日本古来の民具・土佐檜笠の伝統を守る

本山町は四国の真ん中、太平洋と瀬戸内海からほぼ等距離にあります。四方を山に囲まれた要害の地である上、平地部にも恵まれていたため早くから開け、伊予から土佐に至る官道が通っていました。戦国時代には土佐七人衆の一人・本山氏の本拠地として、江戸時代には野中兼山の支配地となって宿駅として栄え、現在も嶺北(剣山地の北一帯)の中心地となっています。

この町で、日本の伝統的な民具を取材したことがあります。かつてはどこにでもあったもの、笠です。

本山の笠は、吉野川上流、県立自然公園にも指定されている白髪山一帯に広がる良質なヒノキを材料としていました。もともとは、田植えの時などにかぶる農務用に作られていました。が、明治以降は観光用としても使われるようになり、需要が広がりました。

更に、昭和初期にはアメリカへも輸出され、クーリーハットの名で親しまれました。輸出用は多い時には20万個にも上り、外貨獲得、貿易への貢献大として、通産大臣から表彰を受けたこともありました。

取材した時は、日本各地の川下り(球磨川、保津川、木曽川、天竜川、猊鼻渓等)や富士登山、四国霊場巡り、あるいは日光和楽踊りなどで使われていました。いずれも有名な観光地のものなので、過去に本山の檜笠を買われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

今からちょうど420年前の1601(慶長6)年に、山内一豊が遠州・掛川から土佐へ移封されて来ました。この時、家老を務めていた山内刑部(永原一照)が、1300石を与えられて本山城に入りました。槍笠は、刑部と共に、本山へ入った人々により始められたと伝えられます。

工程は、まず丸鋸機で平角材を木取りし、割れ防止と削りよくするため水に漬けます。次に、動力を利用したスライサーで同時に数本の経木を削り出し、幅揃えと材料選別をして数十個分ずつ束ねます。

編組作業は、近所の農家が副業的に行っており、手編みと機編みがありました。この編み方にも数種類あって、それぞれ分業化されていました。

編織されたものは正方形ですが、これを笠用に裁断し、ミシンで縫い合わせます。そして、上縁用の力竹を取りつけ、台に乗せて端を切り落とし、笠型に整えます。更に縁取り用の竹を取りつけ、紐掛けをして完成となります。

この槍笠、かつては嶺北一帯20以上の市町村で作られていました。しかし、新材料の登場や嗜好の変化により需要が減った上、後継者不足もあって、30年前の取材時には、本山に1軒が残るのみとなっていました。その1軒も、主人の岩本幸雄さん(当時72歳)と職人の岩本早雄さん(当時73歳)の二人だけ。幸雄さんは、「手間がかかる割には金にならないし、今の若い人たちには嫌われる仕事ですよ。我々の代で絶えてしまうでしょう」と話していました。


今回、記事を書くために調べてみましたが、本山町で檜笠に関連する資料は見つけられませんでした。400年の歴史を持ち、富士登山を始め有名観光地で使われていた土佐檜笠は廃絶してしまったようです。

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