吉野ケ里を見下ろす霊場背振山に日本の茶の源流を求めて
日本における茶の歴史は、確実な史料の上では平安時代にまでさかのぼることが出来ます。遣唐使を送るなど、唐文化を盛んに移入していた日本は、茶もまた導入し、宮廷に茶園まで作っていたようです。
しかし、貴族社会の衰退と共に、茶の文化もいったん廃れたと考えられています。その後、現在に結びつく形での茶の歴史は、鎌倉時代の栄西禅師によって、改めて開かれたというのが、通説となっています。
栄西禅師は、臨済宗の開祖として知られますが、1191(建久2)年、宋からの帰国に際して、茶の種子を持ち帰りました。そして、その種子を、佐賀県の脊振山に播いたといいます。
脊振山は、佐賀県と福岡県の境にあります。昔は、九州屈指の霊場として知られていました。山頂には、海路の神として弁財天が祭られ、かつての大陸との交通史を物語っています。伝教、弘法、慈覚らの諸大師が唐に渡る際には、必ず脊振山に参拝し、祈願したといいます。山頂の弁財天を上宮、709(和銅2)年に元明天皇の勅命で開かれた霊仙寺を中宮、麓の坂本修学院を下宮とし、この一帯は「脊振千坊」と言われるほど栄えたと伝えられます。
栄西禅師が、宋から持ち帰った茶の種子を播いたのが、その霊仙寺の西の谷・石上坊の庭であったと言われます。坂本修学院に残る江戸後期の史料には、当時、霊仙寺一帯には九反五畝(約95アール)の茶園があったと記されています。
霊仙寺跡のある吉野ケ里町(旧東脊振村)松隅坂本には、かつて「チャガエ」という風習がありました。チャガエとはもちろん、茶替えの意味で、明治の末から大正の初め頃、この辺りでは自家製茶のうち上茶は仲買人に売り、質の落ちる茶は、女たちが近隣の村に持ち出し、塩、砂糖、綿などと替えたそうです。栄西ゆかりの地だけに、そんな風習があったことも興味深いですね。現在は、吉野ケ里町東脊振で作られた自家製茶のうち、上茶は「栄西茶」のブランドで販売されています。もともと小規模な茶園が多いため、販売用は非常に少ないのですが、吉野ケ里町のふるさと納税返礼品になっているので、興味のある方は検索してみてください。
さて、霊仙寺と茶園の今はどうなっているかというと、昔日の面影はほとんどありません。霊仙寺跡には祈祷所として乙護法堂が建ち、その前の南向きの斜面に、わずかな茶園が残るのみです。が、戦後、この辺りに植林された杉を間伐すると、その後から茶の木が顔をのぞかせます。それこそが、栄西禅師の茶樹の名残なのかもしれません。
※3枚目の写真は、取材当時、東脊振の武廣邦敏さんが、自家製茶のために使っていた昔ながらの釜。茶樹は田圃の脇や庭先に自生しており、かつては多くの家で釜妙り茶が作られていたそうです。
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