震災後初のゴールデンウィークに新地町で炊き出しイベント
2011年5月4日、震災後初めてとなるゴールデンウィーク中に、福島県新地町で大規模な炊き出しイベントが行われました。イベントを主催したのは、新地ライオンズクラブ(当時31人)で、これにSNSを通じて全国から大勢の支援者が集まり、新地町役場前で盛大に実施されました。
SNSで発信したのは、明石の橋本維久夫さんでした。橋本さんは、阪神・淡路大震災以来、被災地での支援活動を実践されてきました。更に、2004年の新潟県中越地震の炊き出しには、他県からも数人の賛同者が参加。07年の新潟県中越沖地震では、その輪が6都県20人と大幅に広がり、橋本さんはいつしか、仲間内では「大体長(※大隊長ではありません)」と呼ばれる存在になっていました。そして新地には、橋本さんの呼び掛けに12都県から43人のボランティアが参集しました。
新地での活動のきっかけとなったのは、岐阜のOTさんでした。OTさんは、東日本大震災後、すぐに沿岸部の各市町村災害対策本部に連絡。その中で3月14日、相馬市災害対策本部から食料品などの支援要請が入り、3月22日に支援物資を持って相馬を訪問しました。そして、災害対策本部に物資を下ろした後、相馬編(「母方の古里(かもしれない)相馬の海の恵み『常磐もの』」)で紹介した、八坂神社の岩崎和夫宮司らの案内で、避難所4カ所にも直接物資を届けました。
この時、岩崎さんは、所属するライオンズクラブのつながりで、隣の新地ライオンズクラブにも連絡。新地から5人の会員が相馬まで出向き、緊急で必要としていた乳児用のミルクなどを受け取り、新地町の避難所でそれらを配布しました。OTさんは、ここでつながりが出来た新地の方たちと、その後もコンタクトを取り続け、ゴールデンウィークの炊き出しイベント開催にこぎ着けたというわけです。
一方、受け入れ側の窓口となったのは、歯科医の笹原健児さんでした。笹原さんは、自宅と歯科医院が流失し、自らも被災する中、炊き出しイベントの中心として活動されました。新地町は福島県浜通りの最北端にあり、3月11日の本震では震度6強を記録。新地ライオンズクラブのメンバーでもある加藤憲郎町長によると、その時点で津波により92人が亡くなり、23人が行方不明とのことでした(その後の調べで死者118人、家屋全半壊630戸)。
そんな中、当日は朝から、加藤町長自らが防災行政無線でイベント情報を流したこともあり、会場となった新地町役場前には大勢の町民が集まりました。炊き出しはハヤシライス、鶏の唐揚、しかコロッケ、ポテトフライ、うどん、そば、たこ焼き、ホルモン焼きうどん、タイ焼き、焼き魚と盛りだくさん。
埼玉から参加したYTさんは、「被災された方から『石原軍団の炊き出しより、顔も種類も楽しさも味もずっと上』と誉められた」と、うれしそうに話していました。また、この日は水風船割りやヨーヨー釣り、スーパーボールすくいなど、子どもたちのための遊びコーナーも作り、震災以来の楽しいイベントに、会場には五月晴れの笑顔があふれていました。
私は当初、単独で新地へ行き、現地合流する予定でした。というのも、飯舘編(「『までい』を合言葉にした村づくり 」)に書いたように、長男が、原発避難者のアパート確保のため、郡山に派遣されていたので、新地に行く途中で立ち寄り、顔を見ていこうと思ったからです。
しかし、高知の知人女性NKさんから、自分も支援活動に参加したいとの連絡を受け、炊き出しに参加する松戸の友人高橋昌男さん(「二十世紀梨のルーツは矢切の渡しで知られる江戸川沿いの街」)にNKさんの同乗を依頼したところ、話が発展。NKさんから話を聞いた、今治のIYさんご夫妻(「鉄板焼き鳥にセンザンキ、焼豚玉子飯 - 今治のソウルフードはすごいぞ」)も、高橋さんの車で行くことになり、その段階で私も員数に入ったようです。
地元の仲間だけではなくなったため、高橋さんは、持参する支援物資の量も考え、29人乗りのマイクロバスを手配。高橋さんの友人で、自動車整備・販売会社のIMさんが運転を買って出てくれました。で、翌日は岩手県大槌町に移動して炊き出しイベントを実施するため、宿泊手配が必要となり、高橋さんからの依頼で、何度も被災地入りしている私が宿の手配を担当。それもあって、私も一緒に行動することになりました。
到着後、お手伝い頂くボランティア連絡協議会の方たちを始め新地町の皆さんと、全国からの混成部隊の顔合わせをして、早速設営を開始。この時の様子を、東京から参加したSYさんが、次のようにSNSへ投稿していました。
「さあ、テント張り。が、『どこにテント持ってく?』と・・・テキトーなのね。各テントの責任者も決まってないみたいだし。その場の指示で駐車場の広場に面して8張りのテントが張られ、明石からやってきたトラックから荷下ろしが始まります。OTさんのダッジからもお手製のスーパーボールすくい、ヨーヨー釣りのプール、水風船ダーツのパネルなども下ろします。本部テントの場所を決めて、その脇にチョコレート配布場所、牛乳配布場所を決め、あとは食べ物類のテントに。なんとかなっちゃうんですねー・・・すごいなー・・・・」
で、私はと言えば、それまでに何回か被災地を取材する中で、被災された方たちから「ああ、魚が食いたい」という声を聞いていました。海のそばで暮らし、おそらくいつも新鮮な魚を食べていたであろう人たちが、魚を全く食べられず、おにぎりやカップ麺ばかりの生活。それを見ていて、この人たちに魚を食べさせてあげたいなあ、とず~っと思っていました。
それが今回、明石のSCさんがサンマを、敦賀のSNさんが若狭カレイやカワハギなどを用意してくださり、それらが炭火で焼かれ、被災された皆さんに提供されました。それを見て、本当にうれしくて、私もちゃっかり焼き方を担当させてもらいました。
炊き出しイベントから1年半ほど経った頃、相馬で取材があり、その際、常磐線代行バスを利用してみたところ、新地は、炊き出しイベントの会場だった町役場になっていることを知りました。夜だったので、新地では下りずにそのまま相馬へ向かいましたが、取材を終えた帰りに、新地停留所で途中下車してみました。
そして、周辺を歩いてみたところ、役場近くの仮設店舗には、炊き出しイベントで受け入れ窓口になってくださった笹原さんの歯科クリニックも入っていました。残念ながら、その日は休診日だったようで、お会いすることは出来ませんでしたが、少しずつ元の生活に戻っていることを知り、うれしく思いました(2014年3月からは、南相馬市原町区から新地町へ移転してきた総合病院・医療法人伸裕会渡辺病院の歯科医として勤務されているそうです)。
JR常磐線の新地駅は、ホームと跨線橋を残して、津波で壊滅。駅に停車していた列車も数十メートル押し流され大破してしまいました。当時、列車には約40人の乗客が乗っていましたが、偶然乗り合わせていた警察官2人の誘導で高台に避難、乗務員も跨線橋に避難して無事だったそうです。
震災から約1カ月後の4月12日から、常磐線代行バスの運行が開始され、新地町役場前停留場が設置されましたが、ここは代行バスの快速便が途中停車する唯一の停留場となっていました。その後、2016年12月10日に宮城県亘理町の浜吉田駅と相馬駅間で、常磐線の運行が再開されたため、新地停留場は廃止、新地駅は旧駅舎から約300m西に移設された新駅舎で営業を再開しました。
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