銘菓郷愁 - 江戸へ13里の味「芋せんべい」 埼玉県川越


「芋せんべい」は、甘藷を原料とした和菓子です。甘藷は今でこそ珍しくもなんともありませんが、もともとは中南米が原産地と言われ、全世界では数百種もあるそうです。我が国には、まず、今の沖縄に伝わり、次に薩摩に渡って、中国・関西方面で栽培されるようになります。

関東・東北方面に広がったのは、18世紀に入ってからでした。特に1735(享保20)年に、学者の青木昆陽が、幕府の命令で小石川の薬草園に甘藷を試植し、それが普及のきっかけになりました。サツマイモの普及を図った昆陽は、その後、甘藷先生と呼ばれるようになりました。

1751(寛延4)年には、川越藩主の奨励で、今の所沢市に住んでいた名主が甘藷栽培を開始し、やがて関東一円に広がっていきます。関東一帯はローム層でしたから、日照りの夏はろくに作物が出来ず、悩みのたねでした。けれども、甘藷は日照りに強く、イモが土中で育ちますから、いざという時の食べ物としても貴重なものでした。

こうして甘藷は一般に普及し、1790年代になると、江戸の町々にも焼き芋屋が増え、木戸番小屋でも売るようになりました。この時、本郷4丁目の木戸番が、味がクリ(栗=九里)に近いというので、しゃれて「八里半」という看板を出したそうですが、後になるとクリより(四里)うまいということで、「十三里」としゃれる人も出ました。

このしゃれにあやかるわけではありませんが、江戸・日本橋から13里の所が川越市の札の辻で、昔、役所の制札を掲げた四つ辻です。この辻に続く蔵の街のほぼ中央にあるのが、和菓子舗亀屋榮泉です。「芋せんべい」は、この地で初めて作られたもので、甘藷は明治の頃に作り出された「紅赤」種を使っています。「紅赤」は、川越イモの名を全国に知らしめた良質のイモで、大正時代には全国に普及し、何よりも食味抜群のイモとされましたが、育てにくい優良児とも言われています。

その「紅赤」のイモを薄く切って、両面に黒ゴマをまぶし、鉄板で焼いて、表に砂糖蜜をぬって「芋せんべい」が出来上がります。原料となる「紅赤」は生のイモを切っていくわけですが、亀屋榮泉では、スライス機も自ら開発した独自のものを使っているそうです。大正時代には、当時の宮内省からも注文を受け、甘藷菓子の名を高めました。蜜の甘さにひたっていると、甘藷の馥郁とした甘さが湧き上がってくる素敵な銘菓です。

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