江戸中期から上総地方に伝わる金太郎の絵凧

かつては正月になると、青空に舞い上がる凧が、あちこちで見られました。凧は中国の六朝時代に盛んに行われた遊びで、「紙鳶」とも書き、日本へは平安時代、長崎に入ってきたのが最初だそうです。

その後、次第に各地へ広まり、郷土色を取り入れながら、その地方独特の凧が作られるようになりました。江戸時代に主流をなしたのは角凧で、これにはだるまや武者絵を描いた絵凧と、虎・竜などの文字を白く抜いた文字凧とがありました。

そんな角凧の一つが、房総半島中央部の市原市に残っています。上総角凧と呼ばれ、絵凧の流れをくんで、凧には金太郎の絵が描かれています。この絵柄は、江戸中期から伝わっており、上総角凧のアイデンティティーとも言える重要なファクターとなっています。

上総地方では昔から、男の子が生まれると、その子の健康と成長を願って端午の節句に金太郎にまつわる凧を贈る習わしがあり、それに角凧が使われます。この風習は、現在も変わらずに残っていますが、かつては何人もいた上総角凧の作り手は、今では小澤登さんだけになっています。

小澤さんは、代々角凧作りを受け継いできた高澤家の女性と結婚。義父の高澤文雄さんから、伝統的な技法を受け継いだ4代目で、取材させて頂いた時は、先代の高澤さんも一緒でした。高澤文雄さん自身は、学校を卒業後、小湊鉄道に勤めていましたが、定年退職したのを機に父親の跡を継ぎ、本格的に角凧作りを始めました。

凧に使う紙は、美濃和紙(岐阜県)、因州和紙(島根県)が中心。同じ和紙でも、例えば新潟の和紙は丈夫で破れにくいなど、それぞれに特長があります。それを見極めながら、凧によって紙を使い分けます。絵の具もさまざまに工夫し、凧を空に揚げて光を通した時、絵柄が浮き出るように仕上げます。

そんな上総角凧に、高澤さん自身も魅了されていたようで、「長い歴史を持つ金太郎の絵凧を正確に再現し、伝承していきたい」と話していました。幸い小澤さんが、跡を継いでくれましたし、地元の小学校を始め、各地で凧作りの指導にも励んでいて、市民の間でも上総角凧が見直されるようになっていました。

ところで、上総角凧のある五井は、高澤さんが勤めていた小湊鉄道の始発駅となっています。小湊鉄道は五井駅から、大多喜町の上総中野駅まで約39kmを結ぶ単線鉄道。市原市のほぼ中央を流れる養老川に沿って、2両編成の電車が房総丘陵をコトコトと走ります。終点の一つ手前養老渓谷駅までが、市原市です。

養老渓谷駅の周辺には、駅名にもなっている養老渓谷や梅ケ瀬渓谷など、豊かな自然が残っています。この辺りは古くから自然と共生しており、天然林に近い樹林の中を清らかな小川が緩やかに流れ、静寂な雰囲気に包まれています。お勧めは関東でいちばん遅いと言われる12月初旬の紅葉の時期。

また、この駅の南の高台にある宝林寺は、里見義堯の娘種姫が、国府台合戦で戦死した夫の菩提を弔うために建立し、尼となって晩年を過ごしたと伝えられます。滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の伏姫は、この種姫をモデルにしたものと言われます。

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