山紫水明の渓谷に伝統の技が息づく木彫りの里
滋賀県北東部、琵琶湖東岸の町・米原。古くから交通の要衝として栄え、現在も新幹線停車駅の米原は、東海道・北陸両線の連絡駅となっています。また、国道8号と同21号の分岐、名神高速道路と北陸自動車道のジャンクションもここにあります。
米原にはもう一つ、東海道本線・醒井駅があります。古来、中山道61番目の宿駅として賑わった町です。この宿場の東の入口に、清らかな湧水があります。『古事記』や『日本書紀』に見られる「居醒の泉」だとされ、『十六夜日記』を始め古くから多くの書物に書き残されています。
湧き出た水は、地蔵川となって街道筋を流れます。川には釧路湿原や奥日光・湯川などで見られるバイカモが群生しています。水温が年間14度前後の清流に育つこのバイカモが、訪れる人の気持ちを和ませ、なんともいえない趣をこの宿駅に与えています。
その醒井から鈴鹿山脈の北の端、霊仙山へ向かって3kmほど進むと、木彫りの里・上丹生に出ます。1日の平均日照が3時間といわれるほど山が迫り、その間を流れる丹生川に沿って民家が軒を連ねています。130戸ほどのうち約4分の1が、木工を生業とする家だそうです。
上丹生で木彫が始まったのは、江戸中期。堂大工・上田長次郎の次男勇助が、友人の川口七右衛門と共に京都で12年間、彫刻修業をし、帰郷して社寺彫刻や欄間彫刻を手がけたのが始まりです。その後、2代目勇助が長浜の浜仏壇の彫刻を始め、江戸末から明治中頃にかけて、木彫の村として大きく成長しました。更に明治の末、横浜で西洋家具、東京で西洋建築を学んだ宮大工の森曲水が、それらを伝統的な木彫技術に生かし、工芸として新しい流れをつくりました。森曲水の弟子の一人井尻庄一さんは、昭和元年からノミを手にし、芸術性の高い作品で上丹生の木彫の第一人者と言われました。その後、息子の宣男さん、信一さん兄弟が後を継ぎ、更に現在は孫の一茂さんが継承しているようです。取材でお会いした際、庄一さんは「木彫りは下絵がすべて」と話していました。「いい構図が浮かぶと寝食を忘れ筆を執る」と。
社寺建築の彫刻から欄間、仏像、だんじりを始めとした祭の山車や曳き物、床置、家具、仏壇など木で彫れるものは何でも彫るのが、上丹生の木彫の特色です。さまざまなものを彫るため、粗彫りも含めるとノミの種類は300種以上に及びます。上丹生にはこうした彫刻を始め木地、仏壇の飾り金具職など、30人ほどの技術者が、狭い山間の町で技を競っています。村全体が工芸に生き、技を伝えて百数十年、今日も山間の村にノミの音が響いています。
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