加賀温泉郷・湯の里、技の里
このうち山中温泉は、大聖寺川の中流にあリ、文字通り山の中。山代温泉は大聖寺川下流、前に田園地帯を控え、背後に小高い丘陵を背負った高台にあります。そして片山津は日本海側、柴山潟の畔にデラックスな旅館が立ち連なる明るい温泉です。この三湯に、小松市の粟津温泉を加えて、加賀温泉郷と総称しておリ、それぞれ異なった風情と情趣で、多くの湯客を引きつけています。
この加賀温泉郷には、お湯の他にもう一つの顔があります。山中漆器と九谷焼 ー つまリ「技の里」としての顔です。
山の木地師が、温泉土産に杓子や椀、それに玩具などを挽いたのが、山中漆器の始まリだといいます。漆塗リは江戸時代中頃に始まリ、蒔絵は江戸後期に京都や会津の技術が導入されて基礎が出来たといいます。
同じ石川県には、漆器の代名詞のようになっている輪島塗がありますが、両者の間にはかなりの違いがあります。山中漆器の場合、塗リそのものよりも、むしろ挽きの方に特徴があると言えます。特に、ひと目で山中漆器と分かるのが、独特の素地加飾「筋挽き」です。器の表面にびっしりと細かい筋を彫リ上げる千筋や、平筋、ロクロ目筋、更には飛び鉋を使った飛び筋、稲穂のような筋文様を彫る稲穂筋など、数十種類の筋挽きがあります。素地加飾に使う小刀やカンナは、全て木地師自らが作ってもので、作業に応じて使いわけます。
また、薄く挽く技術も、非常に優れています。向こう側が透けて見えるような、極薄の茶托や椀素地があって、その技には本当に驚いてしまいます。こうした高度な技術は、漆を塗った後に蓋がぴったリ吸い付くよう見込んで挽く技術にも通じ、中でも茶道の棗では、他の追随を許さない力を持っています。◆
もう一つの技・九谷焼も、この時、当時の代表的な作家・北出不二雄さんにお会いし、お話を伺うことが出来ました。北出さんは、1919(大正8)年の生まれで、取材時は60代後半、日展評議員や金沢美術工芸大学名誉教授も務められ、石川県の無形文化財に指定されていました。少年時代から家業である製陶に関わり、兵役に服した6年間を除いても、50年近い歳月を九谷焼と共に過ごしていました。
北出さんは、現代九谷焼の第一人者で、取材もだいぶ多かったようです。そのため、絵付けの行程ごどに大きな絵皿を3パターンほど用意して、写真撮影に応じていました。私も、そのうちの1点で、写真を撮らせて頂きました。
撮影をしながら北出さんは、「伝統工芸に従事する人間というと、『この道一筋』というイメージがあり、私などもそのような話や原稿を依頼される場合があります。しかし、どう考えても、一筋の道を歩んだという感じはしていません。石川県立工業学校で、初めての釉薬調合試験で、石や土の原料粉砕物が、白く輝く釉薬になる。その『化土成玉』の術を見た時の驚きと喜びは、造形や加飾の手わざとは別の感動でした。幾十年を経ても、その感激を忘れることはありません。そういう意味では、陶磁器に関しても手仕事の技能よりも、技術に関する興味が強いようです」と、話されていたのが印象に残っています。
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