発祥の形にこだわったきんつば「肥後鍔」 熊本

肥後鍔

きんつばというと、四角いものを思い浮かべる人が多いと思いますが、元は丸型でした。しかも、最初は、きんつば(金鍔)ではなく、ぎんつば(銀鍔)だったというのです。

江戸前期の天和年間(1681 - 1684年)に、京都の清水坂辺りの屋台で売られた焼き餅が、庶民の間で流行しました。小豆餡を米粉の生地で包んで焼いたもので、その色と形が刀の鍔に似ていたことから「銀鍔」と呼ばれました。

それが、享保年間(1716 - 1736年)に江戸に伝わり、米粉を小麦粉に変えて焼いたところ、焼き色が付いたことで、「銀より金の方がいい」と、「金鍔」と名付けられたと言われます。江戸時代には、「流石武士の子金鍔を食べたがり」といった江戸川柳もあって、金鍔は、江戸の代表的な菓子になっていたようです。

その後、明治になって、神戸元町の紅花堂(現・本高砂屋)の創業者・杉田太吉が、金鍔を改良して角型のきんつばを考案。これが徐々に広がり、本家も分家もしのいで、一般的になったとされます。一説によると、丸より四角の方が効率よく衣を付けることが出来、一度にたくさん焼けるようになったからだと言われています。

ところで、このブログに何度か登場している甘党の夏目漱石先生も、もちろん金鍔がお好きだったでしょう。小説『坊ちゃん』の中で、主人公のことを「坊ちゃん」と呼んで可愛がる下女・清について書きながら、「(略)折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる」と、さりげなく金鍔のことに触れています。紅花堂が、角型の「きんつば」を売り出したのは、1897(明治30)年のことで、『坊ちゃん』が発表された1906(明治39) 年に、丸か角か、どちらが一般的だったかはかなり微妙なところですが、子どもの頃の思い出であれば、間違いなく丸型だったはずです。

そんな中、日本橋にある榮太郎本舗は、幕末の頃、屋台で金鍔を商っていたそうで、今も当時と変わらず、刀の鍔をかたどった丸い金鍔を作っています。また、他にも、発祥の丸型にこだわっている店があります。

熊本にある、お菓子の香梅です。香梅の金鍔は、以前は「まるきんつば」という名前でしたが、「刀は備前、鍔は肥後」と言われたブランド鍔にあやかり、「肥後鍔」に改名しました。

肥後鍔は、江戸時代から熊本と八代を中心に作られてきた刀の鍔です。鍔は手を防御するための刀装具ですが、肥後鍔は古今の刀装具の中でも極めて高い芸術性を持ち、武士の間ではブランド鍔となっていました。それは、利休七哲の一人で、戦国武将一の芸術家と言われた細川忠興(三斎)の指導と、忠興に従って肥後に入った平田彦三を始めとした金工師たちによって生み出されました。

ちなみに、忠興の子・忠利によって熊本藩に迎えられた宮本武蔵も、鍔を作鍛しています。武蔵も、肥後藩お抱えの金工師たちと交流があったのでしょうか。

熊本のシンボル熊本城に、選りすぐりの熊本グルメが集まる「桜の小路」という観光施設があります。その中にある「香梅庵」では、「肥後鍔」とお茶の茶屋セットが100円で味わえ、人気になっています。「肥後鍔」は、北海道の大納言小豆を阿蘇の伏流水で炊いた上品な餡が、味の決め手となっています。

※香梅は、明治時代にいったん途絶えた伝統菓子「加勢以多」を、戦後に復元した山城屋が1995年に廃業した後、98年に再復刻した店でもあります。「加勢以多」の表面に刻印されている九曜紋は、江戸時代には無く、山城屋が始めたものでしたが、そのデザインも継承しています。→銘菓郷愁 - マルメロを包む「加勢以多」 熊本

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