地域の絆を大切に、自分が出来ることを - 大槌町大念寺
大念寺から望む大槌町(2011年3月) |
初めて東日本大震災の取材に入った釜石(「東日本大震災後、最初に訪問した被災地・釜石」)で、取材のコーディネートをしてくださった種市さんが、自分が住む釜石と同じように気に掛けていたのが、隣の大槌町でした。震災から1週間以上が経っていても、大槌からはほとんど情報が入っていませんでした。町自体も、死亡が確認された加藤宏暉町長ら町職員約30人が津波に流され、人口1万5000人の半数以上が行方不明と言われていました。
城山から望む大槌町(2011年4月) |
釜石側からのトンネルを抜け、津波で流された家屋や車で埋め尽くされたスーパーマイヤマスト店を右手に見て、大槌バイパスから市街地へつながる道に入った途端、恐ろしい光景が目に飛び込んできました。まさに壊滅状態でした。この惨状を見た日本赤十字社の近衛忠輝社長も「大槌は戦後の大阪や東京を思い起こさせる。全てが破壊された。赤十字社で長年働いてきたが、これは私が見た中で最悪の被害だ」と語ったといいます。
大槌町上町(2011年3月) |
「赤茶けて見えるのは火事の跡です」。そう説明しながら、種市さんは左にハンドルを切りました。その先には3階建ての最上階まで焼け焦げた大槌小学校があり、更に奥に寺の山門が見えました。「大萱生修一さんの寺です。ここだけ奇跡的に焼け残ったんです」と、種市さんが言うと、同乗していた石鳥谷の後藤成志さんらは、ほっとしたように、「ああ、大萱生さん」「去年まで海外との青少年交換で活動されていた・・・」と、皆さんご存じの方だったようで、車内の重い雰囲気が少しだけ変わったように思いました。
大念寺 |
大萱生さんは、我々を副住職を務める大念寺の本堂に招き入れ、当日の様子を話してくれました。
「最初に砂嵐のような風がぴゅーと町中を吹き抜け、そのすぐ後に、20mはあろうかという壁のような津波が一気に押し寄せてきました。2階建ての家を軽く超す波が町をのみ込み、静かになったと思ったら、今度は急に逆流し始め、家などもまるで模型のように、ものすごいスピードで飛んでいった。信じられない光景でした。とにかく、今までの常識は全く通じません。ここもやられたと皆さんから思われていたんです。火に囲まれたから。町は燃えるわ、車は爆発するわ、裏は山火事だわ……。今も電気、ガス、水道、電話、全てだめ。6時に起きて6時に寝る生活。灯油も残り少ないし。今は町の方15人と、家族5人の共同生活です」
更に、数日前まで道路がつながっていなかったため支援の手も入らず、昨日安否確認で訪ねてきてくれた内陸部の方がそれを知り、初めての支援物資を明日搬入してくれることになったと話していました。
大念寺は、町内で唯一被災を免れた寺です。震災後は宗派を問わず、全ての遺骨を預かり供養しました。震災以来、大槌に行く度に大念寺にも寄らせてもらいましたが、4〜5年が経った頃でも、本堂奥の位牌堂には檀家の位牌と並んで、80余りの骨箱が安置されていました。「檀家でなくとも、墓を流されて納骨が出来ず、町が見える所に安置してあげたいというご遺族の思いから、お預かりしています。また、身元不明のご遺骨も40体ほどあります」と、住職となった大萱生さん。
大念寺山門前(2011年3月) |
大槌では震災で、人口の1割近い1300人近い方が亡くなりましたが、その3分の1に当たる400人以上の方が、いまだ行方不明のままです。大念寺には震災後連日、大勢の遺族が訪れ、必死で遺骨を探していました。「見ているのが辛かった」という大萱生住職はその後、震災から1年を節目に仮設住宅に住む檀家を回り始めました。愛する家族が見つからないまま寺を後にする人たちの、打ちひしがれた姿が忘れられませんでした。気持ちに区切りをつけられずにいる人たちのことが、気になっていたのです。
2016年3月、そんな大萱生住職に、震災からの5年間を振り返って頂いたことがあります。以下は、その抜粋です。
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地震の瞬間は寺にいました。大きな揺れだったので檀家の方が避難して来られるだろうと、玄関を開け待っていました。すると、リヤカーに乗せられた寝たきりのおばあちゃんを始め、150人ぐらいの方が集まって来られました。
大念寺から望む大槌町(2011年11月) |
そのうち悲鳴が聞こえてきたので外に出てみると、まるで真っ黒な壁に覆われているような感じで町が濁流にのまれ、家や車がものすごい勢いで流されていました。阿鼻叫喚、腰を抜かして座り込む人や倒れてしまう人もいました。山際にある寺にも濁流が迫ってきましたが、2mほど手前でがれきの壁が出来、それがダムのようになって止まりました。
その後10分ほどして、今度は爆発音が聞こえてきました。火が付いたままのストーブがガスボンベに引火し、それが次々とがれきに燃え移って町中が火に包まれました。少しして、山の方から警官が二人下りて来て、危険だから山へ逃げるようにということで、みんなで手分けして動けない人をだっこしたりおんぶしたり、車椅子を3、4人で担いだりして、山の上の体育館と公民館に避難しました。
大念寺から望む大槌町(2013年4月) |
火の手はますます広がり、寺の裏山や目の前の学校にも火が入りました。結局3日3晩燃え続け、燃えるものがなくなった14日になって、やっと火が治まりました。そこで、寺なら畳はあるし布団もあると、周りの人たちに声を掛け、その日から7月末まで4カ月半、三十数人の方たちと共同生活を送りました。
火が治まったことで行方不明者の捜索も始まりました。1週間ぐらい続いた後、重機が入って道路のがれきが片付けられ、寺への道も車が通れるようになりました。すると早速、車が1台入って来ました。檀家ではなかったんですが、ご遺骨を預けに来られたんです。つてを頼って関東で火葬してきたものの、町内で残った寺は私どもだけでしたし、避難所に置くわけにはいかないから、ということでした。その後も毎日のようにご遺骨を預けに来られる方が後を絶たず、6月頃には300柱をお預かりしていました。大槌は人口の1割に当たる約1300人の方が犠牲になりました。そのうち400人以上の方はいまだ行方不明のままです。
大念寺から望む大槌町(2015年1月) |
道路が通った翌日には、Sさん(私)の取材を受けましたが、その時一緒に来られた石鳥谷の皆さんから支援物資を頂きました。それが最初の支援でした。その後、全国の方が、炊き出しや支援物資など、町内でさまざまな活動をしてくださっていましたが、それらのことは後から知りました。私自身、寺で避難所の運営をしたり、多い日には8件も葬儀を行ったりで、とても寺を空ける状態ではありませんでした。それでも、家族も寺も無事だったので、以前から行っていた、子どもたちへの童話の読み聞かせを再開しました。
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震災前、大槌小学校の裏にあった大念寺では、学校からの依頼もあり、童話の読み聞かせの会を行っていました。震災後しばらくは読み聞かせを中止していましたが、時期を見て再開。また、合唱の練習にも庫裏を開放していましたが、それも同様に再開しました。更にNPOカタリバの協力を得て、東京の学生がボランティアとして子どもたちに勉強を教える「復興寺子屋」も開始(現在は「コラボスクール大槌臨学舎」として独立)。寺には大勢の子どもたちが集まりました。
大念寺から望む大槌町(2016年2月) |
読み聞かせや合唱の世話をしながら、子どもたちの様子を間近で見ていた夫人の都さんは、「子どもたちは震災後、さまざまな得難い経験をしています。例えば世界的指揮者の佐渡裕さんやプロのトロンボーン奏者の方たちが大槌まで足を運んでくださり、一緒に演奏をしたり指導を受けたりしていますし、海外の方や県外の方と触れ合うなど、震災前よりはるかに多くの貴重な機会を得ています。それによって子どもたちの視野が広がり、向上心も高まったように感じます。もちろん親を亡くし、家庭的にも精神的にもきつい子どもは大勢いますが、悪いことばかりではないと思っています」と語り、大萱生住職もそれを受け、「今すぐには目に見えなくとも、子どもたちの成長には期待したいですね。少なくとも、子どもたちや若い人たちの地元愛は、確実に強くなっていると感じます」と、話していました。
大念寺から望む大槌町(2017年10月) |
大槌町には「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされる蓬莱島があり、正午になると、その主題歌が町中に流れます。「苦しいこともあるだろさ 悲しいこともあるだろさ だけどぼくらはくじけない 泣くのはいやだ 笑っちゃおう」。子どもたちは、この歌詞と同じような気持ちで、復興への道のりを歩んでいるのかもしれません。
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