東日本大震災後、最初に訪問した被災地・釜石
東日本大震災発生後、最初に入った被災地は、岩手県の釜石市でした。
震災翌日は、都内でライフスキル関連の講演を取材する予定でしたが、当然中止となりました。そこで被災地の情報収集をすることにし、まずは関係者の安否確認が優先だと思い、GoogleのPerson Finderへの登録を始めました。そして翌週にかけ、編集部のスタッフにも手伝ってもらい、岩手、宮城、福島で約1000人の情報を登録しました。
すると早速、何人かのご家族や知人からメールが入り、その中に、釜石市の種市一二さんの息子さんと遠縁の方も入っていました。息子さんによると、震災当日の3月11日はお母様の喜寿を祝うため、ご家族で八幡平に行くことになっていたそうです。しかし、東京在住の息子さん家族は地震で帰ることが出来ず、12日早朝にお母様と連絡が取れたものの、停電で暖が取れない上、釜石の家がめちゃくちゃなため、釜石に戻るという話をしたまま、連絡が途絶えてしまったとのこと。それでも、とりあえず津波に巻き込まれていないことが確認出来て、少しだけ安心しました。
種市さんの安否情報を共有すべく、何人かの方にメールを入れました。その中には、種市さんとの共通の知人で、南三陸での炊き出し情報を教えてくれた(「がれきの町から踏み出した復興への歩み - 南三陸編」)岩手県藤沢町の高橋義太郎さんも入っており、義太郎さんからは、14日の夕方になってその返信がありました。「ありがとうございます。種市さんは大丈夫なのですね。ようやく16時に電気が回復。電話は携帯も固定も不通。家の前を山梨県のタンク車と救急車が10数台、恐らく南三陸へ向かったと思います。今また自衛隊の車両が反対方向に50〜60台向かったので、気仙沼か陸前高田市に行ったのでしょう。主要道路は緊急用に制限されているし、情報がないので 支援に行きたくても動けません」。そんな内容でした。
私はこの後、震災前から決まっていた取材のため、16日から18日まで沖縄へ行くことになりました。そして17日の早朝、久米島のホテルから日課となっていた種市さんへの電話を入れました。すると、思いがけず電話がつながり、当の種市さんが電話に出ました。電気が復旧したので、携帯の充電が可能になったとのこと。その通話第1号が私だったようです。これで、外と通話が出来ることが分かったので、あちこち連絡を取ってみる、と話されました。
また、取材に入りたい旨をお伝えしたところ、今は緊急車両しか入れないので、レンタカーでは無理。内陸部の花巻の知人に協力を要請して、花巻空港から一緒に入れるよう調整してくださると言ってくれました。そこで、私は花巻空港までの便を確保することとし、チェックしたところ、通常は運行がない羽田〜花巻間にその日から25日まで、JALが臨時便を飛ばすことが分かりました。
ただ17日は、沖縄本島の浦添、中城、石川(うるま市)で取材があったため、編集部のK嬢が先方と日程の確認をしながら、飛行機の手配をしてくれることになったのですが、一足遅く、羽田からの直行便は空席がなくなり、大阪経由花巻行きという変則的な移動になりました。また協力者は、支援物資を持って釜石に入るという石鳥谷の方たちになり、その日程に合わせて、23日中に花巻空港へ入ることが決まりました。
23日は、14時30分発のJAL121便で伊丹空港へ。その際、装備を調えた赤十字の方たちが乗っていました。私と同じルートで岩手入りするようです。伊丹空港には15時40分に到着し、16時40分発のJAL2187便でいわて花巻空港へ向かうことになりました。乗り継ぎのため伊丹空港を歩いていて、関東と違って全ての電気がついている構内に、世の中ってこんなに明るかったんだと、驚いたものです。花巻空港到着後は、アクセスバスで花巻空港駅へ移動。駅の近くにあったビジネスホテルみちのくにチェックインしました。ちょっと変わった造りのホテルでしたが、この際、ぜいたくは言っていられません。
そして翌朝、石鳥谷の方たちと釜石へ移動。種市さんが指定された合流場所は、釜石市鈴子町のケーズデンキ駐車場でした。県内の移動とはいえ、岩手県は広く、花巻から釜石までは80km以上あり、釜石に近づいてからは復興関係の車で渋滞したこともあって、だいぶ時間がかかりました。合流後、種市さんは、我々をまず釜石市災害対策本部に案内してくれました。
釜石市の支援物資保管場所は、対策本部が置かれているシープラザ釜石併設の大型テント「遊」で、搬入口では、遠野から手伝いに来た高校生や、通常業務を停止してこちらに詰めているヤマト運輸釜石のスタッフが、ボランティアとして荷下ろしを手伝ってくれました。その後、一行は種市さんに連れられ、災害対策本部で野田武則市長、佐々木重雄副市長と会談。釜石市の被災状況を聞いた後、支援を必要とする物資や活動について要望を伺いました。
釜石市は岩手県南東部、陸中海岸国立公園の中心にあり、美しいリアス式の海岸線を持っています。しかし、そうした地形ゆえに、これまでも度々、大きな津波に襲われてきました。1896年の明治三陸地震津波、1933年の昭和三陸地震津波、1960年のチリ地震津波などで、三陸海岸の市町村は甚大な被害を受けています。
そのため、津波への対策は各自治体とも徹底的に行ってきました。釜石市内を回っていると、街のあちこちで「津波浸水予想区域」の標識や、津波に備える防災標語などを見掛けました。更に2009年には、釜石湾口に990mの北防波堤と670mの南防波堤の二つが完成。水深63mという世界一深い防波堤で、震災前年の2012年7月には、ギネスブックにも登録されていました。国内観測史上最高の38.2mの津波を記録した明治三陸地震(M8.5)を設計基準に築造され、海面からの高さ8m、コンクリート幅20mという防波堤が、街を守ってくれるはずでした。
しかし、東日本大震災の巨大津波は、そんな防波堤をやすやすと乗り越えたばかりか、それを破壊して釜石の街をのみ込み、広い範囲で甚大な被害をもたらしました。釜石を襲った津波は、防波堤を乗り越えると、湾内にどっと流れ込み、甲子川を遡上し始めました。やがて川の堤防も破り、勢いを増した津波は、建物を次々に破壊しながら釜石市街地を覆っていきました。あまりにもあっけなく壊されていく古里に、人々は言葉を失いました。ゴーッという津波の音だけが聞こえていたと言います。しかも、それは序章に過ぎませんでした。一瞬動きを止めたかと思った津波が、海に向かって流れ始め、家や車が逆方向へ流れていくのが見えました。そして第2波、第3波と、それは繰り返し襲ってきました。種市さんに案内された釜石港で一行が見たものは、巨大な船が岸壁に打ち上げられている光景でした。パナマ船籍のアジアシンフォニー(4742トン) という貨物船で、陸に押し上げられた後、更に流されて防潮堤に船首底がめり込んで止まっていました。港の周辺は家という家が原型を失い、がれきの山では行方不明者の捜索活動が、懸命に続けられていました。報道で何度も、その光景を目にしたはずですが、実際に自分の目で現場を見ると、圧倒的な自然の力に恐れを抱き、ため息しか出て来ませんでした。
車を先導して被災エリアを案内してくれた種市さんは、「避難所を回って聞いたのは、すぐに逃げた人、若い人に引っ張られて無理無理避難させられた人は助かったというんですね。三陸はこれまでも津波がたくさんあったんです。だから、津波の恐ろしさは知っている。でも、やはり海に慣れているのと、津波にも慣れっこになっている。しかも高齢者ばかりの家が多く、逃げようにも逃げられない人たちもいた。そういう人たちは、ほとんどだめだった、と。消防車だって波にやられた。だから、各町内に1台ぐらい消防車がひっくり返っている。津波への対応は本当に油断が出来ないと改めて思い知らされました」と、肩を落として話していました。
その後の1カ月で、釜石を5回訪問しました。秋葉原から夜光バスで行ったり、支援物資と共に入ったり、友人たちと炊き出しのために車で移動したりと、その時によって手段はバラバラでした。そのうち、東北新幹線が復旧したことにより、既に営業を再開していた釜石線で釜石まで行き、そこで駅前のトヨタレンタカーで車を借りて、行動するようになりました。
年が明けて2012年1月27日には、最初に種市さんと落ちあったケーズデンキの近くに「釜石はまゆり飲食店街」がオープンしました。48店舗が軒を連ねる大型飲食店街で、当日は冷たい風が吹く中、被災した店の再起を祝い、住民ら約200人が訪れました。この飲食店街には、50年以上にわたり、「鉄の街」釜石の男たちが愛し続けた飲み屋街「呑ん兵衛横丁」も入り、復活を遂げました。
震災前は市中心部の水路上に小さな店が100mほど長屋のように軒を連ねていました。それが、津波で26店舗全てが流され、店主1人が犠牲になりました。井上ひさしの母マスさんも店を構えていたそうで、良心的な値段で新鮮な海の幸とおいしい酒を味わい、人情味あふれる店主たちとの会話を楽しむことが出来たといいます。そんな名物横丁の喪失を惜しむ常連客は多く、横丁の組合長菊池悠子さんの元には、再開を求める電話が相次ぎました。そして5月頃から、ばらばらになった仲間を捜し、復活へ向けて動き始めました。結局、15人が再スタートに参加。そのうち14人は女性店主で、ほとんどが自宅も流されました。
「釜石はまゆり飲食店街」は、「呑ん兵衛横丁」が各店3坪、居酒屋、スナック系は6坪、そしてランチも営業する飲食店は10坪と、3パターンありました。仮設という決められたスペースのため、震災前に比べると各店とも席数が減り、店の場所が変わったことで常連客も減りました。深夜営業が出来ないなどの制限もあって、必ずしも明るいことばかりではありませんでした。
それでも店主たちは前を見て、とにかく「楽しく」を心掛けていました。本来はそれぞれがライバル関係にある店同士ですが、意思疎通を図るため飲食店会(山崎健会長)を結成。飲食店会として、「はしご酒」や「街コン」などのイベントを開催したり、外部からの屋外イベントやミニ・ライブなどのオファーも積極的に受け入れ、飲食店街全体の盛り上げを図りました。2014年には、東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島3県、27の復興商店街による「恋チュン」動画が公開されました。プロジェクトを仕掛けたのは、復興商店街の建屋を提供する中小企業基盤整備機構。震災から3年以上が経過し、被災地への関心が徐々に薄れる中、本格復興に向け力強く活動している仮設商店街を「恋するフォーチュンクッキー」というツールを活用して積極的にアピールすると共に、仮設商店街を横糸でつなぐことで、単独の店舗や商店街では出来ない注目度を獲得しようと企画したものでした。撮影は6月から7月に掛けて各商店街で行われ、釜石はまゆり飲食店街を始め、私もよく訪問していた大船渡屋台村、高田大隈つどいの丘商店街、復興屋台村気仙沼横丁、気仙沼復興商店街南町紫市場、南三陸さんさん商店街も参加していました。
釜石はまゆり飲食店街での撮影で、堂々の振り付け指導をした飲食店会会長で「BAR LINK」の店主・山崎さんは、「平均年齢70歳前後の呑ん兵衛横丁を始め、年も年だしと、最初は皆さんあまり乗り気ではない様子でした。でも、『感謝の気持ちを伝えられるいい機会だし、振り付けは僕が教えるから』と全店舗通達を発信、結果20人以上の方が参加してくれました。撮影当日は、本番より僕の振り付け指導が爆笑だったみたいで……。おかげで楽しい撮影になったようです」と話していました。
動画を埋め込んでおきますので、山崎さんの振り付け指導「てっぽう! あご! てっぽう! あご! ハートマークでいぇいいぇいいぇい!」もお楽しみください。
▼「恋チュン 復興商店街」
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