キャラメルのような干し芋「ひがしやま」 高知県大月町
漢字で書くと「干菓子山」。高知では誰もが知っている干し芋で、中でも大月町竜ケ迫産は絶品と評判です。通常、干し芋というと、スライスした平たい芋(平干し)を思い浮かべる人の方が多いと思いますが、高知の「ひがしやま」は、そのまま干す丸干し派です。
そもそも、干し芋は、静岡県で誕生したもので、それが茨城県に伝わり、爆発的に広がります。そこには、海での遭難が絡んでいます。
江戸も後期に入った1766(明和3)年、薩摩の御用船が駿河の御前崎沖で座礁。その乗組員を大澤権右衛門親子が助け、お礼の金20両を断り、代わりに船にあったサツマイモの種芋を分けてもらい、栽培方法も伝授されました。その後、サツマイモは近隣にも伝わり、1824(文政7)年には、御前崎の付け根辺りにある白羽村(現・御前崎市)の栗林庄蔵が、ゆでたサツマイモを薄く切って干す「煮切り干し」を考案。更に1892(明治25)年頃、天竜川の右岸にある大藤村(現・磐田市)の大庭林蔵と稲垣甚七が、サツマイモを蒸して厚切りにして乾燥させる「蒸切り干し」を考え出し、今日につながる干し芋が誕生しました。
一方、現在の主産地・茨城県に伝わったのも、船の遭難がきっかけでした。1888(明治21)年、阿字ケ浦(現・ひたちなか市)の照沼勘太郎が、静岡県沖で遭難。助けられた土地で見た干し芋をヒントに、1895(明治28)年から見よう見まねで干し芋作りを始めました。その後、1908(明治41)年になって、阿字ケ浦の小池吉兵衛と、湊町(現・ひたちなか市)の湯浅藤七が、本格的に干し芋の製造を開始。これをきっかけに各地で生産が拡大し、今では総生産量の約9割を茨城県が占めるまでになっています。
で、高知の「ひがしやま」ですが、これは、そんな干し芋の概念を完全に覆すシロモノです。いつ頃から作られているのかは分からないのですが、地域によって「ほしか」とか「ゆでべら」とか、いろいろな呼び名があるらしく、結構、古くからあるようです。
「ひがしやま」の語源については、「干してかちかちにするという意味の古い土佐弁『ひがちばる』」からきているという説もあります。でも、大月の「ひがしやま」は、「かちかち」とはほど遠いので、少なくとも大月バージョンは、「ひがちばる」ではなさそうです。また、漢字は「東山」とも書くようですが、大月町のある幡多郡に、かつて東山村(現・四万十市)があったので、もしかしたらこの地域が、何らかの鍵をにぎっているかもしれません。
大月の「ひがしやま」には、通称ニンジンイモと呼ばれる「紅ハヤト」という品種が使われます。焼き芋にするとベチャベチャでおいしくないようですが、干し芋には最適。竜ケ迫では海岸沿いの段々畑でこの芋を作っています。
冬場、収穫した芋を丁寧に水洗いした後、皮をむいて、大鍋で4、5時間炊き上げます。添加物は一切無し。ゆで上がった芋は一つひとつ形を整えてから、2〜3週間かけてじっくりと天日で干します。その間、冷たい潮風が吹き付け、芋は徐々に甘みを増していきます。
こうして手間暇掛けて作られた「ひがしやま」は、つやつやと光沢のある飴色をしています。更に一口食べて驚くのが、その甘さと軟らかさ。まるでキャラメルを食べているようです。また、少し火であぶった熱々の「ひがしやま」も捨てがたいおいしさです。一度は食べてみたい伝統的和風スイーツです。
私は、「道の駅 ふれあいパーク・大月」で買いましたが、東京・銀座にある高知県のアンテナショップ「まるごと高知」でも見掛けたことがあります。季節になったら、ここでも購入可能かと思われます。「まるごと高知」は、東京メトロ有楽町線銀座一丁目駅3番出口前、沖縄のアンテナショップ「銀座わしたショップ本店」の隣です。
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