い普通列車もあり、不思議なタイムスケジュールです。 さて、到着したJR北上線ほっとゆだ駅は、全国でも例を見ない温泉付きの駅舎です。ただ「温泉付き」とはいえ、外に出て駅舎を眺めると、どう考えても、併設の温泉の方がメインに見えます。湯田温泉峡のシンボルとしての存在感は確実にあるようです。 湯田温泉峡には、湯本温泉、湯川温泉、大沓温泉、巣郷温泉があり、20軒ほどの宿が営業しています。この他、駅の温泉「ほっとゆだ」を含め、日帰り温泉が10箇所あります。 ちなみに駅舎内の「ほっとゆだ」は、源泉かけ流しで、午前7時から午後9時の営業。大浴場には信号機が設置してあり、青・黄・赤の色で列車が近づいたことを知らせてくれます。というわけで、私も帰りに入ってみることにし、まずは目的地の錦秋湖へ向かいました。 駅前の道を70〜80mほど歩くと、鬼ケ瀬川に架かる「ほっと三五橋」に出ます。駅を背にして、橋の左側は鬼ケ瀬川が錦秋湖に注ぐ河口部になります。 錦秋湖は、北上川の治水用に和賀川の流れをせき止め、1964(昭和39)年に完成した湯田ダムによって形成された人造湖です。その名の通り、秋には錦色に燃える紅葉が湖面を彩ります。また、雪解け水が流れ込み、豊かな水をたたえて新緑に染まる春も、美しい姿を見せるそうです。 その一方、私が行った冬は、湖が全面結氷して、カンジキを履いて湖畔を歩くツアーが開催されたりしています。 西和賀町は雪の多い岩手県の中でも豪雪地帯と言われる地域で、家の屋根から雪が大きくはみ出していたり、看板が大きな白い帽子をかぶっていたり、関東では絶対にお目にかかれない光景に遭遇しました。そんなわけで、全面結氷の湖を撮影するつもりで降り立ったものの、雪が多すぎるため、目の前にはただの雪原が広がるだけでした。 当初の目論見では、次の列車が来る2時間で錦秋湖の雪景色を撮...

日本一の海岸美・北山崎を抱える体験型観光の先進地

イメージ
2011年3月11日、NPO体験村・たのはたネットワークの副理事長・佐藤辰男さんは、「海のアルプス」と呼ばれる北山崎海岸の南端にある北山浜にいました。春の訪れと共に始まる観光シーズンを前に、町外からの観光客を迎える準備のため、高校生と一緒に海岸を清掃していたのです。 地震の瞬間、地面が大きく揺れ、直後にズドーンという轟音と共に、背後に切り立つ断崖の一部が崩れました。岩の直撃は免れましたが、生徒たちは悲鳴を上げてうずくまり、身動き出来ない様子でした。しかし、のんびりしてはいられません。佐藤さんは、教師らと一緒に生徒たちを励まし、急峻な崖の上へと誘導しました。田野畑村に津波の第一波が到達したのは、地震発生から約40分後。彼らは間一髪で難を逃れることが出来ました。 田野畑村は岩手県の沿岸北部、三陸復興国立公園のハイライトとも言える景勝地・北山崎を抱える人口約4000人の村です。中心部は海抜200~300mの海岸段丘にあり、東日本大震災の津波被害からは免れました。しかし沿岸部の羅賀、島越は住宅の7割以上が全半壊となるなど、大きな被害が出ました。また、漁船の9割弱が流失し、漁業関係も大打撃を受けました。 佐藤さんが所属する奉仕団体では、震災後、国内外からの援助を受けながら、被災者支援活動を開始。村に給水車を寄贈したり、避難所にファンヒーターや電気毛布を持って行ったりしました。更に被災者が仮設住宅に移ってからは、灯油用ポリタンクの収納ケースを各戸に贈った他、仮設住宅の自治会に除雪機を提供するなど、被災者のニーズを把握しながら活動を続けてきました。また、ある程度月日が経ってからは、心のケアが重要だと、花や野菜の苗を植えたプランターを仮設住宅に配るなど、ややもすると閉じこもりがちになるお年寄りが、外に出て交流出来るような支援を心掛けていると話していました。 北山崎は、日本交通公社の全国観光資源評価「自然資源・海岸の部」で国内で唯一、最高ランクの特A級に格付けされています。高さ200mもの断崖に、太平洋の荒波洗う奇岩怪石、大小さまざまな海蝕洞窟と、ダイナミックな海岸線が約8kmにもわたって続き、名実共に日本一の海岸美を持つ景勝地です。そのため、放っておいても年間約50万人もの観光客が北山崎を訪れます。 しかし、それらは北山崎を訪問するだけで、宿泊は宮古市など、近隣の市町村に流れていま...

震災の被災地で女性たちの支援に取り組む

イメージ
宮古は三陸復興国立公園や早池峰国定公園など、海、山、川の恵まれた自然環境を背景に、観光に力を入れています。中でも浄土ケ浜は、三陸復興国立公園の中心的存在で、1955年に国の名勝に指定された他、岩手県指定名勝(第1号/54年指定)や、日本の白砂青松100選(87年)、かおり風景100選(環境省、2001年)などに選定されています。 そんな観光・宮古の復興に手を貸そうと、酉の市発祥の寺として知られる東京・浅草の長國寺から宮古市に、大熊手が贈られています。日本一と言われるこの大熊手は、毎年100万人の人出でにぎわう浅草の酉の市で実際に祭られたもので、これまでは門外不出でした。しかし、「三陸の復興に役立てたい」という井桁凰雄住職の提案で、震災のあった2011年から宮古市に贈られるようになりました。 その取材の折にお会いした宮古市議会議員の須賀原チエ子さんは、震災により地域が崩壊し、仮設住宅などに引きこもりがちになっていた家庭の主婦らを支援しようと、被災者が自立していくための手芸品作りなどを行う「輝きの和」を立ち上げました。大熊手奉納の取材をきっかけに、以後、この「輝きの和」も追跡取材させてもらうようになったのですが、その中で、須賀原さんから「命の道路」という話を伺う機会がありました。それは、震災の際、津波にのまれながらも、地域の人たちの行動により助かった乳児とそのお母さんの話でした。  ◆ その時、母子は実家へ向かうため、海沿いの国道45号線を津軽石方面に向けて急いでいました。しかし、海のあまりの恐ろしさに、高浜の入り口で車を乗り捨て、近くの一軒家に助けを求めました。 家の方に2階に上がるよう促され、階段を駆け上がったところに津波が襲来。赤ちゃんを抱いたまま外に引きずり出され、山肌に叩きつけられました。恐る恐る振り向くと、助けを求めた家は、跡形もなく消えていました。 ずぶ濡れで震えていたところを、様子を見に来た近所の若者が発見。彼らの助けを借り、高浜地区の住民が避難する高台にたどり着きました。しかし、その時には赤ちゃんの唇は紫色に変わり、泣くことも出来ませんでした。高浜の皆さんは急いでお湯を沸かし、タオルを持ち寄って懸命に母子を温めました。その中に、「輝きの和」の代表・岩間和子さんもいました。 しかし、赤ちゃんの低体温は治らず、そのままでは命が危ない状態になってしまいました...

海と祭りに生きる山田の人々

イメージ
山田町は岩手県沿岸部のほぼ中央、北を宮古市、南を大槌町に挟まれています。東日本大震災では、津波で壊滅的な被害を受け、更にその後に発生した火災で、町役場周辺の約500棟があった区画が焼き尽くされました。焼失面積は推定で約18haと、今回の震災で発生した東北沿岸部の火災では最大の被害となりました。 震災後、山田町を最初に訪問したのは、4月15日でした。釜石、大槌、山田に支援物資を搬入する河合悦子さんのグループ( 「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」 )を取材するためでしたが、この時にお会いした山田町の方たちには、その後何度も、取材でお世話になりました。その一人、千坂清一さんに、当時のことを伺ったことがあります。  ◆ 震災前は海から100mほど離れた国道沿いで薬局を経営していました。あの日、私は2坪強の調剤室、二人の従業員は店舗、家内は2階の自宅で遅い昼食を取り寛いでいました。そこへあの揺れがきました。予想外に長く強い揺れに、店では化粧品の瓶が割れ、従業員の悲鳴が聞こえてきました。調剤室でも棚やロッカーが倒れ、飼っていた猫が飛び込んできて私の足元をすごい速さでグルグル回りました。初めて見る行動で、恐ろしいことが起きると、動物の本能で察知していたようです。ようやく揺れが収まった後、すぐに店を閉め、家内には近所に一人で暮らす義母(当時93歳)を連れて避難所である役場に行くよう、従業員にはすぐに自宅に帰るように指示しました。 義母、家内と私の3人が役場の中庭に避難してから約30分、周囲が異様な雰囲気に包まれました。何人かが海の方向を見て息をのむような声にならない声を上げていました。屋根が左から右へ、かなりの速さで動いていくのです。周囲には黄色い煙が上がっていました。後に、大津波が建物を根こそぎ破壊していたのだと分かりました。 それからは町内の一角で発生した火事が一晩かけて広がる様子を、役場の敷地内から呆然と見ていました。翌12日の朝に見た山田町はがれきの山と焼け跡、それに異臭が加わり、とても現実とは信じられませんでした。  ◆ 最初の訪問から数日後の4月21日、青森県の弘前東奥ライオンズクラブが、岩手県山田町の保健センター前で炊き出しを行い、弘前名物のかに汁とおにぎりを800食ずつ山田町の人たちに振る舞いました。 かに汁は、桜の名所・弘前の花見に欠かせない津軽地方...