難病に負けず、明日に向かって走り続ける"あきらめない男" - 伊藤智也さん
■陸上男子T52(車いす:100m/400m/1500m)代表 ※写真は20年前の取材当時 |
伊藤さんが発病したのは、35歳の誕生日を迎えた3日後の1998年8月19日のことでした。医師からは10万人に1人という中枢神経系の難病、多発性硬化症だと告げられました。伊藤さんの場合、まず両脚が動かなくなりました。やがて左目が見えなくなり、左腕にも症状が現れてきました。
病気は伊藤さんから、さまざまな運動機能を奪ってしまいました。しかし、伊藤さんの前向きな性格や持ち前の明るさまで奪うことは出来ませんでした。発病から1年ほど経った1999年の夏頃には、車いすマラソンの練習も始めました。練習を続けるうち、どうせやるからには大きな大会を走りたいと思うようになり、 2000年11月12日に開催される第20回大分国際車いすマラソン大会に出場することを決めました。
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大会当日、30km地点を通過した時のことです。よし、もう少しだ。伊藤さんが、そう思った瞬間、体が車いすごと道路にたたきつけられました。
左側から抜いてきた選手との接触事故でした。左目が失明状態のため、その選手が視界に入らなかったのです。右肩に激痛が走りました。脱臼でした。が、伊藤さんはあきらめませんでした。競技係員が寄って来ました。「どうする? 棄権するか?」。係員の問いに、伊藤さんは答えました。「右肩をはめるのを手伝ってください。レースを続けます」。
30km地点での転倒後、伊藤さんは脱臼した右腕一本で車いすを操作し、懸命にゴールを目指しました。スピードは出ず、後続の選手に抜かれて行きます。彼らは追い抜く時、一様に「がんばれよ」と声をかけて行きます。両腕両脚がなく、顎を使って車いすをこいでいる選手もいました。伊藤さんは走りながら、そんな選手たちに励まされていました。そして3時間という制限時間まで残り約15分、伊藤さんは力を振り絞ってゴールに飛び込びました。
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このレースをきっかけに、伊藤さんは本格的に陸上競技に参戦。2002年には、日本選手権シリーズのマラソン、5000m、1500mの各種目で優勝を飾っています。また、国際大会にも出場し始め、2003年の世界選手権では400m、1500m、マラソンの3種目で金メダルを獲得。
パラリンピックには2004年のアテネから、2008年北京、2012年ロンドンと、3大会連続で出場。このうち北京では400m、800mで金メダル、ロンドンでは200m、400m、800mで銀メダルを獲得しています。
ロンドン・パラリンピック後、いったん現役を引退しましたが、東京パラリンピックへの出場を目指し、2017年に現役復帰。2019年の世界選手権で、銀メダル1個、銅メダル2個を獲得し、東京パラリンピックの代表に内定しました。
が、好事魔多し。寛解期が4年ほど続き、症状も安定していた多発性硬化症が、2019年11月に再発しました。早期に治療に入れたものの、左手には以前よりも更に進んだ障害が残りました。脱力に加え、目視しないと手の位置を把握出来ないほどでした。
更に12月になって、中国・武漢で原因不明の肺炎が確認され始めると、伊藤さんは命の危険を感じ、半年以上、ほとんど自宅から出ないまま過ごしました。ただ、その間も自宅で毎日6時間のトレーニングを続けました。この8月16日に58歳となり、「"おっちゃんの星"として、がんばらなあかんな」と話します。
「絶対にあきらめない」が信条の伊藤智也さん。パラリンピックでの活躍に期待したいと思います。
※開幕直前に行われた国際クラス分けの結果、伊藤さんは障害が一つ軽いT53へ変更となりました。その結果、初戦が8月27日だったT52の400mから29日のT53の400mに日程も変更されています。大会本番の競技も経過観察に含まれ、T52クラスに戻る可能性もわずかにあるとのことで、再変更となった場合は29日の夜、T52の1500mに出場予定です。
【成績】8月29日11時34分に行われたT53男子400m予選で、伊藤さんは57.16のパーソナルベストを出しましたが、惜しくも予選突破はなりませんでした。しかし、エントリーしていた競技クラスT52であれば、この記録は銅メダルに相当します。開幕直前のクラス変更にもかかわらず感謝の気持ちでスタートに臨み、夜のT52-1500m出場への可能性も含め、最後まで諦めずに走りきった伊藤さんに敬意を表します。
●競技日程:陸上T53クラス(車いす)→8月29日400m(T52に戻った場合 8月29日1500m/9月2日100m予選/9月3日100m決勝)
NHK 東京2020パラリンピック 出場選手インタビュー |
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