パラリンピック競技大会のお話


パラリンピックは、障害を持つアスリートによる世界最高峰の国際競技大会。夏季大会と冬季大会があり、オリンピックと同じ年に同じ都市で開催されます。1960年のローマ大会が、第1回大会と位置づけられていますが、当時は国際ストーク・マンデビル大会と呼ばれていました。

ストーク・マンデビルというのは、イギリスのロンドン郊外にある病院で、ロンドン・オリンピックがあった48年、この病院で16人(男子14人、女子2人)の車いす患者によるアーチェリー大会が開催されたのが、そもそもの発端です。この大会は以後毎年開催され、52年にはオランダからも参加があり、国際競技会へと発展。オリンピックが開催された60年のローマ大会には23カ国、400人が参加するまでになりました。

そして64年の東京オリンピック開催に合わせ、国際ストーク・マンデビル大会を行ってほしいとの要請が、61年3月に同大会の提唱者であるルートヴィヒ・グットマン博士から厚生省(現厚生労働省)にありました。しかし、身体障害者スポーツの素地がなかった日本は、関係団体を中心に協議するも、国際大会以前に国内の障害者スポーツ振興が先との声が強い状況でした。


そんな中、日本国内のライオンズクラブが、朝日新聞厚生文化事業団に対してパラリンピック開催について照会。やるのであれば援助を検討したいと連絡しました。グットマン博士から要請があった1年後の62年3月のことでした。

これを受けた同事業団は協議の上、1)国内のスポーツ振興を図ってからパラリンピックを引き受けるのは実際問題として困難。むしろパラリンピック開催を強く打ち出し国内態勢を作る方が早道。2)パラリンピックを引き受けるに当たっては肢体不自由、盲、ろうあの人たちのスポーツも同時に行うことを条件とする。3)5月に小範囲の人たちで準備打ち合わせ会を開催する。4)ライオンズクラブに強力に働き掛ける、という4項目を決定。厚生省の了解を得た上で、NHK厚生文化事業団との連名で関係者に準備打ち合わせ会の案内を発送、こうしてパラリンピック東京大会開催への道が開けました。

ところでパラリンピックの呼称は、両下肢の運動まひであるパラプレジア=Paraplegiaの「パラ」とオリンピック=Olympicの「リンピック」を組み合わせた造語で、日本が作った愛称でした。正式には国際ストーク・マンデビル大会だったわけですが、東京大会以降、この言葉が一般に定着し、85年には国際オリンピック委員会が、パラリンピックの名を公認。その際、両下肢の運動まひに限らない幅広い障害者のスポーツ大会であることから、「パラ」はギリシャ語の接頭語であるパラ=Para(沿う、並行)と解釈するようになりました。そして89年には国際パラリンピック委員会が設立され、同委員会によって60年のローマ大会が第1回パラリンピックと位置づけられました。以後、パラリンピックは世界最高峰の障害者スポーツ大会へと発展を遂げ、この8月24日から開催される東京大会では22競技537種目が実施され、史上最多となる約4400人のパラアスリートが参加する予定です。

これまで取材させてもらった東京パラリンピック代表選手を簡単に紹介しています。
難病に負けず、明日に向かって走り続ける"あきらめない男" - 伊藤智也さん
スピードと高い守備力で日本代表に定着 - 赤石竜我さん
目標はずばり、東京パラリンピックでの金メダル! - 山口凌河さん
地元開催でお家芸復活の期待がかかる全盲の柔道家 - 永井崇匡さん
障害者スポーツの普及活動からアスリートへ転身 - 田中光哉さん

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