地域の復興に尽くすボランティアの母 - 八幡幸子さんの話

3.11大槌希望の灯り 点灯式
3.11大槌希望の灯り 点灯式

大槌町は、震災により壊滅的な被害を受けました。海からは少し離れている桜木町地区も、小鎚川をさかのぼった津波に襲われました。堤防を乗り越えた濁流は、家々を破壊しながら、あっという間に住宅街を覆い尽くしました。

大槌町の桜木町地区で「ファミリーショップやはた」を営む八幡幸子さんは、夫の正一さんと共に自宅2階からそれを呆然と見ていました。正一さんは、震災の2年前に脳梗塞で倒れて以来、身体が自由に動きませんでした。「逃げるのは無理。お父さんと一緒なら」。八幡さんは、そう覚悟を決めました。

桜木町地区津波被害

幸い、津波は2階まで届きませんでした。外を見ると、逃げ遅れた人たちの姿が見えました。八幡さんは、車の上に取り残された老夫婦を助け上げた後、冷たく濁った水に胸までつかりながら、更に2人を救助しました。近所から避難してきた人も加え、八幡さんの家で10人が夜を明かしました。

しかし、津波でずぶ濡れになった1人は、その日のうちに亡くなってしまいました。

「助けられなかったことが悔しくて悔しくて……。それで、この思いを復興にぶつけようって思った」

桜木町ボランティアセンター
桜木町ボランティアセンター

そうは言っても、水が引いた後の町は、めちゃくちゃでした。経営していた食料品店は1階の天井近くまで浸水し、店内は泥だらけでした。店のローンは半年ほど前に払い終わっていましたが、また一から再スタートをするのは並大抵ではありません。その上、夫婦で暮らしていた自宅も、次男が住むため改装を終えたばかりの家も、津波でやられていました。内心、店を続けるのは無理だと思いました。

大槌町では震災後に火災が発生し、桜木町にも火の手が迫ってきました。そのため、八幡さん夫婦は、正一さんが利用していた介護老人保健施設「ケアプラザおおつち」に避難しました。ここには既に大勢の町民が避難しており、食べる物に困る状態でした。


そこで八幡さんは、店の商品を拾い集め、凍り付くような冷たい沢の水で、袋や容器に付いた泥を落とし、避難所で配りました。そんなことを続けるうち、桜木町には店が必要だ。みんなのため、何としても店を再開させなくては、と思うようになりました。

そして震災から1週間ほど経ったある日、八幡さんは正一さんに尋ねました。「お父さん、お店どうしますか」。すると、正一さんは即座に答えました。「やります」。その日から、八幡さんの精力的な活動が始まりました。

「町は跡形もなくやられたけど、桜木町は残った。ここから大槌を復興させなくちゃって! 何か一人で力んでたねぇ(笑)」


八幡さんの店を手伝っていた藤原良子さんも、震災翌日から自力で家の片付けを始めました。4月から次男が、千葉の会社に就職することが決まっていました。ちゃんと送り出してあげなくては。電気も水道もないため、夜は避難所に泊まり、朝から夕方まで自宅の後片付けをする日が続きました。どうなりこうなり片付けが終わったのは、3月28日。

ボランティアが桜木町に入って来たのは、その翌日のことでした。

初日の作業に参加したのは5人だけでしたが、家屋清掃隊長の林崎慶治さんは「今日がなければ2歩目もない」と言いました(「桜木町から始まった大槌支援活動」)。


翌3月29日、八幡さんは、避難所に配られた新聞で、桜木町でボランティアが活動していることを知りました。行ってみると、15人ほどのボランティアが、何人かずつ手分けして、幾つかの家で片付けを始めるところでした。ただ、何から手を付けていいのか戸惑っている様子でした。そこで八幡さんはボランティアを集め、「悪いけど、1軒1軒片付けてください」とお願いし、自分も一緒になって、よその家の掃除を始めました。

「1軒片付けるのに4、5日掛かったかな。自分の所は後回し。店を早く再開させたかったけど、それよりもまず、桜木町を奇麗にしたかった。無残な姿を見るのが辛かったから」

やがて毎朝10時になると、ボランティアから電話が入るようになりました。「八幡さん、着きました」。「ハイ、いま行きます」。

ファミリーショップやはた

中には、東京など遠方に避難している家もありました。八幡さんは、それらの人たちとも連絡を取りながら、順番に片付けを進めていきました。

「あちこちに泥水が入ってるから、それを頭からかぶっちゃったり、蒲団なんかも塩水が入ってかびてるし、ものすごく重たいの。でも、ボランティアさんはみんな一生懸命やってくれて、本当に助かりました」

4月21日には、前のブログ(「支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問」)に書いた通り、西本さんと一緒に、明石の橋本維久夫さんが桜木町に入りました。

ボランティアには無料で3食を提供した
到着早々、在宅被災者が置かれた過酷な状況を知った橋本さんは、その支援に全力を挙げることを誓い、桜木町地区で拠点となってくれそうな家を探しました。そこで「ファミリーショップやはた」の店主・八幡幸子さんに支援物資の配布拠点になってもらう約束を取り付けました。

そして、ここで再び、前のブログの最後につながり、桜木町を舞台に、思いを持つ人たちが少しずつつながり始めることになります。

東日本大震災では、被災後も自宅生活を続けた在宅被災者に、食料や物資が届かないケースが多くありました。各県とも「避難所にいる被災者」を前提に防災計画を立てていたことが原因と考えられます。震災から数カ月が経った頃でさえ、在宅被災者数の調査をしていない自治体もあり、実態不明の状態が長く続きました。

そのため、NGOやNPOなど外部からの支援も、基本的に避難所をベースに行われました。日本赤十字社が海外救援金により配布した家電6点セットも、配布対象は仮設住宅に限られ、在宅被災者は長い間、孤立無援の状態に置かれていました。

「西本さんや橋本さんたちと出会えて幸運でした。在宅に目を付けてくださったのが、本当にありがたかった。もし、あの支援がなかったら、どうしてたかなあ・・・。多分、仕方ないって諦めてたでしょうね」。八幡さんは、そう話していました。

地域の人やボランティアが集える場として建てた「よりみち」

そして「一人で力んでいた」八幡さんは、力強い味方を得て、桜木町から大槌を復興させるため、地域の仲間たちと一緒に、SNSを通じて全国から送られてきた支援物資の配布や、浸水家屋の片付けを続けました。更にゴールデンウィークの5月5日には、橋本さんたちSNS有志による炊き出しイベントを受け入れました。

「ゴールデンウィークにはSNSでつながった全国の方が来られて、被災者だけではなく、ボランティアさんのための炊き出しイベントを開催してくださったり、お盆には町の人がみんな諦めていた夏祭り開催に協力してくださったり、大槌の町を見渡せる城山に復興モニュメント『希望の灯り』をともしてくださったり、一人で力んでいたのが、いつの間にか多くの仲間に支えられて、復興へ向けて活動することが出来るようになっていました。


ボランティアさんや、復興関係の方たちの無料宿泊所をつくったのは、そんな温かい支援に応えようと思ったからです。次男が住むはずだった家なんですが、津波でやられた1階に橋本さんや高橋昌男さんたちが持ってきてくださった善意の品がいっぱいに積まれたのを見て、ここを復興の拠点にしたいと考えました。

改修費用は生命保険を解約するなどして捻出して、布団や枕などは京都の旅館から頂きました。店でお総菜やお弁当を出しているので、それを少し多めに作って、ボランティアさんには3食好きなだけ食べてもらえるようにしました。


震災から時間が経って、ボランティアの方はだいぶ少なくなりました。復興ということから言えば、ボランティアが少なくなるのはいいことなんですが、時々思い出して、大槌の復興の様子を見に来てほしいですね」

■関連記事

地域の絆を大切に、自分が出来ることを - 大槌町大念寺

支援活動と取材を通じて続いた大槌訪問

桜木町から始まった大槌支援活動

コメント

  1. 当時のことが思い出されます。私は自分のことだけで精一杯だったので大槌には行けませんでしたが、後方支援部隊として微力ながら応援したことは忘れられません。あの時頑張ったメンバーが亡くなったことも衝撃でしたね。

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    1. 種市さんに案内されて大槌に入って以降、水戸葵や河合さん、西本さんなどが大槌で活動したことで、自然と大槌に行くことが多くなり、その中で八幡さんや大萱生さん、またボランティアから大槌に移住した越谷出身で池ノ谷さんらと知り合って、ますます頻度が高くなりました。いろいろな場面が思い出されますが、あれから、もう10年になるんですねえ。

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