銘菓郷愁 - 明治生まれの風雅「黄金芋」 東京都日本橋


和菓子は、明治に入ってから急速に変化したと言われます。それまで、菓子は京都が本場とされ、江戸時代の末期になっても、江戸の高級菓子店は、看板に「京菓子」の標示をしていたそうです。1886(明治19)年に創業し、「黄金芋(こがねいも)」を創製した壽堂が「京菓子司」を名乗ったのも、その伝統を引き継いだからでしょう。

明治になって、文明開化の波が押し寄せると、菓子の上でも変化が起こり、東京でもさまざまな独創品が生まれていきます。「黄金芋」も、そのようなユニークな菓子の一つでした。

「黄金芋」は、どら焼きなどと同じ焼菓子の一種で、小麦粉と鶏卵、砂糖で作った皮で餡を包み、それにニッキの粉をまぶして、火炉に宙づりにして焼き上げたものです。餡は、白インゲン、卵黄、砂糖で作られ、皮にも餡にも鶏卵が活用されています。

皮は、芋の皮に似せてあり、焼き上がった形が焼き芋に似ているところから、この菓子の名も生まれました。焼き芋は、今でこそスーパーでも売っていますが、少し前までは屋台の石焼き芋屋でしか買えませんでした。しかし、江戸では18世紀の頃からもてはやされ、明治30年代になると、東京には850軒近い石焼き芋屋があったそうです。「黄金芋」は、この人気食品をかたどって、高級菓子に仕上げた独創品だったわけです。

「黄金芋」の味を引き立てているニッキは、よく知られているように古代エジプト以来の代表的香料で、漢方医療では、樹皮を乾かしたものを「桂皮」と呼び、発汗、解熱、健胃剤などに使いました。菓子の原料としてもよく利用され、京名産「八ツ橋」にも、味を整える原料として使われています。

江戸と京都では、餡も違いました。京都では、小豆を使った餡が好んで作られましたが、武士の都、江戸では、小豆は煮ると腹が割れるということで嫌われ、代わりの豆が使われました。ですから、京菓子と江戸菓子では、微妙に味が違っていたともいいます。

インゲン豆の餡を使った「黄金芋」は、その点では江戸の流れを継ぐものですが、ニッキで包むことで、江戸と京都の味の調和を図ったことにもなります。

「黄金芋」は、和紙でくるんだ和菓子です。包みを開くと、ニッキが香り、口に含むと、控えめな餡の甘さが、香りにとり巻かれて流れる銘菓です。

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