宮古の人々のアララガマ精神が育んだ精緻な上布
宮古上布は、その影の色をしています。藍染の涼しげな風合いがそう思わせるのでしょうが、その歴史にも、影の部分が秘められています。
宮古上布の正確な由来は不明です。しかし、島では1583年、夫の栄進のお礼に琉球王へ綾錆布を献上した稲石という女性を、宮古上布の祖としています。綾とは、宮古の言葉で縞を指し、錆は布の色合いで青系の色、すなわち藍のことだろうと推測されています。
その後、稲石の技は、島の人々に広く伝えられ、全島で高品質の上布が生産されるようになったといいます。しかし、それはやがて、人頭税制の下、貢納布として姿を変え、島の人々の上に重くのしかかることになります。
1609年、薩摩の琉球侵攻と共に、宮古上布はその魅力ゆえに貢納品に指定されました。薩摩の重税に苦しんだ琉球王府は、貢納布を人頭に割り当て、島の女性に労苦を強制しました。
各村に機屋が設けられ、織女たちは1年の大半を機に向かって過ごしました。織女たちの肉は落ち、顔は青ざめ、毛髪が抜け落ちたと伝えられます。こうして織り上げられた上布は、琉球王府を経て薩摩に献上され、中央では薩摩上布の名で高価に取り引きされました。
人頭税の廃止は1903(明治36)年のこと。宮古、石垣など先島の人々は、実に300年も、この悪名高い税制に苦しめられたのです。もともと宮古島は、離島県の離島として、台風や干ばつなど、厳しい自然に痛めつけられてきました。しかし、その中で培われた宮古の人々のアララガマ(堅忍不屈なること)精神と創造性、団結力で、これらを乗り越えてきました。
そのため、薩摩による過酷な圧政にも、宮古の人たちは屈することなく、極めて精緻な上布を育んできました。薄く透けているため、蝉の羽にもたとえられるその風合いの秘密は、非常に細い糸にあります。クモの糸かと見紛がうその糸は、苧麻の繊維を爪の先で極限まで細く裂いたものを使います。また、ロウをひいたようだと称されるその光沢は、木槌で布を強くたたき込むことで生み出されます。
その独特の製法の一つひとつに高い技術が要求されるだけに、簡単な仕事ではありません。宮古上布特有の艶出しの仕上げを洗濯と呼びますが、5kg近い木槌で布をまんべんなく打ち、昔から、1反を仕上げるのに2万5000回はたたくと言われます。また、糸紡ぎでは、アワビの貝殻でしごくようにして芋麻の繊維を取り出し、爪の先で細かく裂き、つなぎ合わせて1本の糸にしていきます。半反分の糸を作るのに、3カ月はかかると聞きました。
取材させて頂いた伝統工芸士のお二人、平良純邑さんも崎山カニメガさんも、1993年当時で既に80代。こうした職人さんの高齢化もあり、2000反を作っていた1950年代をピークに生産数は減少を続け、2002年には10反まで落ちたと言います。危機感を抱いた行政により織物組合の再建委員会が設立され、組織の立て直しと後継者育成を図ったことで、今では約20反まで回復しています。そして現在、苧麻の栽培から糸紡ぎ、絣締め、染め、砧打ちの全行程を宮古島で一貫して行う生産体制を維持し、宮古上布の品質の保持に努めているそうです。
悲惨な歴史にも負けず、宮古の人々のアララガマ精神で生き続けてきた宮古上布。ぜひ伝え残してほしい織物です。
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