丸亀・一鶴、多度津・いこい、琴平・紅鶴。香川県の骨付鶏3選
一鶴の骨付鳥 |
前回の記事(安全・安心な天神町商店街とシジミパワーの宍道湖 - 松江)の続編です。羽田~米子~松江~岡山~丸亀~大豊~高知~羽田と移動しながら、松江、丸亀、大豊を取材する行程の第2弾になります。
松江での取材を終えたカメラマンの田中さんと私は、即、列車に飛び乗り、次の取材のため、岡山経由で丸亀に入りました。松江から特急やくもで岡山まで約2時間40分。ここで特急南風に乗り換え、丸亀までが約40分。途中、米子空港でのゴーアラウンドなど、朝のバタバタぶりをSNSに投稿し、現在は丸亀に移動中と書きました。すると、神戸のDHさんから次のようなメッセージが入りました。
以前、高松出身のライターの卵君から、だし醤油をもらったことがありました。なんでも、讃岐うどんの本場・香川では、冷凍うどんを湯がいてサッと醤油をかけて食べるんだとか。で、確かにそれが、結構イケました。田中さんも、やはり卵君からだし醤油をもらっていたので、二人して、DHさんお勧めの鎌田醤油をゲットすべく丸亀駅に降り立ちました。
が、丸亀駅に到着したのが17時40分ぐらい。鎌田醤油直売所の営業時間は17時半までで、残念ながら入手出来ずに終わりました。
その日の夜、取材先の方たちから誘われ、会食をすることになりました。実は松江からの車内で、我々は、丸亀では骨付鳥の一鶴へ行こうと話していたのですが、これにより、鎌田醤油に続いて一鶴も断念することになりました。ただ、会食の際、讃岐うどん談義になり、鎌田醤油の話も出ました。丸亀の皆さんは、冷凍うどんをチンして鎌田醤油をチャッとかけるのがいちばん! 下手な讃岐うどんの店より、よっぽどおいしいと力説。そして、後で送ってあげるよ、と言ってくださり、後日、本当にだし醤油を送って頂きました。感謝、感謝です。
さて、もう一つの骨付鳥ですが、この半年後、今度はライターの砂山幹博さんと、兵庫県加西と高知で取材をすることになり、迷わず途中の丸亀泊を選択しました。加西の取材後、播但線で姫路へ出て、岡山まで新幹線に乗り、そこから瀬戸大橋を渡って丸亀に入りました。
そして、前回、断念した骨付鳥一筋半世紀の一鶴へ。ここでは、ストレートに目指す骨付鳥を注文。ひなは柔らかく、おやどりは歯ごたえ十分、塩胡椒が効いたパンチのある一品でした。で、テーブルに置かれていた「正しい一鶴の楽しみ方」通り、ガブリ。皮がカリッと焼かれて、とってもオイシイ焼き鳥でした。確かに、一度は食べる価値アリだと思いました。
ただ、香川の骨付鶏は、何も一鶴の専売特許ではなかった、というのが、今回のブログの本題です。※前フリが長くて、すみません。
それは更にこの2年後、丸亀のお隣、多度津に行った時のことです。多度津は、B級グルメ「多度津鍋ホルうどん」の取材でした。
多度津は室町時代初めから約200年の間、香川氏の城下町として栄えましたが、豊臣秀吉の四国征伐と共に滅び、町はしばらく荒れ果てました。が、元禄年間に多度津藩が成立すると、2度目の城下町として栄え、更に幕末に築港した多度津港は、讃岐屈指の良港として町の発展を支える一方、金毘羅参りの港ともなり、多度津は大勢の参拝客でにぎわい、港町として隆盛を極めました。また、1889(明治22)年には、多度津を基点に北は丸亀、南は琴平までを結ぶ四国初の鉄道が開通。こうして多度津は昭和初期にかけ、海運・鉄道業で繁栄することとなりました。
多度津の町並み |
四国の鉄道発祥の地らしく、町には今もJR四国の多度津工場があります。戦後の復興期には、この工場に千数百人の職員が働いていたそうです。が、旧国鉄の合理化や、その後の民営化により徐々に職員の数が減り、それに合わせるかのように多度津の町も、少しずつ活気を失い、ありふれた地方都市の一つになってしまいました。
町のそんな現状を憂える一人に、整形外科医の内海武彦さんがいました。内海さんは常々、地域活性化について考え、町おこしの「柱」となるものを探るべく、気の合う仲間と議論を重ねていました。そんなある日、行きつけの焼肉店「いこい」で酒を酌み交わしながら話すうち、内海さんたちは店自慢のシメの一品に目を付けました。それが「鍋ホルうどん」でした。
多度津鍋ホルうどん |
この「鍋ホルうどん」、国鉄の多度津工場が活況を呈していた頃に考案されたものだそうです。当時、夕方の5時を過ぎると、労働者が一斉に工場の門から出てきます。それを見ていた、ある肉屋の店主が、この人たちを相手にした食べ物屋をやったらもうかるだろうな、と思いを馳せました。
その頃はまだ、庶民が普通に肉を食べる時代ではありません。とはいえ、モツ(内臓)を食べる習慣もありませんでした。が、屠場では従業員が日常的にこれを食べており、肉屋の主も、モツがおいしいことを知っていました。そこで「この放るもん(ホルモン)と酒でひともうけ」と、工場と駅の間に店を出したのです。
するとすぐに安くておいしいと評判になり、中でも「鍋ホルモン」は大人気。店は大いに繁盛し、5時半には席が埋まり、店の鍵を閉めないといけないほどでした。そして、ほとんどの客が最後の仕上げに鍋にうどんを入れて食べ、満足して帰って行ったそうです。
そんな大人気の「鍋ホルうどん」でしたが、多度津工場の縮小と共に、影の薄い存在になっていきました。それを復活させたのが、肉屋の2代目小原隆三さんで、今では3代目に引き継がれ、密かに多度津の名物となっていました。
話が決まれば、あとはとんとん拍子。まずは小手調べと、多度津の秋祭りに「鍋ホルうどん」を出店。更に、内海さんや小原さんが所属する多度津ライオンズクラブに諮り、クラブ内に「多度津鍋ホルうどん普及委員会」(内海委員長)を発足させ、次のステップとして県外に遠征。また、「多度津鍋ホルうどん」を商標登録するなど、もうどうにもとまらない状態に。
そして、普及委員会のメンバー武林正樹さんのアイデアで、「四国全体を盛り上げよう!」と、四国のB級グルメ関係団体に対し、情報交換やイベントの共同開催を目指す「四国B級グルメ連携協議会」の発足を呼び掛けました。武林さんは日本うどん学会の副会長を務めており、同学会理事でB級グルメの祭典・B-1グランプリを主催する「愛Bリーグ」会長である渡辺英彦さん(富士宮やきそば学会会長)に相談し、四国版愛Bリーグ構想を練り上げたのです。
この呼び掛けに、高知県須崎市の鍋焼きラーメンの仕掛け人・松田健さんらが賛同。話はどんどん広がり、愛媛県松山市で開いた発足会には、愛媛県の八幡浜ちゃんぽんや今治の焼豚玉子飯など10を超える団体が参加を表明しました。更にこの動きをマスコミ各社がこぞって報道。四国は愛Bリーグ加盟団体のない空白地帯でしたが、これにより一気にB級熱が高まることとなりました。
いこいの骨付鶏 |
取材を通して、多度津愛の深い方たちだと分かっていたので、話半分に聞きましたが、実際に食べてみると、確かにおいしかったです。それに後で調べたら、多度津町のふるさと納税の返礼品にもなっており、多度津町としても、骨付鶏推しであることを知りました。
ここから更に4年が経ち、カメラマンの田中さんと香川県綾川町で取材をした際、宿をとった琴平町で、またもや骨付鶏に出会いました。
やき鳥「紅鶴」 |
何かそそられるものがあり、路地に入ってみたところ、奥の方にかなり趣のある(※個人の感想です)焼き鳥屋さん「紅鶴」を発見。まずはここで一杯やりますか、と暖簾をくぐりました。
お客さんの姿はなく、やや不安になりましたが、気を取り直して、ビールと焼き鳥を注文。すると、焼き鳥は、七輪の炭火で丁寧に焼いてくれ、すぐに好感度がアップ。しかも、奥の棚には、昼間取材してきたばかりの綾菊酒造の一升瓶が並んでいます。そんなわけで、少し腰を落ち着けるべく、メニューを見ると、骨付鶏があったのです。
ここからは余談になりますが、実はこの後、「紅鶴」の隣にあった「太田川」という店にも入ってみました。こちらも、最初から気になっていたのですが、ちょっと見、どんな店なのか分からなかったので、一度パスしたものの、二人連れだったこともあり、怖いモノ見たさで入ってみました。
すると、とても落ち着くお店で、カウンターに座って、気さくなママさんとの会話を楽しみながら、ゆっくり飲むことが出来ました。
ところで、後で知ったのですが、この路地は、かつて遊郭があった場所だそうです。明治時代、今の琴平公園辺りだと思うんですが、「金山游廓」というのがあって、それがこちらに集団移転。大正の末頃に「琴平新地」と改称され、終戦後の混乱期に隆盛を極めたようです。
その後も、琴平新地は赤線地帯として、こんぴらの名所の一つになっていましたが、売春防止法の施行により、1958(昭和33)年、ついに終焉を迎えます。香川県警本部防犯課の調べによると、売春防止法実施前の57年9月時点で、琴平新地の業者は30軒、接客婦84人。既に6軒が廃業し、残り3分の1も休業状態だったようです。
すると、とても落ち着くお店で、カウンターに座って、気さくなママさんとの会話を楽しみながら、ゆっくり飲むことが出来ました。
ところで、後で知ったのですが、この路地は、かつて遊郭があった場所だそうです。明治時代、今の琴平公園辺りだと思うんですが、「金山游廓」というのがあって、それがこちらに集団移転。大正の末頃に「琴平新地」と改称され、終戦後の混乱期に隆盛を極めたようです。
その後も、琴平新地は赤線地帯として、こんぴらの名所の一つになっていましたが、売春防止法の施行により、1958(昭和33)年、ついに終焉を迎えます。香川県警本部防犯課の調べによると、売春防止法実施前の57年9月時点で、琴平新地の業者は30軒、接客婦84人。既に6軒が廃業し、残り3分の1も休業状態だったようです。
ただ、60年以上続いた遊郭史には終止符を打ったものの、いわゆる「夜の街」としての性格は変わらなかったようで、「紅鶴」や「太田川」のある路地や、その周辺を歩いていると、往時の面影を今も少し、感じられるような気がしました。
【追記】本記事を公開後、取材時にポケットに入れてあったNikon Coolpix S01の撮影データの中に、琴平町の未使用写真が何枚か残っているのを発見しました。それを見ると、金倉川沿いに「骨付鳥」と書かれた赤いのぼりが立っているのを見つけました。位置を確認すると、「紅鶴」とは明らかに違う場所に置かれているようです。で、のぼりの前には「美奈登」という店があったので、こちらを検索してみました。
すると、「琴平駅から徒歩8分のところにある【美奈登】。香川県のご当地グルメ『骨付鳥』や新鮮な魚介料理が魅力のお店です。おすすめはやっぱり骨付鳥!!」と書いてあるではないですか。あれま、こっちにも「骨付鳥」が・・・。こうなると、琴平には他にも骨付鳥があるのでは、と「琴平町 骨付鶏」で検索をかけてみたら、ありました、ありました。しかも、検索結果は、ほぼこの「さぬき名物 骨付鳥 田中屋」で埋め尽くされていました。こちらのお店のホームページには「金毘羅宮へ向かう参道近くにあり、地元客ならず観光客にも人気のお店【さぬき名物 骨付鳥 田中屋】です」とありました。
すると、「琴平駅から徒歩8分のところにある【美奈登】。香川県のご当地グルメ『骨付鳥』や新鮮な魚介料理が魅力のお店です。おすすめはやっぱり骨付鳥!!」と書いてあるではないですか。あれま、こっちにも「骨付鳥」が・・・。こうなると、琴平には他にも骨付鳥があるのでは、と「琴平町 骨付鶏」で検索をかけてみたら、ありました、ありました。しかも、検索結果は、ほぼこの「さぬき名物 骨付鳥 田中屋」で埋め尽くされていました。こちらのお店のホームページには「金毘羅宮へ向かう参道近くにあり、地元客ならず観光客にも人気のお店【さぬき名物 骨付鳥 田中屋】です」とありました。
ただ、「美奈登」も「田中屋」も、Googleストリートビューで外観を見る限り、それほど古い感じはありません。それに、食べログなどの口コミを見ていると、「丸亀の一鶴発祥の骨付鳥」と書いている人が何人もおり、それらから推察するに、この二つの店は、「紅鶴」や、多度津の「いこい」とは違い、一鶴人気にあやかった新規参入組なのかもしれません。
というわけで、琴平の旧遊郭街には、その流れを受けた風俗店だけではなく、骨付鶏(鳥)の店が何軒か集中していることが判明しました。この先、琴平での骨付鶏の歴史が分かったら、改めて追記したいと思います。
鎌田醤油の話をしたことを思い出しました。私は高松に讃岐うどんを食べに行く日帰りドライブツアーの帰りに鎌田醤油に立ち寄ったことがあります。でも、最近はスーパーでも見かけますよね。
返信削除骨付鶏はまだ食べてません。それより、次回は高知?
我が家から徒歩3分のスーパーにもあるので、最近は常備しています。リタイアと同時に巣篭もり生活になったため、冷凍うどんを買っておき、電子レンジでチンして、生卵入りの丼に移し、鎌田醤油をかけて食べたりしていました。ただ、家内は、讃岐うどんより、やらわかいうどんの方がいいらしく、付き合ってくれません。。。博多うどんの方がいいのかも。
削除次回は、ようやく高知に入ります。