子どもの頃の思い出と共に息づく麦わら帽子

かつて埼玉は、日本一の麦の生産県でした。県東部、庄内古川(中川)と古利根川に挟まれた肥沃な沖積平野に開けた春日部も、古くから麦作りが行われていました。そして、これら麦稈(麦の茎)を利用した麦わら真田作りの副業も盛んだったようです。

麦わら真田というのは、麦わらを真田紐のように編んだもので、明治初めまで川崎大師の土産品として使われていました。主産地は岡山、広島などでしたが、春日部のものは茎に模様があることから「蛇身真田」と呼ばれて珍重され、川崎や東京・大森などに出荷されていたといいます。

『東海道中膝栗毛』にも「大森といへるは麦藁ざいくの名物にて、家ごとにあきなふ」と書かれており、江戸の頃から、大森は麦わら細工で有名だったことがうかがえます。明治に入ると、その大森で麦わら真田を使った帽子が作られるようになります。横浜にいたアメリカ人の勧めで始まったものといい、1878(明治11)年、大森の島田十郎兵衛が麦わら帽子を作り始めました。

1871(明治4)年に散髪脱刀令が出され、斬髪が進むと同時に、帽子が普及し始めました。1872(明治5)年11月号の『新聞雑誌』は関西方面の斬髪流行を取り上げ、「これがため、大坂、神戸の洋品店にありし帽子一時に売り尽くしたり」と伝えています。斬髪の恥ずかしさを帽子でカバーしようと、帽子は飛ぶように売れました。

その波は、麦わら真田の供給地であった春日部まで押し寄せ、1880(明治13)年、春日部でも麦わら帽子の製造が始まりました。最盛期には、春日部を中心に150の業者、約1万人が帽子製造に携わり、産地として全盛を極めました。と同時に、麦わら帽子は庶民の生活の中に浸透していきました。

多くの人は、麦わら帽子と言えば、夏を思い出すのではないでしょうか。子どもの頃の夏休みの思い出の中に、麦わらの帽子をかぶった自分がいたります。

「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね? ええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで、籍谷に落としたあの麦程帽子ですよ」

これは、西条八十が子どもの頃、母親に連れられ霧積に行った時の思い出を綴った詩ですが、麦わら帽子には、子どもの頃の思い出を象徴するような、不思議な語感があります。

↑帽子の木型もそれぞれのデザインに合わせて作られます(田中帽子店)

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