岩手の辺地校を舞台にした「すずらん給食」物語

藪川小学校
玉山村立時代の藪川小学校

2010年3月21日、辺地校の給食整備のきっかけとなった岩手県盛岡市の藪川小学校が、閉校になりました。私は2度、藪川小を訪問していますが、一度目は閉校前の05年で、7人の児童が、複式学級で学んでいました。この時、校長先生から、2016年には児童数がゼロになってしまう見込みだと聞かされたのですが、実際にはそれ以前に、閉校になってしまいました。

藪川小学校の名が、全国に知られるようになったのは1965年のことです。きっかけとなったのは、その前年、前回の東京オリンピックがあった64年の暮れに、盛岡市の老舗呉服店当主・中村七三さんと、藪川小学校の宮五郎校長との懇談でした。

宮校長は、中村さんとの懇談の中で、昼の弁当を持ってこない児童がいることを話題にしました。そして、「小学2年の女児が腹痛を訴えたので、宿直室で休ませ薬を飲ませたら、別の子が来て『先生、こいつあ、三かたき(食)めし食わねえからだ、心配ねえ』と言ったんです」と、中村さんに話しました。

藪川小学校亀橋分校
本校より一足早い04年に閉校となった藪川小学校亀橋分校

1954(昭和29)年には「学校給食法」が公布されていましたが、60年代半ばになっても完全実施にはほど遠い状況でした。当時、全国の辺地校9000校のうち、完全給食を実施しているのは、たった18%、ミルク給食もない給食未実施校は、57%と半数を超えていました。

そこで中村さんは、仲間と一緒に藪川を訪ねてみることにしました。藪川集落のある旧玉山村(現・盛岡市玉山)までは、盛岡市の中心部からは車で北東方面へ、国道455号をひた走ります。この道は昔の小本街道で、北上山地を越えて太平洋側の岩泉町小本へと抜けます。盛岡から30kmほど走ると、左手に日本一美しい人造湖と言われる岩洞湖が見えてきます。

当時、バスは盛岡からこの岩洞湖までしか来ていませんでした。ここまでバスで2時間半。藪川小学校のある集落は、そこから更に北東へ約10km、徒歩2時間の所にあります。標高約700mの高原地帯で、冬は豪雪に埋もれ、氷点下35度という本州一の最低気温を観測した土地でもあります。高冷地のため水田は少なく、アワ、ヒエ、ソバなどの雑穀を中心とした畑作農家80戸が点在している集落でした。

藪川小学校
06年の編入合併で盛岡市立となった藪川小学校

中村さんたちが学校へ行ってみると、28人いる教室で弁当のない子が11人もいました。弁当のある子も、中身はヒエ100%に、おかずは山菜や漬物などで、中には生味噌や塩だけという子もいたそうです。何よりも心配だったのは、児童の栄養状態が極めて思わしくないことでした。岩手大学の教授による栄養調査で、カロリー、タンパク質、脂肪は共に必要量の半分にも至らず、ビタミンは20分の1という状態であることも知りました。

「そんな中でも、子どもたちの表情がいじらしいほど純真で明るく、可愛いんです。それだけに、私たちは何とかしてあげたいとの思いを強くしたのです」
後日、中村さんは、そう語っています。

盛岡へ戻った中村さんたちは、早速、所属していた奉仕団体・ライオンズクラブにこのことを相談。「義務教育」に対して「義務栄養」を提唱し、「辺地校に無償給食を」というキャンペーンを展開してはどうか、と打診してみました。遠大な計画だったため、反対意見も少なくありませんでしたが、討議を重ねた結果、全力でこの課題に取り組むことを決定。次のように細目を固めて、行動に移していきました。

藪川小学校校歌
閉校時に建てられた藪川小学校校歌の碑
1)ライオンズクラブの奉仕活動として藪川校の給食設備を整える
2)藪川校の全校児童で高原に咲くスズランを採集してもらい、自分たちが梱包と輸送を担当し、東京へ送る
3)ライオンズクラブの会員を東京へ派遣し、東京ライオンズクラブに協力を要請する
4)「義務栄養」を提唱し、「辺地校に無償給食を」のキャンペーンを起こす

このうち、東京ライオンズクラブからは早々と協力の意向が示され、話を聞いた東京の他のライオンズクラブや、神奈川県・横浜のライオンズクラブからもバックアップの申し出がありました。更に、キャンペーンの展開には、東京ライオンズクラブ会員でもある上田常隆さんが社長を務める毎日新聞社が協力を約束。放送は、TBS系列の岩手放送が支援してくれることになりました。

その後の展開は素早く、東京のライオンズクラブから30万4000円が寄せられました。都市銀行の大卒初任給が2万5000円という頃の金額です。盛岡ライオンズクラブからは15万円と冷蔵庫、パン皿200人分を贈ることになりました。

65年6月7日、盛岡ライオンズクラブの会員たちは、これらの贈呈のために藪川校へ向かいました。それには毎日新聞と岩手放送の記者、それに岩手県保健体育課給食係長が同行しました。

そして6月9日の毎日新聞は、朝刊社会面トップに6段抜きの見出しで、藪川小学校の児童の実状を伝え、藪川の子どもたちがスズランを摘んで、近くそれが東京に送られることを伝えました。

藪川一帯はスズランが咲き乱れ、スズランは旧玉山村の村の花にもなっていました。藪川の子どもたちは学校の近くの末崎川のほとりでスズランを摘みました。摘んだスズランは、束ねて、当時のバスの終点だった岩洞まで運ばれました。それを盛岡ライオンズクラブ会員の高橋功さんが社長を務める岩手中央バスが、無料で盛岡まで運び、バスセンターで待っていた盛岡ライオンズクラブの会員たちが荷造りをして、盛岡駅へ運びました。

当時の国鉄も特別の配慮で急行にスズランを積み、善意のリレーで上野へ運びました。こうして北上山地のスズランは、首都圏にあった26のライオンズクラブに届けられ、合わせて約120万円の寄金が集まりました。更に新聞報道がきっかけで全国から励ましの手紙や物資、現金が多数寄せられました。

こうして、藪川小学校で完全給食が始まりました。パンにミルク、カレーシチュー、バナナで700kcalの給食でした。

「すずらん給食」の経過を報道した毎日新聞は、社説でこれを取り上げて「こういうケースは人々の善意だけに頼って解決すべき問題ではない」とし、「国が保障すべき義務がある」と訴えました。

この報道に着目したのが、時の佐藤栄作首相でした。首相の指示で5億円を緊急支出し、全国の辺地校を対象に完全給食が実施されることになりました。そして65年6月末には文部省通達が出され、2学期から高度辺地校で完全給食が実施されるようになりました。また66年度からは、高度辺地校の児童生徒全員に、パンとミルクの無償給与がスタートし、玉山村では67年に学校給食センターが完成しました。


世界初の高速鉄道である東海道新幹線、首都高速道路、そして東京オリンピックと、日本は戦後19年目で、戦禍からの復興を世界に示しました。そして、オリンピックを機に、右肩上がりの高度成長を加速させていきます。が、その裏では、この話のように、満足に食事をとれない子どもたちもいたのです。

本来なら今年、東京オリンピックが開催されるはずでした。新型コロナの影響で、さまざまな課題が浮き彫りになった日本。この機会に一度立ち止まって、周囲を見回してみることも必要かもしれません。

コメント

  1. すずらん給食の話しはもちろん知ってましたが、昭和20年代後半の食料事情が悪い頃の話とばかり思っていました。

    考えたら佐藤栄作さんを動かしたんだから、ピンとくるべきでした😰

    私達世代は食べるものの苦労なんてしたのとがなかったわけですが地域によってはこんな状態だったんですね。

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    1. 60年代半ばだと、私も小学生なので、この人たちと同世代なんですが、環境によってこうも違うのかと思いました。

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  2. この記事を読みながら、当時(昭和42年)私が通っていた辺地小学校(昭和49年廃校)のことを振り返っていました。2年生の時に学校給食が始まったと記憶しています。現代のような給食センターではなく母親たちが学校の調理室で給食を作るというものです。そして3年の時に牛乳が毎日配膳されるようになり嬉しかったですね。冬はダルマストーブの上にお湯を張った大鍋に皆(7人)牛乳を入れ温めて飲みました。

    そして時代は豊かになったのはよいのですが、、
    多くの食品ロスを発生させている一方で、貧困で食事に困っている子供がいるという悩ましい問題もありますね。




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    1. 豊かになったんですかねえ。。。コロナ禍以前から、いろいろな問題が出て来ていましたが、ここにきて一気に表面化した感じで、世の中、再構築した方がいいんじゃないかと思う今日この頃です。日本だけじゃないですし・・・。

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  3. 「おらぁ 昼休みの時間がきらいだ」
    という作文が新聞に掲載されてからでしたよね。

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    1. え〜と、そこ記憶にないんですけど・・・。新聞に載ったのを見て、中村さんが宮校長に話を聞いた、という流れでしたか?

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