形から心へ、それが伝統となり、今に継承される農民美術

上田には奈良時代、信濃国府が置かれ、国分寺・国分尼寺も建立されました。以後、仏教文化が花開き、「信州の鎌倉」と呼ばれる塩田平を始め、市内には多くの文化財が残っています。

近世には、真田昌幸が上田城を築き、町屋を形成。以来、幕末まで上田藩5万3000石の城下町として栄えました。

明治から大正にかけては、全国有数の蚕都として発展。その頃、農民自らの手による農民美術が生まれています。

農民美術の提唱者は、洋画家の山本鼎氏でした。山本氏は、フランス留学からの帰途、ロシアに半年ほど滞在していました。その間、農民たちが、冬の副業として木彫人形や白樺巻の小物入れなどを作っているのに着眼。両親が住む信州の農村でも、応用出来ると考えました。

そして帰国後、作る喜びと、農家の副収入を狙った一石二鳥の産業美術運動を提唱し、現在の上田市神川に練習所を開設しました。その後、全国各地で講習会を開催、上田に農民美術研究所も設立しました。

一時、日本農民美術生産組合連合会の加盟団体は50を数え、約600人の人たちがこの仕事に就いていたといいます。しかし、関東大震災、昭和恐慌、満州事変以来の戦時体制の強化によって、研究所は閉鎖。更には戦争の激化と共に、農民美術は壊滅に瀕しました。

戦後、練習所の第1号生徒であった中村実氏らが中心となり、再び農民美術の製作が開始され、神川を中心に徐々に復活を果たしました。当初は、山本氏が持ち帰った見本の模倣から始まった農民美術ですが、技術の向上に伴い心も宿り、芸術として昇華されてきました。

その第一人者である中村実さんは、父の跡を継ぎ、1977年に2代目を襲名。その時、時流に流されまいと、安易な道を避ける不器用な生き方を選びました。と同時に、それが独りよがりにならないよう、絶えず自分を戒めていると話していました。

現在は、3代目が後を継承。中村さんを含め16人の作家が、山本鼎氏が灯し、先達から伝えられた農民美術の灯を、伝統工芸として継承していくために努力を重ねています。

農民美術のモチーフには郷土芸能上田獅子などがよく使われます

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