球磨川「焼酎渓谷(バレー)」を訪ねる
日本三大急流の一つに数えられ、その急流を下る球磨川下りはよく知られています。また、アユ釣りの名所として、全国の釣り天狗を魅きつけていますが、シーズンなど、アユの数より多いんじゃないかと思うほど、釣り人の姿が目につきます。
寛政の三奇人の一人とうたわれた高山彦九郎は、1792(寛政4)年2月、球磨を訪れていますが、その時の様子を『筑紫日記』に「馳走有り。焼酎に鮎を肴とす」と書いています。球磨川のアユと球磨焼酎。たしかに、最高のご馳走であったに違いありません。
さて、その球磨焼酎ですが、これは球磨川流域に27(取材時は32)もの醸造元があります。人吉の下流・球磨村から、上流の水上村にかけて球磨川沿いにまんべんなく、焼酎メーカーが散らばっています。
その様は、「焼酎渓谷」という表現がぴったりです。この渓谷の人たちは、球磨川の清流の恵みを受けながら、これまで何世代にもわたって焼酎を作り、売り、そして自分たちも飲んで生活してきました。
ところで、なぜ、球磨川流域が、このような焼酎の大生産地になったのでしょうか。水がいいこともありますが、球磨焼酎は米が原料、球磨地方にはその米が余っていたからということらしいのです。人吉は、相良氏が鎌倉初期から明治維新まで、約700年にわたって治めてきた日本一古い城下町。この人吉藩は、表高こそ2万2000石という小藩でしたが、実質10万石の収入がありました。
人吉市の東端から小高い丘陵が連なります。実はその奥に、巨大な稲田が広がっているのですが、丘に隠れているのを幸い、うちはここまでと検地の役人をだましていたのです。そして、この豊かな米を原料に、せっせと焼酎を作っていました。
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取材の際、チョクと呼ばれる盃に遭遇しました。販売促進用に作ったぐい飲みのミニチュアだろうと思ったのですが、取材に協力して頂いた深野酒造の社長は、「いや、これこそが本来の球磨焼酎の盃」と。
元来この地方では、ガラという酒器に入れて、そのまま火にかけて温めたものをチョクで飲みます。そして、酔うほどに賑わうほどに、無礼講で球磨拳が始まります。
球磨拳というのは、ジャンケンに似たゲームで、負けた人が必ず一杯飲み干さなければいけません。しかも、延々続くという恐怖のゲーム。なるほどチョクで一杯飲んでもたかが知れていますが、それが球磨拳で数十回、100回と負ければ、大変な量になります。中には、必ず飲むというのがルールだからと、底を円錐状にしてテーブルに置けないようにしてあるものもあるそうです。
記録によると、かつて田山花袋はここで球磨焼酎に酔い、翌朝目をさますまで前後不覚になってしまっています。小さいからといってこのチョクを侮ってはいけません。くせ者なのです。
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