優れた織物技術を採り入れ、生み出したソフトな絣柄
武蔵村山市は、もともと養蚕が盛んな土地でした。そのため江戸中期には、絹を使った砂川太織が織リ出され、また藍の産地でもあったことから、藍を使った紺絣の生産も始まりましたた。
村山大島紬は、この二つが大正中期に結びついたもので、その特徴である染色法・板締め注染法や、当時大流行だった大島柄も、この頃に導入されました。今でこそ、日本三大紬の一つにあげられる村山大島紬ですが、こうして長い時代の流れの中で、優秀な技法と柄を積極的に採り入れ、初めて完成したものなのです。
特徴である板締め注染法というのは、絣の部分をくっきり残すために、紋様を彫った2枚の板の間に絹糸を挟んで締め付けて防染し、染料を注ぎ込んで染める技法です。正倉院の収蔵品に見られる古くからの絞リ染め技法の一種で、今ではわずかに村山大島紬と伊勢崎紬などで用いられているだけの貴重な技法です。
織物の経緯の密度に合わせて板図案を作り、それをもとに絣板を彫ります。板には、精緻な絣を作るため、樹齢100年ぐらいの特種なサクラの巨木の、芯を除いた柾目を使っています。村山大島紬の味わいは、こうして染められた経緯の精緻な絣を、一本いっぽん手作業によって、柄合わせしながら織り出すことによってもたらされています。
村山大島紬は、伝統的工芸品の指定によって一挙に注日を浴び、他の産地が停滞する中、一人安定的に推移してきました。しかし、1980年代に入ると大きなかげリが見えてきました。板締め染色による伝統的工芸品・村山大島紬のみが注目され、それ以外の製品はほとんど無視されるという結果を招いたからです。そのため、新製品開発の意欲が失われ、単一製品で量産型という産地構造になリ、多品種少品生産で常に新製品を開発するという、望まれる地場産業像とは全く逆の道を歩んでしまいました。
伝統的工芸品の指定で、非常な活況を呈した村山大島紬ですが、それが逆に足かせとなってしまったわけです。現在、村山織物協同組合によると、組合員は17社となっていますが、実際に稼働しているのは数軒だけとも言われています。取材をさせてもらった田愛織物も小室織物も今は紬を作っていません。
ただ、伝統工芸士は11人残っており、組合として、小中学生向けた伝統的工芸品の教育事業を展開しています。こうした活動が実を結び、村山大島紬の伝統が、次の世代に受け継がれていくことを期待したいところです。
コメント
コメントを投稿