江戸情緒を色濃く伝える小江戸の町並み

川越は古くから、小江戸と呼ばれてきました。

徳川家康の関東入り以来、川越は江戸城の北の守りの一つとして重要視されました。そのため、川越城は酒井氏、堀田氏、松平氏、柳沢氏ら大老・老中格の譜代や親藩の大名が代々城主を務めました。川越は、その城下町として栄え、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信網の時、行政区画が定められ、ほぼ現在の町が形成されました。

また、川越は江戸から40kmと近いこともあり、大消費地・江戸へ大量の物資を輸送する役目も担っていました。松平信綱による野火止の新田開発もそのためのものでした。交通路も川越街道に加え、新河岸川舟運の水路が整備され、川越から江戸へ、米穀、サツマイモ、醤油、炭、建材などを始め、川越織物などの特産物が運ばれました。

こうして川越は、商業地としても大いに賑わい、また江戸の文化がすぐに伝わるようになりました。その影響は建築様式にも現れ、1720(享保5)年以降、江戸に耐火建築の蔵造り商家が建ち並ぶようになると、川越でも蔵造りが目立つようになりました。

もっとも、今日残るものは、1893(明治26)年の川越大火後に建てられたものです。この時の火事では、市街地の3分の1を焼失しましたが、川越商人の富と力によって、更に重厚な耐火建築の蔵造りの店が復興されました。

その後、川越は第二次大戦の空襲を免れ、明治の建築とはいえ、江戸の面影を色濃く伝える町並みをそのまま残すこととなりました。

川越には現在、JR埼京線、西武新宿線、東武東上線の3線が乗り入れています。この中で、蔵の町並みに最も近いのが、西武新宿線の本川越駅。駅から北へ向かって歩くと、20分ほどで蔵の通りに出ます。この通りは、日本一重厚な町並みと言ってもいいほど、蔵造りの店が建ち並びます。

しかし、池袋からは急行で30分。都心に近いだけに、人口も増え、今や35万都市の川越。蔵の通りの交通量も、かなり多くなっています。江戸時代の面影を残すのは町並みだけで、通りには乗用車やバス、トラックがひっきりなしに走っており、ちょっとつや消し。欲を言えば、迂回路を作ってほしいところです。

蔵の通りから一歩脇道を入ると、川越のもう一つの顔に出合えます。表通りの重厚な町並みとは一変、昔懐かしい駄菓子屋が軒を連ねています。

この辺りは江戸時代、養寿院の門前町として栄えた所で、明治の初め、鈴木藤左衛門という人が、ここで駄菓子作りを始めたといいます。明治後期からは、のれん分けにより店の数が増え、また大正時代に入ると、東京・神田や浅草、錦糸町の菓子問屋が関東大震災により焼失してしまった影響もあり、川越の菓子製造が盛んになりました。

菓子屋横丁の最盛期は昭和初めで、70余りの店が軒を連ねていました。今は20軒ほどになっていますが、平日でも家族連れを始めお年寄りから子どもまで、多くの人で賑わっています。


その中の一軒「田中屋」は、店内に駄菓子の資料館があり、無料で見学出来ます。この店では、「お芋のソフトクリーム」「焼きいもコーヒー」「いもラーメン」など、川越の名物サツマイモを使った珍しいメニューもあります。

また、菓子屋横丁とは別に、表の蔵の通りにはサツマイモを使った和菓子屋も数軒あり、お土産に求める人も多いようです。川越にはJR埼京線快速で新宿から55分、西武新宿線急行で新宿から1時間、東武東上線急行で池袋から30分。蔵の通り、菓子屋横丁、喜多院、本丸御殿などを巡るには小江戸巡回バスが便利です。

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