銘菓郷愁 - 近江源氏の悲話秘めた「うばがもち」 滋賀県草津


草津は、東海道と中山道の分岐点にある宿場町として栄えました。五街道のうちの重要な二街道が交差する宿場ですから、そのにぎわいも格別だったようです。

1843(天保14)年の調べでは、草津には72軒の旅籠屋がありました。これは、近江地方の東海道・中山道沿いの宿場町としては、最大規模のものでしたから、その交通量の多さも推察出来ようというものです。

そのにぎわう宿場町で有名だったのが「うばがもち」で、江戸時代の旅行案内書にも、名物として記されています。

近松門左衛門の世話物の作品に『丹波与作侍夜の小室節』というのがあって、その中の道中双六の台詞にも「うばがもち」が登場します。

「ここで矢橋の舟賃が、出舟召せ召せ旅人の乗りおくれじとどさくさ津、お姫様よりまずうばが餅・・・」

江戸の頃から有名だった草津の「うばがもち」には、近江源氏の悲話が絡んでいます。

室町時代後期の近江の守護大名に、近江源氏の佐々木氏(六角氏)という一族がいました。この一族は、六角義賢の代に、足利将軍を支え、観音寺城に拠って織田信長と戦います。けれども戦いに敗れ、義賢とその子義弼は甲賀に逃れて、更に抵抗しますが、とうとう1570(元亀2)年に降伏、一族はちりぢりになってしまいます。

一族離散の中で、3歳になる義賢の曽孫を守って逃れたのが、福井殿と呼ばれていた乳母でした。乳母は六角氏の血につながる子を連れて、自らの故郷である草津に潜み、それからは、街道を行き交う人々に餅を売って、遺児を育てたといいます。

このことは、次第に道行く人々の間で評判になり、餅もだれ言うとなく、「うばがもち」と呼ばれるようになりました。

言い伝えでは、大坂城が落城した頃(1615年)にも乳母は84歳で健在だったそうで、草津を通った徳川家康に餅を献上して、長寿を称えられたそうです。こうして「うばがもち」は、一躍有名になっていきます。

往時をしのぶ「うばがもち」は、乳母の乳房になぞらえた形で、草津産の有機もち米を使って切餅にし、それを、こし餡で包み、その上に砂糖をポッチリと乗せてあります。伝統の味を今に伝えた見事な甘さに驚かされます。

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