越後に伝わるだるまの原型「三角だるま」

阿賀野市の水原町は、白鳥の渡来地として世界的に知られる瓢湖のある所。そして、瓢湖と並んで水原の名物となっているのが、三角だるまの名で親しまれる起き上がり小法師。

この三角だるま、昔は県内各地で製作されていましたが、他の人形に押されて廃絶し、現在まで続いているのは水原だけ。「鳩屋」の屋号を持つ今井家が、その製作を継承しています。

鳩屋は約200年続く玩具製作の家。3代目までは、農業のかたわらぽつぽつと、木や竹や紙の玩具を作っていたようです。そして4代目から本格的になり、山口土人形といわれる数十種類の土人形や、三角だるまを作り始めたといいます。

ただ、三角だるまという名前は、最初からのものではありません。地元のお年寄りたちの話では、「子どもの頃、よく転がして遊んだけど、単に起き上がり小法師と呼んでいた」というのですから、比較的最近になってからの命名のようです。

養蚕家は、蚕がよく起き上がるように、漁師の家では難破しても早く浮き上がるようにと、願掛けがされ、また水原にある徳鳳寺では、年始に夫婦一対を紙袋に入れて檀家に配ったりしたといいます。こうして、一般のだるまと同じように縁起物として使われることもあったようですが、縁起物のだるまにしては、かわいらしさが先に立ち、ちょっと物足りない感じもします。

だるまというのは、足利時代に、中国の不倒翁という玩具が京都に入って、起き上がり小法師と名を変えたのが始まりとされています。それが江戸中期に、江戸の市民によってだるまに変身させられ、その後、縁起物として全国津々浦々にまで広まったといいます。ですから、水原の三角だるまは、本来の玩具性を残したまま現在に伝わる、いわばだるまの原型とも言えるでしょうか。

三角になった由来は、「越後の子どもたちが、冬に被っていた蓑帽子の形を模したもの」(鳩屋・談)といいます。しかし、起き上がり小法師として最適とも思える形を考えると、製作の容易さも含め、単に製作上都合がよかったから、といったところが、案外、本当かもしれません。

何しろ作りは、紙をラッパ状にして和紙を貼り、土製のおもりを底辺につけただけの単純なもの。ただ、それに彩色が施され、顔が描き加えられると、がぜん民芸としての趣を醸し出すから不思議です。

2点の目とへの字の口。てんで好き勝手なところにある下がり眉にどじょうひげ。八方破れでユーモラスな面相です。色も赤、青、黒という強い色彩が基調なのにケバケバしさがなく、上品な感じさえします。長い間、人々に愛され、そのままの形で残ってきただけのことはある玩具です。

取材をさせて頂いた「鳩屋」6代目の今井徳四郎さんは、1895(明治28)年生まれ。取材時は95歳でしたが、眼鏡なしで顔を描いており、101歳で亡くなる直前まで、人形の製作をされていたそうです。

三角だるまは、目、鼻などの基本的な形は決まっていますが、今井さんのその時その時の筆勢で微妙に違うのが楽しいと、取材をしていて思いました。鳩屋ではこの他、天神さんを始め馬乗り鎮台、女先生といった昔ながらの土人形三十数種類やだまし玩具ぺたくた、そして屋号の由来ともなっている土製の鳩笛などが作られていました。

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