愛媛県南部の初盆行事 - 卯之町で出会った盆提灯

卯之町の盆灯籠
盆灯籠(卯之町の光教寺にて)

今日は送り火ですね。と言っても、私も家内も東京生まれ、東京育ちなので、以前は7月にお盆をしていました。

ただ、迎え火、送り火のやり方は変わりません。迎え火は13日の夕方、送り火は16日の夕方に、玄関前で焙烙(ほうろく)と呼ばれる素焼きの平皿におがらをのせて燃やします。以前は、きゅうりとなすに割り箸を刺して、馬と牛を作っていましたが、最近はそこまではやっていません。

で、これがスタンダードだと思っていたのですが、実際は地域によって、だいぶ異なるようです。そもそも、今住んでいる埼玉県の東部でも、皆が皆、玄関前での迎え火、送り火というわけではないみたいで・・・。

卯之町
卯之町の伝統的な美しい町並み
だいぶ前のことですが、お盆に家内の実家がある茨城県の古河市へ行き、その帰りに、庄和町(現在は春日部市)の辺りを車で走行している時、提灯に火をともして歩いている人たちを見ました。最初は何だか分からず、不思議に思ったのですが、すぐにお盆と結び付き、ご先祖様を自宅からお墓へ送って行くのかなと想像しました。

その後、数年が経った8月13日に、市内を車で走っている時、火の入っていない提灯を持って、お寺に入っていく人たちを見掛けました。ははあ、ご先祖様を迎えに行くんだなと思い、前に見たご先祖様の送迎が、庄和町特有のものではなく、少なくとも埼玉県東部では、一般的に行われているのを知りました。郷に入っては郷に従えと言いますが、我が家の菩提寺は水戸なので、今も変わらず、玄関前での迎え火、送り火を続けています。

ところで、2年前の8月後半に、愛媛県西予市を取材で訪問した際、卯之町にある光教寺で、白い灯籠のようなものが並んでいる光景に出会いました。お盆の時期は過ぎていますが、お盆にまつわる風習なのではと思い、調べてみると、やはり盆灯籠であることが分かりました。

西予市も含めた愛媛県南部では、初盆行事として、盆灯籠を飾ります。初盆を迎えた家は、8月1日の灯し始め(とぼしはじめ)までに灯籠を飾って灯りをともし、夕方に自宅の庭先や玄関先で迎え火をたいて、先祖の霊を迎え入れるそうです。

1日に先祖の霊を迎えるのは、愛媛だけの風習ではなく、もともと「釜蓋朔日」(かまぶたついたち)と言って、陰暦の7月1日は地獄の釜の蓋が開いて、霊魂が家に帰ると言われています。釜蓋朔日は初秋の季語にもなっており、1日にご先祖様をお迎えする地域は全国的に見られます。

卯之町
卯之町は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている

ただ、個人的には、ご先祖様が地獄にいることになっている前提が、ちょっと納得しかねますが・・・。

その後、東京に戻ってから、盆灯籠の話を編集部内でしたところ、K嬢が、夏に広島へ取材に行った際、あちこちで色鮮やかな灯籠を目にしたことを話してくれました。今まで見たことのないものだったので、不思議に思って聞いたところ、広島では、赤や青、黄色などの色とりどりの灯籠を墓前に供えるのがお盆の風習だと教えてもらったそうです。江戸時代後期から続く風習らしく、お盆の時期にはコンビニでも盆灯籠が売られているとのことでした。ちなみに、その後の調べで、香川県の西讃地方にも盆灯籠の風習があり、石川県金沢市には箱型のキリコと呼ばれるものがあることも分かりました。

さて、西予市のお盆は、13~15日の3日間は、お膳やお菓子、果物、野菜などをお供えし、15日に送り火をするというので、盆灯籠以外は、私の家で行っている盆行事とほぼ同じようです。ただ、8月下旬には、灯し上げ(とぼしあげ)と言って、菩提寺に盆灯籠を持ち寄り、お焚き上げをして供養します。

卯之町の松屋旅館
卯之町の伝建地区にある松屋旅館

私が卯之町で見たのは、灯し上げ前の盆灯籠だったようです。こうして疑問は解決しましたが、地域ごとにそれぞれの風習があり、決して自分がやっていることがスタンダードではないことを改めて理解したものです。

 ◆

西予市は、愛媛県南西部、2004年に東宇和郡の宇和、野村、城川、明浜と西宇和郡三瓶の5町が新設合併して誕生しました。旧5町のうち宇和は西予市の中央やや西寄り、肱川上流に広がる宇和盆地にあります。宇和盆地は古くからの穀倉地帯で、藩政期には宇和島藩の米蔵の役割を担っていました。また中心地の卯之町は、宇和島街道の宿場町として発展すると共に、四国八十八箇所霊場・明石寺の門前町としてもにぎわいました。

松屋旅館
松屋旅館は江戸時代から続く老舗中の老舗
卯之町には江戸中期から昭和初期までに建てられた町家が残り、白壁、うだつ、出格子など、伝統的な美しい町並みが続きます。また、高野長英の隠れ家や二宮敬作住居跡などの文化財が数多く残り、西日本最古の開明学校や大正時代に建てられた卯之町キリスト教会などの洋風建築も点在するなど、歴史の流れを感じさせます。

司馬遼太郎の『街道をゆく』では、第14巻に卯之町が出てきます。その中で司馬は、同行した挿絵画家・須田剋太が「ここは大変な所です。京都だって奈良だってこんな一角がありますか」と、大興奮で語る場面を描いています。そして司馬は、奈良市の町家を思い浮かべながら、こんな町並みはここ以外に残っていないかもしれないと思った、と記しています。更に二人は、「たとえあったとしても、ここのように町全体が明るくはないだろう」との感想を述べ、それは白壁がふんだんに使われていることと、道路が広いせいではないか、と分析します。

確かに、卯之町の通りは普通の街道より幅が広くなっています。これは大八車がすれ違えるようにしたものだそうで、往時は5軒あったという造り酒屋を始め、宇和盆地の米や宇和ヒノキを扱う商家の大八車が、町を行き交っていたことをほうふつさせます。

そんな卯之町を歩いていると、屋根の上にさまざまな飾り瓦が付いているのを目にします。通常は鬼瓦が置かれている所に、野菜や七福神、家紋、水の字などが載っています。例えば、最近まで旅館だった家の玄関屋根にはえびす様と魚。で、この魚、えびす様だけにタイかと思いきや、これがコイ。しかも阿吽のコイときています。どうやら「商売繁盛、お客様来い来い」ということらしいのです。また、ダイコンとナスを組み合わせた飾り瓦もあり、卯之町で江戸時代から続く旅館の7代目当主である友人の大氣新平さんは、これはそれぞれ女性と男性の象徴で、その家が以前は遊郭だったことを示している、と解説してくれました。

ボルガライス
卯之町「みのり食堂」のボルガライス

友人の旅館「松屋旅館」は、創業およそ250年を数え、犬養毅や浜口雄幸、尾崎行雄、新渡戸稲造、賀川豊彦など、多くの政治家や文化人が利用した老舗中の老舗です。友人の名は大氣ですが、実は昔は大塚姓だったそうです。江戸時代、卯之町で大火があり、松屋旅館も全焼しました。その際、大塚家はかろうじて二人の子どもが助かり、和氣家の助けを借りて旅館を再興させました。そして、その恩義を忘れないよう、和氣家の一字をもらい、大氣姓を名乗るようになったそうです。

松屋旅館には代々の女将が受け継ぐぬか床があります。このぬか床も江戸の大火で一度は失っています。そのため松屋旅館には「火事の時は何をおいてもぬか床だけは持って逃げろ」という家訓があります。松屋旅館名物の「漬け物御膳」では、自慢のぬか漬けの他、塩漬け、味噌漬け、醤油漬け、粕漬け、ブレンド漬けなど、多種多様な漬け物が供されます。しかも、客が到着して食事をする時間から逆算し、野菜ごとにぬか床に入れるタイミングを変え、ちょうどよく漬かった時に提供するというこだわりようで、ぬか床と共に、おもてなしの心も受け継がれていることが分かります。

宇和へお出かけの際は、ぜひ「松屋旅館」へ。大氣さんは、卯之町についてはもちろん、地域について非常に多くの知識を持っていますので、周辺も含めた観光情報も得ることが出来ます。

→ふるさと探訪「幕末から明治の面影を残す文化の里・宇和の今昔 - 宇和

コメント

  1. こんばんは。ご無沙汰しています。

    一度卯之町に行きたいと思いながら、なかなかチャンスがありません。コロナが落ち着いてまだ元気があれば行きたいものです。和氣家って、このあたりの名家なんでしょうか。うちのクラブに一人和氣さんがいます。

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    1. 和氣さんについての情報はないんですが、調べてみると、愛媛と栃木に多いようですね。岡山の和気町にある和氣神社には、和気氏一族の氏神として遠祖の鐸石別命が祭られているそうです。元は皇族? ここまで遠くをたどると、ほとんどの人が神様とか皇族とか、とんでもなく由緒正しい家に行き着くんでしょうけど・・・。鈴木の遠祖も、日本書紀に出てくる饒速日命だそうですから(笑。。。

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