経の和紙と緯の絹糸が彩なす錦織り

有明海に面した城下町・鹿島。江戸時代、佐賀鍋島家の支藩、鹿島鍋島家2万石の居城が築かれ、今日の市街地形成の端緒を開きました。

その鹿島藩の殿中で生まれ、藩主夫人を中心に、その側近たちによって伝承された錦織りがあります。経が和紙、緯が絹糸という一風変わった織物「鹿島錦」です。一般には、佐賀錦と言った方が通りはいいかもしれませんが、藩とは逆に、錦は鹿島が本家となります。

江戸後期、第9代藩主夫人柏岡が、病の床に臥していた折に、網代天井のおもしろさを身の回りの品に応用出来ないものかと考えたのが、鹿島錦の初めだといいます。その後、経紙として和紙に金箔、銀箔を貼ったものを使ったり、緯糸に金糸、銀糸、彩糸を使ったりして、徐々に改良され、豪華な手織りの実用品となりました。鹿島藩から佐賀本藩へも伝わりましたが、藩主夫人が考案した錦だけに、藩外に漏らされることはなく、歴代夫人や御殿女中などによって受け継がれました。そういう意味では、織物というよりも、趣味的な手芸であったという方が適当かもしれません。

1910(明治43)年、ロンドンで開かれた日英大博覧会に出展され、初めて一般の人々の注目を集めることになりました。しかし、この時、佐賀を代表するという意味からか「佐賀錦」と名付けられ、以来こちらの名の方が一般的になってしまいます。

もっとも、存在が知られるようになっても、製作が一般に普及するようになるのは、昭和も戦後になってから。いくつかの同好会が生まれ、鹿島でも1969(昭和44)年、主婦らを中心に鹿島錦保存会が作られました。更に、1985年から鹿島市内の中学校でも必修クラブに採リ入れられたり、高校の授業に採用されたりして、保存会の会員がその指導に当たりました。

藩主夫人ら一部の人たちの楽しみでしかなかった鹿島錦も、今では、だれもが技術を覚えられる時代になりました。それでも変わらないのは、手織りであるということ。その手間たるや並大抵ではありません。幅20cmぐらいで長さ1cmを織るのに、たっぶり2時間はかかるといいます。そうした手織リだからこそ、温かみ、柔らかみが出るのでしょう。

今、鹿島錦保存会の会員の作品は、日本三大稲荷の一つ、祐徳稲荷神社の外苑にある祐徳博物館で輝きを放っています。

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