渡良瀬川と利根川に育まれた関東平野の城下町

古河市は茨城県の最西端、埼玉、栃木、群馬の各県境に接し、関東平野のほぼ中央にあります。室町時代に、第5代鎌倉公方の足利成氏が、鎌倉から古河へ本拠を移し、古河公方を称して館を構えて以来、北関東の経済、文化、軍事の中心地となっていました。

江戸時代には、古河は将軍が日光東照宮に参拝する際の宿泊所となりました。また、利根川という天然の要害を持つ地であったため、古河城主には、有力な譜代大名が配されました。

結局、徳川家譜代の中でも、常時重要ポストを担ってきた土井氏が16万石を領しておさまり、明治までその城下町として発展。更には、日光街道の宿場町、利根川と渡良瀬川の両河川を控えた河港町としても栄えました。

この古河市、実は市の面積に占める河川敷の割合が、全国一なのだそうです。利根川に、渡良瀬川と思川が注ぐ、いわば川の町だけに、河川敷の広さも相当なもの。なにしろ市の面積の4分の1が、河川敷で占められているのです。

これらの河川敷は、市民の憩いの場として利用され、渡良瀬川沿いには、サッカーのグラウンドが延々と続きます。古河市はまた、全国有数のサッカー王国でもあり、小、中、高校とも全国制覇を果たしています。それを支えてきたのも、この広大な河川敷なのかもしれません。

現在、古河市を含むこの辺り一帯は、関東水系の遊水地となっています。その中心は、公害の原点と言われる足尾銅山鉱毒事件で廃村となった谷中村があった所です。この一帯は、繰り返す水害の暴威に何度も泣かされました。そのため明治政府は、谷中村を中心とした本格的な遊水池を作り、河川敷を拡張して治水対策を施しました。

こうして公害、遊水池によって村を失った人々は、水のひいた遊水地に繁茂するヨシを材料に、よしずやすだれを作り、生計を立てるようになりました。よしず作りは大正の末、海水浴が盛んになる頃から需要が激増して、生産も企業化しました。一時は古河市を中心に茨城、栃木、群馬、埼玉4県にまたがって、数百軒が生産に携わっていました。しかし、それも50年ほど前までがピークで、現在は中国産の安いよしずに押され、業者も減ってしまいました。

が、ヨシ自体はまだまだ豊富。秋には、陽光に映えて見事な黄金色に輝き、華麗な大草原と化します。晴れた日には西に富士山、北に日光男体山が望め、その景観はあたかも、ヨシを中心とした日本最大の湿原、釧路湿原を思わせるような広大なスケールを持っています。



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