人の心の温もりを伝える北国の手技・南部裂織
かつては、大人の単衣がすり切れると、傷んだ部分をとって子どもの着物にしました。それが破れるとつぎあての布にし、布地が弱ったものは数枚重ねておむつを作り、おむつから雑巾にしました。布が糸くずになるまで使い、更にそれをまとめて、布団の綿代わりにしました。
使い捨て時代の今日からは想像も出来ませんが、つい最近まで、日本ではそれが当たり前に行われていました。
特に、綿花栽培地と異なり、綿花の出来ない北国の人々は、木綿布、木綿糸に対する執着もかなり強いものがありでした。江釣子の南部裂織も、そんな北国の人々の生活の知恵から生まれた織物なのです。
北上市の黒沢尻は、北上川の舟運で栄えた港町でした。ここに関東や関西方面からの古着が、荷揚げされていました。江釣子の年配者に聞くと、戦後しばらくまで、北上市には、古着屋がたくさんあったそうです。
そうした古着を利用して、各家庭で裂織が織られていました。戦後、家の建て替えが盛んに行われた頃、江釣子の家々からは、必ずと言っていいほど、手機が出てきたといいます。裂織とは、それだけ生活に密着した織物であったのです。裂織は、古着を裂いて糸に使うわけですから、当然、厚手の布になります。それは、冬の長い、北国の人たちにとって、恰好の防寒着になりました。はんてん風に仕立てて仕事着にしたり、丹前などにして、寒さをしのいだのでしょう。昭和に入って、一般農家に炬燵が普及すると、それは炬燵掛けとなって、やはり人々の生活の中に溶け込んでいました。
しかし、交通手段の発達と、繊維の流通が盛んになると、裂織の必要性も失われ、この手仕事は、いつのまにか姿を消していました。そんな中で、いち早く、裂織の復活を志したのが、江釣子の沢藤隆助さんでした。
沢藤さんは1960(昭和35)年、村の文化祭にたまたま展示された裂織に魅せられ、さまざまな研究を重ねた後、現在の南部裂織を育て上げました。更に、その子邦夫さんが跡を継ぎ、織元平太房として伝統を守っています。
「緯糸に古着を裂いた布を使っているので、経糸と絡んだ時にどんな模様に変化するのか想像がつかない。でも、偶然の美というか、計算されない自然の色合いが現れる。それが裂織の面白さですね」と、沢藤さん。美を意識せず、1枚の布を織り上げることを目的にした裂織。しかし、そこには用の美とも言える、人の心の温もりを感じさせる自然な美しさが生まれます。
コメント
コメントを投稿