支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問

大槌町赤浜(2011年4月14日)
大槌町赤浜(2011年4月14日)

3月24日に大槌の大念寺を訪問して以来、大槌での取材が続きました。きっかけは、岩手県の被災地支援活動でハブ的役割を担っていた盛岡の事務局からの情報でした。それによると、4月11〜15日に水戸葵ライオンズクラブが炊き出しを実施、また4月14〜15日には肝油ドロップで有名な河合製薬グループの河合悦子さんが支援物資を搬入する予定とのこと。

そこで、日程が重なる14〜15日をメインに取材することにしました。ただ、その段階ではまだ東北新幹線が全面復旧していなかったので、羽田から花巻まではJALの臨時便を利用。釜石線は4月12日に復旧していたので、花巻からは鉄道を利用しました。更に、小樽の友人・西本吉幸さんが、ちょうどその頃、遠野まごころネットを拠点に大槌でボランティア活動に取り組んでいたので、西本さんと合流し、一緒に動くようにしました。

赤浜の民宿に乗り上げた観光船はまゆり
赤浜の民宿に乗り上げた観光船はまゆり

14日はまず、午前中に水戸葵ライオンズクラブがベースキャンプを張っていた大槌町総合ふれあい運動公園へ直行。ここは、自衛隊の拠点にもなっていて、被災地支援の最前線の様相を呈していました。

水戸の炊き出し隊が大槌に入った4月10日時点では、大槌町内には36カ所の避難所があり、約2200人の被災者が暮らしていました。また、避難所での生活にストレスを感じる被災者の中には、ライフラインが復旧していなくても自宅の方がいいと、浸水を免れた2階で寝起きをし、食事の度に避難所へ取り行く人も4300人ほどいました。そのため、水戸葵ライオンズクラブでは、夕食に絞って炊き出しを実施。毎日場所を変えながら、1日に1000食ずつを配食しました。

水戸葵ライオンズクラブ炊き出し奉仕
赤浜小学校で炊き出しをする水戸葵ライオンズクラブ

水戸葵ライオンズクラブが、岩手県に連絡を入れたのは地震発生1週間後ぐらいのこと。しかし、県では全く受け入れ態勢が整っておらず、しばらく話は進展しませんでした。電話をすること5回目ぐらいになり、やっと「被害が大きい大槌町でお願いしたい」との返事があり、早速現地調査へ。そして、県から指定された提供場所9カ所や水の確保、ベースキャンプの場所などを調べました。

その後、水戸市内でホテルやレストランを経営する遠藤さんが、食材や炊き出し機材を調達。それをトラック2台に積み込み、被災地での宿泊用にキャンピングカーを借りて現地に入りました。今回の活動には遠藤さんと遠藤さんの会社の社員3人、園部秀利さん、若林純也さんの6人が常駐。それに食材調達に協力してくれた友人たちや、ライオンズクラブのメンバーが交代で駆け付けました。

赤浜小学校
赤浜小学校

ご飯は当初の予定通り1000食を炊き、これにいつでも食べてもらえるよう、少し多めに1500食分のカレーを作り、温泉卵と共に配りました。取材をしたのは、4日目の赤浜小学校と大ケ口地区への配食でしたが、11〜15日の5日間で水戸葵ライオンズクラブが提供した食事は、カレー7500食、ご飯5000食、温泉卵5000個に上りました。

ちなみに、この時、知り合った若林さんは、その後、2015年9月の関東・東北豪雨では、常総市に詰めて支援物資集積所の運営を担うと共に、避難所の夕食配食を手配。また、2016年の熊本地震でも、地震発生翌日に被災地に入り、現地調査を実施。その際、沖縄のSYさんから炊き出し場所の選定を依頼されていた私は、若林さんに避難所とコンタクトを取って頂き、西原村での炊き出しにこぎ着けることが出来ました。

一方、河合さんは、支援物資を積んだトラックの助手席に乗り、7時間半を掛けて、14日の夕方に盛岡に入りました。私は、水戸の炊き出し隊を取材後、西本さんと一緒に遠野に戻り、遠野まごころネットの活動について伺った後、釜石線と東北線を乗り継いで盛岡に入り、河合さんに合流しました。

実は、震災のあった2011年3月11日に、私が取材に向かっていたのは、この河合さんが主催していた難病対策支援のチャリティー・コンサートでした。もちろん地震により、このコンサートは、ブログ(「2011年3月11日」)に書いた通り中止となりました。しかし、中止の決定を受け、出演者のアグネス・チャンさんからは出演料の全額寄付の申し入れがあり、更に前売りチケット購入者など関係各所の了承を得て、イベントの収益金の70%を義援金に振り替えました。河合さんが、まず盛岡に入ったのは、その義援金を直接手渡すためでした。

そして、翌15日には、盛岡から被災地へ向けて出発。これには、内陸部の北上市で被災地支援に尽力していた高橋晴彦さんと高橋寛さんが先導役となり同行、私は高橋さんたちと一緒に行動することになりました。一行は釜石市、大槌町、山田町を回り、それぞれ地元の皆さんの協力で物資を搬入。また、釜石市長や山田町長らとも会談し、被災状況について説明を受けました。

大槌町総合ふれあい運動公園の物資集積所
大槌町総合ふれあい運動公園の物資集積所

この時、大槌で支援物資の受け入れ窓口のなったのは、前のブログ(「地域の絆を大切に、自分が出来ることを - 大槌町大念寺」)で紹介した大念寺の大萱生修一さんでした。大萱生さんの情報で、大槌町総合ふれあい運動公園の物資集積所へ搬入。前述の通り、ここは自衛隊の拠点で、物資集積所も自衛隊が管理していたので、難なく受け継ぐことが出来ました。

山田町で支援物資の荷下ろしをした後、河合さんは、次の搬入先である宮城県と福島県に向け、再び車を走らせました。山田町で河合さんたちと別れた私は、途中まで高橋さんの車で送ってもらい、東北本線とJRバスを乗り継いで仙台へ。更に宮城交通バスで山形まで移動しました。というのも、帰りの花巻〜羽田便が取れず、山形空港から帰ることになったためです。山形駅では、天童の友人・寒河江潤一さん(「湯の香ただよう将棋の町 - 天童あれやこれや」)が迎えに来てくれ、その日は天童で被災地支援の情報交換。そして翌朝、山形空港まで送ってもらい、朝イチのJAL便で帰京しました。

大槌町赤浜(2011年4月14日)
大槌町赤浜(2011年4月14日)

その後、盛岡の事務局から山田町での炊き出し情報が入ると共に、神戸のDHさんからも釜石での被災地支援の情報が入り、東京へ戻って4日後の20日には、秋葉原から夜行バス「釜石けせんライナー」に乗って、被災地入りすることになりました。釜石では、最初の被災地取材をコーディネートしてくださった種市一二さん(「東日本大震災後、最初に訪問した被災地・釜石」)が待っていてくれ、種市さんの車で、山田町保健センターに移動。取材対象は、後のブログで紹介するので省きますが、そちらが一段落した14時頃、小樽の西本さんと一緒に、兵庫県・明石の橋本維久夫さんが登場。

橋本さんは、以前のブログ(「震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント」)で紹介したように、阪神淡路大震災以来、被災地での支援活動を実践されてきた方で、西本さんを岩手の被災地に送り込んだ張本人でした。この後、西本さんと橋本さんは、私を連れて大槌の桜木町へ移動。

赤浜の民宿に乗り上げた観光船はまゆり

桜木町は、遠野まごころネットの活動拠点の一つで、西本さんもここを中心に動いており、水戸の炊き出し隊を取材した際にも案内してもらい、町内の被災状況について説明をしてもらっていました。ただ、今回は更にピンポイントで支援拠点が絞られていて、それが、桜木町にある「ファミリーショップやはた」でした。その経緯や、その後の話をしていると長くなってしまうので、記事を改めますが、その日は、店主の八幡幸子さんに支援物資の配布拠点になってもらう約束を取り付け、翌日から物資の搬入を開始しました。

大槌町赤浜(2011年4月14日)

遠野まごころネットの物資集積所に泊まった我々は、翌朝、北海道の倶知安から駆け付けてきたONさんと合流。それぞれが運んできた寝具を「ファミリーショップやはた」の倉庫に下ろしました。その日、私は北上に泊まり、翌朝、遠野まごころネットで千葉県・松戸の高橋昌男さんと野田の髙木次雄さんと合流。お二人が、トラックに満載して来た野菜や洗濯機、自転車などを八幡さんの所へ運び込みました。高橋さんと髙木さんは、この後、私と一緒に南三陸へ行くことになるのですが(「がれきの町から踏み出した復興への歩み - 南三陸編」)、夕方に茨城県・常陸太田から、寝具やカップ麺を積んだトラックが到着するというので、高橋さんたちを大念寺や水戸葵ライオンズクラブが活動した赤浜などに案内しながら、少し時間を調整してもらい、常陸太田の荷下ろしを手伝った後、再び北上市へ戻りました。

こうして4月21〜23日まで、3日連続で大槌町桜木町の八幡さんの元を訪れ、その後、長く続く八幡詣での第一歩を記すことになりました。

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