がれきの町から踏み出した復興への歩み - 南三陸編
地震と津波によりチリ全土が壊滅状態となっただけでなく、地震発生から15時間後には10mを超える津波がハワイを襲い、61人が死亡。約23時間後には、最大6.4mの津波が、三陸を中心に日本の太平洋沿岸を襲い、各地に大きな被害をもたらしました。この津波で、岩手県大船渡市で53人、宮城県志津川町(現・南三陸町)で41人が亡くなり、日本全体では142人が犠牲となりました。
南三陸を襲ったチリ地震津波の高さは5.5m。旧志津川町では、これを教訓にして防災対策をとり、95年に高さ約11m、鉄筋コンクリート3階建ての強固な防災対策庁舎を完成させました。しかし、2011年3月11日、南三陸町を襲った津波は、海抜1.7mの防災対策庁舎の屋上をはるかに超える、15.5mもの大津波でした。
佐藤仁町長は、地震の激しい揺れが収まると、本庁舎から防災対策庁舎へ移動。津波警報では当初6m、次いで10mと発表されたことから、行政庁舎で勤務していた約130人のうち53人の職員も、防災庁舎へ移り屋上へ避難しました。が、津波は予想を超え、庁舎屋上の床上2mの高さまで押し寄せ、多くの職員が濁流にのまれ犠牲となりました。生還したのは佐藤町長を含め10人のみ。それらの人たちは、屋上に設置されていたアンテナのポールや、鉄骨製階段の手すりにしがみつき、命からがら生還することが出来ました。
九死に一生を得た人は、他にも大勢います。今では骨組みだけになった、防災対策庁舎の鉄骨を手掛けた髙橋工業の髙橋渡社長もその一人です。髙橋工業は高台にあり、津波の恐れはありませんでしたが、妻と息子が心配でした。しかし、連絡を試みても携帯電話が不通で、どこに居るのか分かりません。まだ街中にある自宅に残っているのではないか。胸騒ぎがして、車に乗り込みました。
あと少しで我が家という時、道路の向こうから角材がゴロゴロと転がってきました。よく見ると、波に転がされています。「やばい、津波だ」。とっさに右手の坂道を上りました。上った先は、地区の避難場所でしたが、そこにもすぐに水が上がり、車を捨ててもう一段、もう一段、と高みに逃れました。
滝のようなゴーという音と共に水位はどんどん上がり、3階建ての自宅は既に水に沈んでいました。案じていた妻と息子とは、その夜、避難所で再会しました。震災後、無事だった会社に家を失った友人の家族を受け入れ、約1カ月半、4世帯16人が避難生活を送りました。
南三陸町防災対策庁舎の隣に実家があり、その裏の家を借りて保険代理店の仕事をしていた工藤泰彦さんは、地震の瞬間、事務所で保険会社の方と打ち合わせ中でした。
「揺れの大きさから津波が来ると直感しました。消防団に入っており、防潮堤の門(陸門)を閉める役目があったため、家内に2人の子どもと実家の母を連れ、高台にある親類の家へ避難するよう指示しました。
事務所から陸門までは500m程度なんですが、車の渋滞で全く身動きが取れなくなってしまいました。陸門の方を見ると、広域消防車が到着し、門が閉じられているのが見えたので、Uターンして家族が避難している高台へ向かいました。親類の家に着いたのは3時10分ぐらいだったと思います。当初は津波の高さ6mと言っていた防災無線が、その頃には高さ10mの大津波という内容に変わっていました。それでもまだ、防潮堤を超える津波が来るとは思っていませんでした。
3時半ぐらいだったか、地鳴りのような音が聞こえ、最初は余震かと思ったのですが、いっこうに収まらないので遠くを見ると、海の方から砂煙が近付いてきました。それが津波だと分かると、この高台も危ないかもしれないと思い、家族を促して更に高い所へ移動しました。
振り返ると、想像していた津波とは全く違うものに町がのみこまれていました。家がそのままの形で流れてきたかと思うと、防災対策庁舎にぶつかって煙のように消えてなくなりました。目の前で起きていることが理解出来ず、何も考えられず、言葉も出ませんでした。
一夜明けた南三陸の町は変わり果てた姿をさらし、これからどうなるのかという不安に襲われました。ただ、その時には気仙沼まで出掛けていた父の所在も確認され、家族が無事だったということで、気持ちは救われました。それと、自分一人だけが被災したわけではない、みな同じだという状況が、気持ちを少しだけ軽くしてくれたのかもしれません」
震災翌日の12日深夜、NHKが「宮城県は、南三陸町で町の人口の半数以上に当たる、およそ1万人と連絡が取れなくなっているとして、自衛隊の協力も得て、所在の確認を急いでいます」というニュースを流しました。それが、15日昼の段階では「南三陸町で2000人余りが避難して無事であることが新たに分かりましたが、依然として合わせて1万5000人以上の安否が分からなくなっています」と報道。私は震災まで、南三陸のことは知らなかったのですが、これらのニュースで初めてのその名を認識すると共に、その報道に愕然としました。もちろん、この段階では、役場を始め町の中心が完全に機能を喪失していたため、正確な情報が伝わらなかったわけですが、テレビに映し出される南三陸の被災状況は、これらの報道と共に多くの人の心を痛めるものでした。
そんな中、長年、南三陸町の公立志津川病院に勤務し、2005年から同町で開業していた笹原政美さんは、震災2日後の13日から、避難先の志津川小学校の体育館で診察を始めました。笹原さんは、午後の診療を始めた時に地震が起き、停電で診療を続けられなかったため、患者やスタッフを家に帰しました。南三陸では、毎年災害訓練をしていたので、訓練通りに高台へ上りました。「津波が来る」とは聞いていましたが、6mの防波堤があったので心配はしておらず、診察道具など何も持ってきませんでした。ところが、そこで見たのは、湾から舞い上がる土ぼこり。自宅兼診療所は、あっという間に津波にのみ込まれ、コンクリートの土台しか残りませんでした。
聴診器一つない状況での診療でしたが、患者さんを診るという使命感に素直に従えばよかったので、悩む必要もなく、自然に体が動きました。「自分が医師だったのは、本当に恵まれていたと思います」と、後に当時を振り返っています。
また、事業者の動きも素早いものでした。志津川地区のおさかな通り商店街は、約20店舗が協力して地元の産品を生かした地域おこしに取り組み、町の名物のタコやアワビ、サケなど豊富な海の幸を求めて、県外からも観光客が訪れていました。自社の加工場で地震に遭った三浦洋昭さんは、商店街にある鮮魚店マルセン食品を1年前に改装リニューアルしたばかりでした。3月末、山内鮮魚店の山内正文さん、老舗の蒲鉾店及善商店の及川善祐さんと話し合い、にぎわいを取り戻して町の復興の起爆剤にしようと「市」の開催を企画しました。
商店街のイベントでは常に活動の中心になってきた3人です。そうと決まれば話は早く、山内さんを委員長、及川さんを副委員長、三浦さんを事務局長に実行委員会が発足。4月29、30日に第1回福興市を開きました。売るものを持たない中でのスタートでしたが、全国17の商店街や町内会が加盟する「ぼうさい朝市ネットワーク」で交流のあった各地の仲間が、品物を提供してくれました。会場では、着の身着のままで避難した町民たちが再び顔を合わせ励まし合いました。5月以降は毎月最終日曜日に開催し、首都圏からのツアーも企画されるようになりました。
第1回福興市が開かれる少し前の4月24日、南三陸を訪問しました。これは、以前から親しくしていた岩手県藤沢町(現・一関市)の高橋義太郎さんから、奥州市の人たちが南三陸で炊き出しをするから行ってみないかと誘われ、それに乗ったものでした。前日、一緒に岩手県大槌町へ支援物資を搬入した、松戸の高橋昌男さんと甥の透くん、野田の髙木次雄さんに、その話をすると、自分たちも同行したいと、行く気満々に。そこで急遽、私が宿泊予約をしていた北上のホテルに電話を入れたところ、空室があるとのことで、4人で南三陸へ行くことになりました。
24日朝7時40分に北上のホテルを出て、集合場所の水沢駅へ。炊き出しには、企画した水沢ライオンズクラブの会員11人の他、30人ほどの奥州市民も参加。マイクロバス1台と市民ボランティアを乗せた大型バス、機材や食材、支援物資を積んだトラック、それに千葉からのトラックが加わり、4台の車で南三陸へ向かいました。8時半に出発し、国道4号から342号、398号を経て、南三陸に入ったのは10時20分を過ぎた頃でした。そこから7分ほど走ると、海まではまだ4kmぐらい離れているはずなのに、道の両側にがれきが見られるようになってきました。
炊き出し場所のハイムメアーズには、それから20分ほどで到着。すぐに炊き出しの準備にかかりました。水沢ライオンズクラブは、それまでも同じ岩手県の大船渡市や陸前高田市の支援活動を展開していました。その一環として炊き出し奉仕の準備を整え、両市に避難所の紹介を依頼していましたが、受け入れ態勢が整わないまま、日にちだけがたってしまいました。そこで、被災地への支援に県境はないと、宮城県で候補地を探したところ、知人が関係するハイムメアーズを紹介され、この日の実施となりました。
奥州市の方たちは、お汁粉、ぜんざい、アイスクリームを用意していました。また、婦人用化粧水や衣料、ウェットティッシュなどをフリーマーケットのように並べ、好きな物を選んで持ち帰ってもらうようにしていました。一方、高橋昌男さんたちは、焼き芋の炊き出しで飛び入り参加。どうやら焼き芋の道具と芋を持参していたのに、大槌では炊き出しをする機会がなかったため、このまま帰るわけにはいかないと、こちらに参加されたようです。おかげで、子どもたちや女性陣は大喜びでした。炊き出しが進む中、私を誘った当の高橋義太郎さんが、支援物資を積んだトラックを伴って到着。一緒に来たのは、洗顔セットなどを積んで秋田から駆け付けた一行で、避難所の選定を依頼された義太郎さんが、ハイムメアーズに案内したものでした。結果、秋田、岩手、千葉の混成部隊による支援活動が行われたわけですが、東日本大震災では、こうした活動があちこちで繰り広げられており、それを実際に目にしてきました。
日本は、災害の多い国ですが、それだけに、被災された方たちに寄せる思いは強く、素早い支援につながっているように思います。被災当時のお話を伺った工藤泰彦さんも、次のように話していました。
「震災後、まず驚いたのが支援のスピードです。更に日本という国と日本人のすばらしさを身をもって感じました。当時、商工会青年部の部長をしていたんですが、全国各地から支援に入ってくださいました。ライオンズクラブもそうです。しかも1回や2回ではなく、何回も支援してくださるわけです。感謝の気持ちはだんだん強くなっています。
今後のことを冷静に考えると、決して明るいばかりではありません。しかし、多くの方が南三陸を応援してくださり、その支援が私たちの力になっています。私自身も、町の人たちが希望を持ち、明るい未来が描けるよう、活動していきたいと思います」
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